第1話 再会を願う花─1
今年も、桜を見るために、いつもの場所へと向かう準備をする。
スマホの電源を入れ、その間にパジャマから私服に着替える。服装はいつもよりおしゃれを心がけ、上は無地の白のプルオーバーパーカーに黒のテーラードジャケットをはおり、下は黒のスキニーパンツを履く。
スマホを手に取り、画面をつける。
7:05 3月27日
時間を確認し、今日の天気を確認する。日課というやつだ。晴れを表す太陽のマークと雨を表している開いた傘のマークが並んでいて、予報では午後7時頃から雨が降り始めるらしい。
といっても、お昼ぐらいまでには今日の予定は終わるので、傘を持っていく必要はなさそうだ。雨の降る時間が早まったとしても、最悪はパーカーのフードで凌げばいい。こういう日のフードには、安心感が沸くのと同時に心強さを感じるものだ。
洗面所に向かい、鏡の前で服装の確認をして、歯を磨く。歯を磨き終えた後は顔を洗い、髪を整えて慣れない整髪料をつけて支度完了。
髪の動かし方とか、束感? といった髪のセット術についてはまだまだ勉強不足で、自分なりに整えた髪型は、寝癖に見えないようにするという、最低限のラインをクリアしたぐらいの出来だった。
台所へと向かうと、母親が不機嫌そうに僕を睨んでいる。嫌悪感を抱いた目だ。
母親に挨拶をしても、ここ数年返ってきたためしがなく、返ってくるのは舌打ちだけ。
僕の顔を見たくないのだろう。母はドンドンと足音を立て、いつもより早く仕事へと出かけた。
長らくこんな生活が続いている。さすがに11年もの間、毎日同じことが続いていれば慣れてしまうものだ。
どうしてこのような現状に至ったのかというと、今から11年前の春──僕が7歳の頃に、父親が家を出ていったのが原因だった。出ていった理由は、父が不倫をしていて、他の女性のところに行ってしまったからだ。
今でもあの時のことは、はっきりと覚えている。
その日は僕の誕生日で、家族3人で昼食を食べ終えた後、父は「ケーキを買ってくる」と言って、家を出た。毎年ケーキを買ってきてくれていたから、その言葉を疑いもしなかった。
けれど、夜になっても父が帰ってくることはなく、電話でもメッセージアプリ『LIME』でも連絡がつかない。
母は僕の分の夕飯を作り、僕に留守番を頼むと、父を探しに出かけた。何時になるかはわからないから、寝る時間になったら寝るようにも言われていたが、父のことが心配でベッドに入っても眠ることはできなかった。
母が帰って来たのは22時を過ぎた頃だった。
聞きなれた鍵の開く音がした途端、2階の自分の部屋から出て、玄関まで速足で階段を降りる。その短い間に子どもながら色々なことを考えていた。父が帰ってこなかったのはすべて両親の作戦で、誕生日のサプライズがあるのではないのかとか。遠いところまで、美味しいケーキを買いに行っていたとか。
けれど、玄関の前で靴も脱がずに茫然と立ち尽くしたまま、抜け殻のような状態で動かない母の姿から、一瞬にして明るい予想は消え失せた。
今まで母のそんな姿を見たことがなかった戸惑いもあったけれど、恐る恐る「どうしたの?」と尋ねると、母は「お父さんはもう帰ってこないわ」と言った。
理由を訊いても母は無言のままで、何度か訊き続けると、母は今まで上げたことのない怒鳴り声で「ほかの女のとこに行ったの!」と言い、そのまま泣き崩れた。
涙を流す母に近づくと、何かが破裂したような音とともに、自分の意思とは関係なく、右下に視線が乱暴に移動した。やけに耳に残る乾いた音だった。
何が起きたかも理解が追い付かない状態で視線を母に戻すと、悲しさと怒りを同時に混ぜ合わせたような瞳をしていて、前に出ていた震える右手から、僕はぶたれたのだと気づいた。
初めてだった。人に暴力を振るわれることも、母にぶたれることも……。
