プロローグ


 僕が9歳だった頃。緑で囲まれた、古民家のたこ焼き屋の近くで、1人の女性に出会った。


「この世界、には、鬼、が、存在する」


 と、赤い瞳をした彼女は、僕が買った出来立てのたこ焼きをほおばりながら言った。


 眠たげな目と違和感のある言葉の区切り方が、印象的な女性だった。身長はおそらく180cmぐらいで、見上げるのにかなり首が疲れた。


 彼女が黒のニットワンピースの上に着ている白のロングカーディガンが、たこ焼きのソースで汚れはしないかと少しはらはらしていたけれど、彼女の言葉でその意識は完全に僕の中から消えていた。


 瞳と同じ色をした彼女のポニーテールが春風に揺れ、朝日が赤髪を照らしている。


 光に当たる彼女の髪は、まるで夕焼け空のように鮮やかで、色濃く浮かぶ夕日のような紅色をしていた。


「は、はあ……そう、なんですね」


 あまりに現実離れした彼女の発言に対して、僕は気の抜けたような言葉で返してしまった記憶がある。

 

 きっと、今の僕であれば「そうなんですか!?」と、興味のある素振りを見せて、相手に不快な感情を抱かせないように努めることができただろうけれど、当時の僕は9歳だ。


 感情の抑制をするには幼すぎるその年齢では、敬語を扱うことはできても、突然の出来事にまで配慮することはできなかった。


 ましてや、初めて会ったばかりの人からそんなことを言われるなんて、今の僕でも想像することはできないし、むしろ想像する方が難しい。


 たこ焼きをくれたお礼をする、というから一体何をするのかと思えば、まさかこのことだったとは……

 

 一度、断りはしたが、やはりお礼を強引にでも断るべきだっただろうか、と後悔の念に襲われつつも言葉を返すことにした。


「えっと、怒ると恐い人とかに言う例えですか?」


 彼女は、僕の疑いに満ちた表情を気にする素振りもなく──というより、初めから僕の反応がわかっていたかのような様子で、またひとつたこ焼きを口に運び、「ちが、う」と言った。


 眠たげな目を閉じて、こくこくと頷く女性の口元は、少し微笑んでいるようだった。


 ポニーテールが彼女の動作とともに揺れていて、そのポニーテールも不思議と喜んでいるように感じたのを覚えている。


 もちろん、髪に感情があるわけではないけれど。


 刹那、彼女は瞼を開き、赤い瞳を宝石のように輝かせながら「美味しい……」と、一言、吐息のように漏らした。


 彼女の眠たげな目は変わらないはずなのに、生き生きとしているように見えるのは、何だか不思議な感覚だった。


 年齢はおそらく、20代半ばか後半といったところだと思う。けれど、彼女の反応は子どもだった当時の僕から見ても、幼さを感じた。


 この世界には鬼が存在すると、彼女は確かに言った。

 

 比喩表現として使う鬼ではないのなら、残るは妖怪の方しかない。

 

 少年の頃の僕は疑い半分ではあったけれど、自分の知らない生物がいるかもしれないという事実に、ほんの少しの好奇心と恐怖心が同時に芽生えていた。


 それは、夜の学校に入る感覚と似ているのかもしれない。


 もちろん、入ったことはないけれど。


 鬼のイメージといえば、昔話なんかに登場する妖怪で、人間よりもはるかに大きな体をしていて、口外に突出するほど長い肉食獣のような鋭い牙を持つ。


 髪型はパーマがかかっており、その頭には角が生えていて、1本だったり2本だったりする。


 肌は赤色や青色をしていることが多いが、節分なんかだと実は他にも黄色や白、緑に黒といった、違う色の鬼も存在していて、各色ごとに意味があるらしい。


 有名なことわざ通り、巨体に見合った金棒を持っているイメージなんかもあったりする。


 彼女の言う通り、そんな妖怪としての鬼が本当に存在するとなれば、僕たち人間なんて、簡単に殺されてしまうだろう。


 それに、目撃情報なんてものがあれば、テレビやSNSはたちまち鬼の話題で溢れかえることは必至だ。


 そんなことを子どもながらに考えていると、彼女が口を開いた。


「はあ……なくなっ、ちゃった……」


 彼女は 本当に残念そうな表情をした後、目を閉じて手を合わせると、「ごちそうさま、でした」と言った。


「少年、が、思っているよう、な、鬼じゃない、よ。こんな感じ、でしょ?」

 

