第三章 若木萌ゆ

邂逅 (1)

 一八七七年(明治九年)。剛介は、二十二歳になっていた。

 会津に逃れてきてから、既に八年が経った。

 二本松のことを片時も忘れたことはない。だが若松は、未だに新政府軍の監視の目がいたるところで光っていた。何せ、役所の上役の地位は、ほぼ薩長出身者が占めている。会津が再び狼煙を上げることを許さない、という新政府の意図は明白だった。

 義父である遠藤清尚えんどうきよなおは、実の息子のように剛介を養育してくれた。新しく開校した若松学校に通わせてくれ、中途半端になっていた学問も学ばせてくれたのである。ここで三年間学び、二本松で学んだ漢学を復習しただけでなく、英語や数学といった高度な知識も身に着けた。

 また、四年前には、尚清の娘である伊都いとと夫婦になった。それまでは兄妹のような関係だったから、初めて同衾したときには照れくさかったものだが、もう慣れた。

 文字通り義兄となった敬司けいじは、今では東京で大蔵省付属の経理学校の教壇に立っていた。一年に一度か二度会津に帰ってきては、多少の金子を置いていってくれる。どうやら優秀さが認められて、政府でも重宝されているようだった。

 だが、会津での生活の困窮はいかんともし難い。若松城下には斗南藩からの帰還者が溢れ、日雇いの生活すらままならないことも多かった。

 義父の清尚は、老齢の域に差し掛かっている。一家の生活のため、剛介は学があり体も壮健であることから、この春、巡査の職を選んだ。

 新しい制服は黒の洋装で、どこか戦場で駆けずり回ったときの服装に似ていた。巡査の制服は、剛介にとっては複雑な感情を抱かせた。どうにも戦塵に塗れた日々を思い出させずにはいられなかったのである。


 十月のある日。

 七日町に近い通りを巡邏していた時だった。一人の洒落た服装の紳士と、危うくぶつかりかけた。

「失礼」

 一瞬よろめいた紳士の腕を、咄嗟に掴んだ。山高帽をかぶり、洒落たフロックコートを纏っている。ステッキを手にしており、身なりが良い。さしづめ、上流階級の官吏といったところだろうか。

 会釈をして通り過ぎようとしたときである。

武谷たけや殿……?」

 相手が、まじまじとこちらを見つめ返した。

 剛介は、戸惑った。この若松において、武谷の名字は名乗っていない。義父の遠藤の姓を名乗っている。

 武谷の名前は、二本松に置いてきたはずだった。自分のかつての名字を知っているとは、何者なのか。

「武谷、いたる殿……ではありませんか?」

 相手は、懐かしい実兄の名前を口にした。剛介の実兄の名前を口にするということは、本当に二本松藩士を見知っているのだろう。だが、剛介は相手の顔に見覚えがなかった。

「申し訳ありませんが、どちら様でしょう」

「いや、これは失礼」

 相手は、威儀を正した。

「拙者、安部あべいわと申します。一昔前は、二本松におりました。知人とあまりにも似ていたもので、見間違えたようです」

 磐根の方が遥かに年上にもかかわらず、奢り偉ぶったところがない。

 剛介は、思わず目を瞑った。そういえば、父である半左衛門の同僚が、安部井又之丞様だったはずだ。磐根殿は、きっとその縁者なのだろう。

「兄をご存知の方でしたか」

 咄嗟に口をついて出た剛介の言葉に、相手も目を見開いた。

「ということは……」

「武谷半左衛門が次男、剛介と申します」

 その名を名乗るのは、およそ八年ぶりだった。まさか、またこの名を名乗る日が訪れは、思ってもみなかった。

「生きておったのか!」

 磐根は、大仰にのけぞった。無理もない。あれから長い年月が流れていた。かつて城下で戦った者でも、行方が分からなくなった者は大勢いたはずである。

(大壇口から逃れた者の中で、幾人かは会津に逃れたようだと、壮蔵そうぞうが申していたが……)

 磐根の弟の壮蔵も、木村隊に回されて大壇口で戦っていた。だが銃太郎が撃たれて四散し、その後は城下に戻って戦っていたため、壮蔵の口を通して会津へ逃れた者がいたのを知ったのは、随分後になってからである。

 ふと見ると、通行人らが胡乱な目でこちらを振り返っていく。二人の邂逅は、この通りでは目立ちすぎた。それに気付いた磐根が、若干照れくさそうに笑い、斜向かいにある「近江屋」という看板を指した。

「立ち話も良くない。今はあそこの宿に逗留しておる。私の部屋で話そうではありませんか」

 だが、剛介はまだ勤務中だ。勤務時間が終わってから、磐根を訪問すると約束した。

 

 勤務時間が終わって、剛介はそそくさと南花畑の自宅に帰り、制服を脱いだ。官吏は洋風の装いが励行されているとはいえ、剛介はあまり洋服が好きではない。  

「お帰りなさいませ」

 妻の伊都が、手をついて出迎えてくれた。剛介より四歳年下の伊都は、一昨年息子を生んでくれた。自分が父親だという事実には未だ戸惑うこともあるのだが、やはり我が子は可愛い。

「ただいま。変わったことはなかったか?」

 布団で眠る息子は、貞信と名付けられた。その名前は、大壇口で戦死した銃太郎の諱であった。

「いいえ。特には」

 ありきたりなやり取りだが、剛介にはこれで十分である。

「早いのう」

 奥の間から、義父が顔を覗かせた。

「申し訳ありませんが、義父上。知己に会ってきますので、留守を頼めますか?」

 若松に来て以来、あまり人と交わりたがらない剛介にしては、珍しいことである。清尚は密かに驚いた。

「知己?」

「はい。二本松の兄を知っているということですので」

 この八年、剛介が二本松の話をすることはなかった。二本松に戻ることを諦めたのか、それとも本心から会津に溶け込んでいるのか。清尚自身は義理の息子を我が子同然に思っているのだが、どうも余所余所しいところがあり、ずっと気にかかっていた。

 そんな義理の息子が、二本松の者と会ったという。たまには、気晴らしも良いのではないだろうか。

「分かりました。気をつけて」

 二本松の者であれば、気持ちよく会えるだろう。夕刻にもかかわらず、清尚は、気軽に留守番を引き受けた。

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