母成峠の戦い (2)
本道の通る萩岡で戦が始まったのは、午前十時頃である。
中央道を目指し板垣、伊地知が率いてきた西軍の兵は、およそ一三〇〇。第一台場の東軍守兵は、号砲二発を撃ち終えると、予定通り、第二台場の陣地が置かれている八幡前に退いた。
八幡前は萩岡の北方二里程のところにあり、道の半ばまでは比較的なだらかな原野であるが、そこから急激に台地がせり上がって、急斜面を形成している。母成峠は、樹木らしい樹木がなく、灌木が広がっている。そのため、東軍側からは、手に取るように西軍の動きが見えた。
八幡前の堡塁には狙撃兵が配備され、西軍が射程距離内に入るのを待っていた。まず、西軍の行列を狙って中軍山及び八幡山から砲撃を加えた。だが、命中精度が悪い上に、弾込めに時間がかかる旧式の砲が一門あるだけであった。そのため、西軍の前進を阻止するまでには至らない。
一方、萩岡をやすやすと突破してきた西軍の砲隊は、次々に砲座を設定していく。そこから八幡前の東軍陣地に対して、砲撃を加えてきた。それと前後して、岩壁にとりついた西軍の部隊からは、東側や中軍山陣地に対して、活発に銃弾が発射される。
東軍が反撃を試みる暇もなく、西軍の砲撃は次第に正確さを増していく。それに呼応するかのように、八幡山の陣地からも銃声が起こり、戦闘はたけなわとなった。
西軍の砲弾の一部が、八幡前の兵舎に命中した。またたく間に炎が上がり、枯れ草や山裾に燃え移る。
さらには、数十もあった八幡前の陣小屋に火を放ち、西兵は丹波が率いる二本松兵がいた中軍山にも迫ってくる。
中軍山で指揮を取っていた丹波の眼の前では、前方より、会津兵が引き揚げてくるのが見えた。
「萩岡が敵の手に落ちました!」
萩岡から戻ってきた会津兵が、口から泡を飛ばしながら報告する。
「何だと」
そこへ、さらに西軍の砲弾が無数に飛来し、中軍山や八幡山の砲台が火を吹いた。
八ツ半(午後三時)頃には、中軍山付近の東軍の砲台はほぼ壊滅状態となり、激しい銃撃戦となった。だが、砲を破壊された東軍は、なす術もない。背後からは、猿岩方面から回ってきた兵も迫っている。
「御家老、一旦一度退きましょう!」
側近が叫ぶ。
「与兵衛や鳴海らは、何をしているのだ」
猿岩は、天然の要害の地のはずであった。なのに、なぜそちらから敵が回ってくるのか。丹波は混乱しながらも、必死で状況を分析しようとした。
ともかく、まずは二本松の兵をまとめて引き揚げさせるのが肝要である。西軍の先回りをして挽回を図らなければならない。
「猿岩の者たちに伝えよ。猪苗代にて今後の諸事を差配致す」
従者が頷いて、駆け出していく。
丹波の眼の前で燃え広がる炎は、東側の山裾を舐めて銚子ヶ滝の方まで這い上がっていった――。
その少し前、大谷隊の守る猿岩方面では、西軍の土佐の谷干城が焦っていた。このままでは、前進できない。敵陣との高低差がありすぎて、やっと到着した長州藩の砲が届きにくいのも、問題だった。
そこへ、長州の桃村初蔵がやってきた。
「我らも谷を越えようと渡る場所を探ってきました。一箇所、越えられそうな場所を見つけました」
「本当か」
桃村が頷く。
「貴藩もご同行願えませんか。今一度、試してみましょう」
谷はこれに同意し、側にいた久時衛に命じて、別動隊を組織した。その数、土佐・長州合わせて四十人ほどである。
四丁ほど下流の地点から、木を攀じって岩を超え、辛うじて谷を下りた。そこから左に入り、木々の間を進むと、猿岩と本道の中間地点に出た。その時は既に、本道でも激しい戦いが繰り広げられ、萩岡方面に火の手が上がるのが見えた。
時衛は、長州の兵に頷いた。
「萩岡の方に回られよ。我が土州は、猿岩へ回る」
別動隊は、二手に分れた。
二枚橋のところで白兵戦を演じていた二本松兵は、背後から西軍の兵が迫ってくるのを見た。このままでは、挟み撃ちにされる――。
「各々退けっ!」
与兵衛の怒号が響いた。
「与兵衛様。どちらに向かえば良いのですか!?」
剛介も、眼の前の土佐の兵と切り結びながら、誰かが怒鳴っているのを聞いた。
「猪苗代だ。猪苗代の長の家に行け。そこを、丹波様たちが宿にされるとのことだ」
眼の前にいる敵の懐に飛び込み、刀を突き立てて素早く抜く。右手を見ると、豊三郎がいた。
「豊三郎!」
剛介は、豊三郎の手を取った。その二人の眼の前に、土佐兵数人が立ち塞がった。
舐めるな。
剛介が再び突きを試みようとした瞬間、一陣の風が、目の前の敵を斃した。その返す刀で、別の土佐兵も切り倒す。
束の間、剛介等の周りに空白が出来た。
「早く行け」
振り返った顔は、山口次郎だった。
「かたじけない」
軽く会釈をすると、山口がうなずき返してくれた。そして、奥にある山の方を指した。街道筋ではなく、山麓を伝って西軍に見つからないように進め、という意味だろう。
山口の言葉に従い、二人は萩岡の本道とは反対方向に駆け出した。
そのまま、山奥を目指す。熊笹を掻き分けようとすると、地竹に足を取られ草鞋が脱げた。そこを抜けると、たちまち肉刺ができて、破れる。
他所の国なので、地理感覚などない。ようやくのことで藪を抜けると、滝が見えた。
「大丈夫か」
剛介は、豊三郎を石に座らせてやった。さっきから足を引きずっている。見ると、どこかで草鞋を失くしてしまったらしく、裸足だった。
滝壺の水で傷を洗って手早く足に包帯を巻いてやると、豊三郎は「ありがとう」と微かに笑った。
「ねえ、剛介さん。ここに来る前に、盗賊たちが話していた事、覚えている?」
剛介は、目を見開いた。あの、かぼちゃの汁を馳走になったときのことだろう。
「今は、それどころでは……」
そう言いかけて、剛介も豊三郎の言わんとしていることに、気付いた。石筵村は、会津兵に焼かれたと言っていた。それを怨みに思い、西軍を嚮導した者がいるに違いない。そうでなければ、きっと中山峠から会津に攻め入ろうとするに違いないのだ。
石筵村は、二本松藩の領土だった。自分たちの民が、裏切った。だが、それは石筵の領民にしても同じ思いだったのかもしれない。
二人は、束の間黙り込んだ。
だが、こうしてはいられない。またいつ西軍が姿を表すか、知れたものではなかった。
「急ごう。猪苗代へ」
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