 小首をかしげながら、顔の横で右手のひらを上に向ける。刹那、何もないところから、節分で目にするような可愛いイラストの仮面が、彼女の手に出現した。


 何が起きているのかわからず、困惑が隠せなかったけれど、テレビなんかで観る手品とは明らかに違うことだけはわかった。


「良い顔をする、ね」


 驚きが顕著に現れていたのだろう。彼女は少し微笑んだ。


「今の、は、魔法。なん、でも、できちゃう、自由な、力」


「お姉さんは鬼……なんですか?」


 鬼が魔法を使えるなんて話を聞いたことがないのに、考えるよりも先に言葉が出ていた。


 しかし、彼女は僕の質問には答えず「どうで、しょう?」と、いたずらな笑みを浮かべただけだった。

 

「魔法はどうやったら使えるようになりますか?」


「少年、は、魔法、で、何かしたいこと、がある、の?」


 僕は魔法で何がしたいかを少し考えてから口を開く。


「遠くに離れちゃった友達がいるから、いつでも会えるようになりたい、です。そしたら、また魔法を使って、その友達と一緒に色々な場所を探検してみたい。きっと楽しい」


 彼女は眠たげな目を少し大きくして、切なさを感じさせる微笑を浮かべた。


「そっか……。とても素敵な、魔法、だね」


「できるようになりますか?」


 彼女は左右に首を振る。


「残念だ、けど、人間さん、には魔法、は、使えない」


「そうですか……」


「魔法、は、使えない、けど、友達を思う気持ち、は、とても大事。忘れたら、ダメだ、よ?」


「はい」


 まるで学校の先生に言われているような感覚がして、僕は真面目な表情で答えた。


 それを見てなのかはわからないけれど、彼女も真剣な表情で言う。


「それに、少年、の、言ったこと、は、わたしでも、できない、こと」


「魔法を使えるのに、できないことがあるんですか?」


 現在の僕と9歳の僕の頃では、魔法に対する認識は大きく異なっていて、当時の僕は魔法は万能で夢のような力だと思っていた。


 だからこそ、魔法にできないことがあるという事実に驚いた。


「ある、よ。たくさん。大切なこと、は、魔法では、どうすることもできない、から」

 

「大切なこと……」


 彼女は小さく頷く。


「わたし、も、会いたい人、が、いるけれど、難しい、から……。少年、と、おなじだ、ね」


 そう言って、彼女は何かを諦めたような小さな笑みを浮かべて、視線を僕の後ろに移した。


 その視線が気になって後ろを小さく振り返ると、そこにあったのは、彼女にあげたたこ焼きを買ったお店だった。


 視線を彼女に戻すと、今度は僕にその笑みを向け、膝に手を当てた。


 目線を小さな僕に合わせて、鬼について少しだけ話してくれた。


 どれも驚く話ばかりだったけれど、中でも驚いたことは2つ。

 

 ひとつは、この世界には天国と地獄が存在しているということ。


 もうひとつは、鬼の容姿は人間の姿をしているということだ。


 念のため、肌の色を確認したが、節分のように肌では色分けされていないらしいようで、安心した。

 

 それから、僕は子どもながらに彼女にいくつかの質問をした。


 彼女は僕の質問に対して嫌な顔をせず、答えてくれた。彼女のこと以外は。



 彼女は膝についた手を腰に当て、伸びをする。


「よお~し、と」という言葉とともに。


 その動作と言葉が記憶の中にいる人物と重なって見えて、僕は彼女がここに来た理由を理解した気がした。


「たこ焼き、とても美味しかった……ありがとう。いつ、か、あなたにお礼をする、ね。いつになるか、は、わからないけれど、必ず」


 彼女は首から下げていた指輪の付いたネックレスを優しく両手で掴み、お辞儀をする。


 切なげに見えるその姿に、なぜだか僕は自分を重ねていた。

 