ぶたれた僕の左頬に熱を感じ始めた頃、声になっていたかもわからないくらい小さな声で、「え?」という言葉が漏れた。
冷静な状態を保つことすらもできないまま、母は追い打ちをかけるように、僕に言う。
「あんたの顔はあの男に似てる。私に近づかないでよ! 気持ち悪い!」と。
自己を守るために働いたのであろう防衛本能と、最愛の人に裏切られた憎悪とが、母の目を敵意のまなざしへと変えた。
そして、思い出したかのように、ゆっくりと、じんわりと左頬に痛みを感じるとともに、胸の中に大きな穴が空いた音がした。痛かったはずなのに涙は出なくて、代わりに出たのは「ごめんなさい」という自身の存在を嘆いた、謝罪の言葉だった。
本当はそんな謝罪が、この世にあってほしくはないけれど。
その夜、僕は1人枕を濡らしながら眠りについた。今日の出来事がすべて夢であってほしいと、起きるはずもない奇跡を願いながら。
次の日から、母は家事を一切やらなくなった。といっても、やらなくなったのは僕自身に対してのもので、料理や洗濯、洗い物といったことは自分の分だけやっていた。幸いなことに、僕は家事の手伝いをすることが多かったため、方法に困ることはなかった。
さらに言えば、ガスコンロではなくIHコンロだったこともラッキーだった。小学1年生がどれだけ火を気を付けて扱おうとしても、気を付けなければいけない基準が間違っている場合もあるし、そもそも火を使う授業は小学1年生ではやらない内容だ。本当にIHコンロと子ども包丁には、感謝してもし足りないぐらいの感謝をしている。
父親が今どこにいるかは知る由もないが、会いたいとは思わないし、僕は彼のことを恨んでいたりもする。仮に会えたとしても、あの頃に戻ることはない。あの頃の母はもう帰ってはこないのだから。
そんなことを思い出しながら、即席朝食――マーガリントーストを食し、再度歯を磨き、玄関へと向かう。
他の家と何も変わらないシンプルな玄関だが、ここを見るといつも幽閉されている気持ちになる。暖かさを感じるライトブラウンの木製のフローリングから、ひんやりとしたグレーの三和土へと変わる境目が余計にそう思わせるのだろうか。
この家庭に愛情などあるわけもなく、母親から向けられるのは嫌悪のみ。経済状況からひとり暮らしはさせてもらえず、ただ耐えるしかない日々は、鎖で繋がれているような気分だった。
けれど、その日々もあと少しだ。
4月から僕は大学生になり、大学近くのアパートでひとり暮らしを始める。
僕は高校3年間部活には入らず、近所のスーパーでアルバイトをして、ひとり暮らしをするための資金を貯めた。
大学には行きたかったこともあり、返済する必要のない、給付金型の奨学金を受け取れるように勉学に打ち込んだ。もしその権利が得られなかったとしても、貸与型の奨学金で大学に行くつもりではいたけれど、無事に給付金型の資格を得ることができて本当に良かった。
大学は母親と会うことがないであろうところが良かったので、県外の大学を選び、受験した。
逃げられない環境に11年間居続けるというのは、僕にとって地獄そのものだった。
本当に……。
小さい頃は苦しくて涙を流したし、どうにか母親に好かれようともがいていたこともあった。学校のテストで満点を取ったり、読書感想文で賞を取ったりと、喜んでもらいたい一心で頑張った。
けれど、その頑張りはむなしく、評価されることもなければ、視界に捉えられることもなかった。小学校を卒業するときには好かれるようとするのは止め、我慢することを自ら選んでいた。
決定打となったのは、母の「あんたを捨てないだけ感謝して」という心無い言葉で、部屋でひとり涙を流したのを最後に、僕が泣くことはなくなった。