 頭をあげ、彼女は優しく微笑む。


「お礼ならさっきもらいましたよ」


「これ、じゃあ全然、お礼に、は、ならない、よ」


 そうだろうか。


 むしろ、たこ焼きではそぐわないほどの情報を貰ってしまっている。


 まあ、たこ焼きに見合ったお礼が何なのかはわからないけれど。


「それと、さっき言ったこと、と、魔法、のこと、は、誰にも言ったらダメだ、よ。ひ・み・つ? ね」


 そう言いながら、右手の人差し指を口元でたてて、小首を傾げた。

 

「またね、少年」


 すると、彼女の体が白い光に包まれ、次に起こるであろうことを予想する。

 

「はい、また……」


 僕の言葉を最後に、予想した通り彼女は目の前から姿を消した。


 うっすらと輝く雪のように静かで優しい光が僅かにまだ残っていて、その粒子が消えるまで、僕はその場で佇んだままだった。


 その後、たこ焼き屋に再度足を運ぼうと考えたけれど、彼女の気持ちを裏切ってしまうような気がして、目的地へと進むことにした。




 結果として、彼女の言う通り、この世界には鬼が存在した。


 僕が出会った鬼は3人。


 数え方が「人」であっているかはわからないけれど、人間の姿をしているのだから、間違ってはいないだろう。

 

 鬼は魔法のようなことができる。


 僕が見たその力は、何もないところからものを出したり、何かに変えたりといった非現実的なものだった。


 きっと、やろうと思えば漫画の世界にあるような、魔法戦闘を繰り広げることができたのかもしれないが、そのようなことが起きることはなかった。


 鬼と出会った日のことは、毎日ではないけれど、今でも不定期的に夢で見る。


 夢を見たその日は、決まって涙を流して目が覚める。


 頬を伝う生暖かい雫の温度が下がる感覚は、夢の中で見た、希望が絶望へと変わっていく瞬間と似ていて、気分の良いものではない。


 不快感とともに過去の記憶を鮮明に思い出し、夢の出来事では決してない、過去に起きた本当の出来事であったことを心と体で実感する。


 僕にとっての鬼との出会いは、良い思い出のみで構成されるほど簡単なものではなく、複雑に混ざり合った感情がセットになって、初めて記憶という形を成していた。


 体を起こし、涙を寝巻きの袖で拭い、ダークブラウンのカラーボックスの上に置かれた、小型のカレンダーの日付部分についた赤丸が目に入る。


 そっか。


 今日は3月27日だ。


 僕にとって──いや、僕たちにとって、この日付は特別なものだった。


 その日は一般的にさくらの日と呼ばれ、咲くのごろ合わせである3×9と、七十二候の「桜始開」(さくらはじめてひらく)の時期と重なることから、3月27日はそう呼ばれる。


 1年を春夏秋冬の4つにわけたものを、さらに6つに分けた二十四節気。


 立春とか夏至とかがこれに当たる。


 それらの節気を約5日ずつの3つに分別した期間が七十二候と呼ばれ、その中の第十一侯が「桜始開」。


 3月25日〜3月29日頃までで、このぐらいの時期に桜にちなんだイベントが、いろいろな場所で開かれることが多い。


 僕が今日向かおうとしている場所がまさにそうで、普段は静かな場所が賑やかな場所へと姿を変える。


 そのギャップが、余計に思い入れのあるものに変えているのかもしれない。


 そんなことを考えながら、寝巻きを少しだけ雑に脱ぎ、いつもよりおしゃれを心がけた私服へと着替える。


 寝室に届く朝食の匂いに胸を撫で下ろし、僕はそっと扉を開いた。

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