この11年間の経験によって、大抵のことでは挫けない、ある種不屈の精神を身に着けられたと、開き直っている部分はあるけれど、感動する景色や絵画、物語に触れても涙を流すことができないのは困ったものだ。
映画館に行った時なんか、感動シーンで鳥肌は立つことがあっても泣くことができず、周囲の人が泣いているのが目に入ると、自分の心が枯れてしまったのではないのか、と感じてしまうことがある。
映画館に足を運ぶたびにそんな気持ちを抱いていては、心から楽しむことはできないので、1番前の席を選ぶようになった。1番前の席を選ぶ人はほとんどおらず、隣を気にせずに映画を楽しめるという発見があったので、そういった意味ではよかったのかもしれない。
お気に入りの黒のスニーカーを履き玄関の扉を開くと、眩しい太陽の光が入り込み、目を細める。まばゆいほどの希望が、この先の未来にあればいいな、とそんなことを思った。
遠出もできるように、初めてのバイト代で購入した、青色ボディのクロスバイクにまたがり、目的地へとペダルを漕ぎ始める。
春とは言え、まだ北風が吹いていて少し寒さを感じるが、透徹とした空は見ていて気持ちがよい。穢れのない空色が、今いる自分の窮屈な世界がすべてではないことと、世界の広さを思い出させてくれる。
そんな美しい景色に口元が自然とあがり、クロスバイクのギアを1段階上げた。
景色の流れる速さが変わるとともに、風の音が少し大きく聞こえてくる。風の抵抗とギアを上げたことによって足が少し重くなる感覚は、足を鍛えられている気がして嫌いじゃない。
流れる景色の中、春の日差しの下で、所々に咲く桜は生き生きとして見えた。
北風によって下がり始めていた僕の体温も徐々に熱を上げ、額にじんわりと汗をかき始めた頃、目的地である大広場自然公園に到着した。
大広場自然公園は、僕が8歳の時に偶然見つけた場所で、それ以来、毎年3月27日にはこの公園に来るようにしている。
大広場という名の通り公園内は広く、こどもが遊べる遊具のほかに芝生が一帯に広がる場所もあって、ピクニックにはもってこいの公園だと言える。
辺りを一望すると、満開の桜がところどころに咲き乱れていて、とても綺麗だ。
この公園は毎年祭りがあり、3月27日はさくらの日ということで、多くの人が足を運ぶ。
屋台もあるため、昼の時間帯はとにかく人で混雑していて、静かに花見をすることはできない。だからこそ、人ごみよりも静かな場所を好む僕は、人の少ない朝の時間に毎年来ているのだ。
時刻は8時30分。
屋台はまだ準備中だし、公園内を散歩している人はいるが、シートを敷いてお花見をしている人はいない。
まあ、お花見と言っても口実で、ここへ来るほとんどの人は、本当は場所なんてどこでも良くて、ただ集まって飲み食いをしたいだけなのだろうと思う。花より団子が大半で、花を真剣に見ている人はいることにはいるだろうが、ごくわずかのはずだ。
そんなことを毎年のように思いながら、屋台から離れたところにある、古民家のたこ焼き屋へと向かった。
「おお、いらっしゃい。なんだ、今年もボウズひとりか」
僕は毎年決めたところでお昼を食べるのだが、その昼食というのがここの店のたこ焼きだ。
大広場自然公園と一緒に見つけたお店で、それ以来、ここの店主には毎年お世話になっているため、親戚のような感覚に近い。といっても、僕の両親が離婚してからは、親戚とは一切会っていないので、実はおじさんの方が会っている回数は多かったりもする。
店主の容姿は、顔は強面でガタイもよく、体もでかい。全身黒の洋服に黒のエプロンをつけていて、頭には白いタオルをバンダナのように巻いている。
「おはようございます。4月から大学生なんですから、そろそろボウズ呼びはやめてくださいよ」
「そうか、もう大学生か。でも、俺にとっちゃボウズはボウズだ。諦めな」
おじさんはそう言って、きりっとした目つきを少し細めながら白い歯を見せて、ははっ、と笑った。
「それと、高校卒業と大学合格おめでとう! 本当によく頑張ったな」
おじさんはエプロンの両脇のポケットからクラッカーを2個取り出し、2個同時に紐を引く。
発砲音のような音と一緒に無数の輝く細いリボンが、空中で小さな放物線を描き、僕の頭の上や肩に落ちてくる。火薬の匂いを感じるのと同時に自分の口元が上がった。
このやり取りをするのは、これで3回目になる。
1回目は小学校を卒業した時。この時は中学校入学のお祝いも一緒にしてくれて、鳴らしたクラッカーは2個。
2回目は中学校を卒業した時だ。この時も今回みたいに、おじさんは志望校に受かったことも同時にお祝いをしてくれて、クラッカーを2個鳴らした。
なぜクラッカーを2個鳴らすのか訊いたことはないけれど、卒業と入学の2つのお祝いだから、という理由なのかもしれない。
おじさんのお祝いの言葉が素直に嬉しくて、照れながらお礼を言う。
「あ、ありがとう……ございます」
おめでとうという言葉は、学校でも担任の先生から笑顔で言われたけれど、それはどこか機械的で、他人事のようなものだった。実際、他人だから何も問題はないのだが、仮に僕が志望校に受からなかったとしても、先生の言葉や表情が違うだけで、感じるものは一緒なのだと思う。
子どもを持つどこかの男性が、スーツを脱いで父親に変わるように、教師も家に帰れば先生という名を脱いで、ひとりの人間へと変わる。
先生には先生の日常があって、その中で抱える悩みが当然あるだろうし、四六時中、生徒ひとりひとりのことを考えているわけじゃないだろう。だからこそ、機械的に感じたとしても仕方がないし、そもそもそれを責める方が間違っている。
ただ、おじさんの表情や声音が、心から僕を祝福してくれていることがわかるから、無意識に傲慢な比較をしてしまうのだろう。
まあ、家では祝われること自体がそもそもないから、機械的でも偽物でも嬉しいことに変わりはないし、本物ならなおさら嬉しい。
僕は頭や肩についた、金や銀色をした細いリボンを取り、手のひらでくるくると丸める。
「引っ越しはもう住んだのか?」
「いえ、引っ越しは明日の予定です。鍵はもう貰ってて、いつでも住める状態ではあるんですけど、今日の予定が終わってからが良くて」
鍵を貰ったのは2日前で、本当はすぐにでも家を出たかったのだが、引っ越し業者の予約を最短で取れたのが明日だったため、ギリギリの引っ越しになってしまった。
どちらにしても、ここへは来る予定だったので、結果オーライというやつだ。それに、やっとの思いで出ることができたこの町にすぐ戻りたくはなかった。
「そうか」
おじさんは先ほどとは違う、小さな微笑を浮かべ、落ちたリボンを屈んで拾い始める。それを見て僕も屈み、祝ってくれたことへの感謝を心の中でもう一度して、リボンを手に取った。
出入り口の前で放たれた、金や銀色をした細いリボンを男2人で回収するという時間は、なんともシュールな時間だった。
「よお〜しっと。たこ焼き焼くか!」
おじさんは腰に手を当てて伸びをする。何年振りかに見た彼の癖は未だなお健在で、その姿を懐かしむ自分と、嬉しいと感じる自分がいる。
僕の環境や周囲の景色、関わる人たちはこれから変わっていく。そんな中でも、確かに変わることのない、大切なものの存在があるということが、僅かに抱えていた大学生活への不安を和らげてくれた。
腰を上げ、調理場と距離の近いラーメン屋のようなカウンター席に向かおうとしたのだが、僕の足は止まる。
出入口側にレジがあるのだが、その隣にけん玉の皿胴のような形をした白の花瓶が置いてあり、オレンジ色の花が1本入れられている。
品種はラナンキュラスという3月から4月に咲く、春の球根花だ。バラやシャクヤクのような花の形をしており、淡い色をしたその花はどこか優しい雰囲気を感じさせる。オレンジ以外にも色があり、赤、白、紫、黄、ピンクがあり、それぞれの色ごとに花言葉が存在する。
オレンジの花言葉は確か……
小さい頃の記憶がふと蘇り、ひとりの人物を頭の中で思い浮かべていると、「いつものでいいか?」というおじさんの声が聞こえ、視線をおじさんに向けた。
「はい。お願いします」
味の種類があるわけでもなく、選べるのはマヨネーズの有無と個数ぐらいだ。僕は毎回マヨネーズ有りの6個入りを頼むので、おじさんも覚えている。席に着き、出来上がるのを待っていると、数枚重ねられている新聞の存在に気づく。
「新聞?」
「ああ、窓の掃除を新聞紙でやるといい、みたいな感じのをテレビで見てな」
「なるほど」
新聞紙で窓を拭くと窓が綺麗になるというのは、僕もテレビで見たことがある。詳しくは見ていないが、確か新聞紙は普通の紙よりも繊維が粗いとかで、汚れを取りやすいんじゃなかったっけ。
しかし、おじさんの用意している新聞紙には油がはねた跡があり、掃除に向いているのかは微妙だが、まあいいか。
たこ焼きが出来上がるのを待っている間は特にすることもないので、一番上の新聞を手に取り、読んでみることにした。
雑に目を通していると、『一家惨殺事件』と書かれた、事件の割には小さい記事を見つける。そこには母親と父親の遺体、そして、犯人と思わしき遺体が発見され、7歳の長女は行方不明と書かれていた。
「おじさん。この新聞いつのですか」
たこ焼きを焼いているおじさんにパーテーション越しに見せる。
「ん? 油がはねててわからねーけど、古いんじゃないか」
おじさんは見るや否や作業に戻る。食べ物を作っている最中にする話でもなかったので、この話は切り上げることにした。
「はいよ」
おじさんは、できたてのたこ焼きをビニール袋に詰め、それを僕に渡す。
「ありがとうございます」
会計の400円をぴったり払おうとすると、おじさんは首を横に振る。
「今日はサービスだ」
「……」
おじさんにお会計を拒否されるのはこれで4回目──いや、正確に言えば3回目になる。
小中学校を卒業した時で2回。その時も、おじさんは今日と同様に「サービスだ」と言って会計を受け取ってくれなかった。
おじさんにとって、僕は赤の他人であり、数いる客の内のひとりでしかない人間の入学や卒業を、おじさんが祝う必要なんてないし、値段がついているものにお金を払わないというのは、抵抗があった。
なので、1番初めは断ったのだが、「たこ焼き100個無理やり食わされるのと、素直にこのたこ焼きを受け取るの……どっちがいい?」というおじさんの一言と、ただでさえ鋭い眼光をさらに強めたおじさんの目を見て、拒否する意志は完全に消えた。
あの時のおじさんの目は凶器のように鋭利で、身の毛がよだつほどの恐怖を感じたし、実際に「ひっ」という情けない声が反射的に漏れ出た。
それ以降、おじさんのサービスに対して僕がどうしたのかは、言うまでもない。
「あ、ありがとうございます」
「なんだその顔は」
どうやら記憶の中に眠っていた恐怖心が顔を強張らせ、いつしかしたひきつったような笑みになっていたらしい。
「ああ、いえ。明日からのことを考えてしまって」
誤魔化しのつもりでとっさに出たものだったけれど、嘘ではなかった。実際、今までの日常が一変し、見慣れたものもほとんどなくなるというのは、考えれば考えるほど不安になるというものだ。変化を望んでいたはずなのに、いざ変わるとなると、途端に怖くなるのは変な話だ。
「そうか」
数秒の沈黙が流れ、おじさんは口を開く。
「何かあったらいつでもここに来い。坊主は、自分から話をすることはしないだろうし、話せとは言わん。それに俺は……口下手だからな」
僕が自分の話をしないというのはその通りだが、彼は決して口下手ではないのだと思う。
おじさんが口癖のように「そうか」と言うのは、その間で言葉を選んでいるからだということを、僕はこの10年間の経験で知っている。心意を故意に語らない僕とは明らかに違い、正直でまっすぐな人だ。
だからこそ、僕は……幼い頃にした彼との約束を、果たしたいと思うのだ。何年かかったとしても。
「でもまあ、なんだ。たこ焼きぐらいはいつだって焼ける」
腕を組み、照れたような笑みでおじさんは言った。
「はい……ありがとうございます」
言葉を考えたけれど、どの言葉を選んでも感謝をうまく伝えられる気がしなくて、誠実ではない僕は安定の言葉を選んだ。伝えたい気持ちは感謝だからこそ、言葉に嘘はないのだが、伝えたいことは言葉にはならないのに、しっかりと心の中にある。
そんな臆病で不器用な自分自身に心の中でため息を吐き、お別れを告げる。
「それじゃあ、また来年来ます」
「おう! 今日は会えるといいな」
「はい。本当に……」
何年たっても会えると信じている愚直な僕を、おじさんはいつまでも笑わずにいてくれる。それどころか、諦めるな、と声をかけてくれるほどに。
その声に僕は何度救われてきたことだろう。
僕はおじさんの後方に見えた、1本の花を一瞥する。店内で異彩を放つそのラナンキュラスが、彼が僕の青さを笑わない理由をすべて物語っている。
視線を彼に戻し、お店の扉を開けて、軽くお辞儀をする。
「ボウズ、頑張れよ!」
おじさんは喝を入れるかのように言い、笑顔で手を振る。おじさんの笑顔は顔に似合わず優しい。何度見ても見慣れない笑顔ではあるけれど。そんなことを思いながら手を振り返し、店を後にした。
おじさんのお店の近くには大きい広場があり、そこで毎年買ったたこ焼きを食べている。店内で食べることも当然できるが、それをしないのは、一緒にこのたこ焼きを食べたい相手がいるからだ。
しばらく歩くと、目的地へと通じるトンネルのような桜並木が見えてくる。そこを抜けると、異世界空間のような景色が広がり、色濃く広がる草原の中に、一筋の大きな光が見える。
その光の正体は、1本の桜の木だ。
桜の花びらが光の粒子と化し、春の風と共に漂っている。
それはまるで夏の風物詩である蛍のようで、とても幻想的な光景だ。春の風物詩を、夏の風物詩で例えるのは無礼だと言われるかもしれないが、異なった季節で例えるからこそ、味が深まるのだと僕は思う。
「綺麗だ……」
思わず口から声が洩れてしまうほど綺麗で、美しい。
品種は広く知られているソメイヨシノで、日本の桜の大半はこれだ。僕がここへ来る途中で見た桜もすべてソメイヨシノだ。
しかし、ここにあるこの木だけは、それらとは明らかに違う。品種は一緒だが、ほかの桜にはない優しい光を放っている。
こんなにも神秘的な現象が起きているのに、大広場自然公園のホームページを見ても、特徴を調べてもひとつもヒットしなかったのは不思議だ。
ごつごつとした木に手をあて、目をつむる。日光が当たるからだろうか、ぬくもりのようなものを感じた。
すぐ傍に、4人くらい座れそうな背もたれ付きの木製ベンチがひとつあり、腰を下ろし桜を眺める。
春風に揺られ、木々の間から差し込む陽光に右手を小さく額の前に出し、目を細める。少し狭くなった僕の視界の中で見る桜の木は、まるでスポットライトに照らされる舞台俳優のようで、無意識に微笑んでいた。
心の中で、桜を見た感想をつぶやくだけつぶやいた後、ふと、昔のことを思い出す。
僕がここに来るようになったのは10年前、8歳のときからだ。
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