二本松を奪還せよ (2)
翌日、剛介らは会津藩士の一人に連れられて、陣地を見回った。
聞くところによると、二本松の残兵の一部は会津と共に戦う決意を新たにし、母成峠を目指してきた者が複数いるという。
台場は大きく三つに分かれ第一台場は
また、猿岩には新たに胸壁が築かれようとしていた。剛介らがいるのはその猿岩の陣地である。まだ陣地が完成していないので、塹壕や胸壁をこれから作るのだという。
あのかぼちゃ汁以外、禄に食事を取っていなかった剛介らだったが、会津軍からは食事も支給されるとのことだった。
もっとも、一通り陣地を見回った後に出された食事は、握り飯一個に味噌汁だけという簡素なものだった。それでも連日空腹を抱えて山野を逃げ回った剛介らは、ゆっくりと米の甘みを味わった。
午後になると、早速塹壕掘りに駆り出された。久しぶりの食事が力になったのか、地面を掘る手にも力が入る。一尺程掘ったところで、ふと顔を上げると、二人の男が話し合っているのが見えた。そのうちの一人はやや大きな目をしており、総髪の美丈夫である。総髪の美丈夫は洋装という珍しさもあり、剛介はしばし手を止めて、二人の男に魅入った。
「こら、手を休めるな」
既に顔見知りとなっていた
「あの方々は、どなたですか?」
「ああ、新選組の山口様だ」
「新選組……」
剛介の体がぞくりと震えた。新選組の名は、剛介も知っていた。何でも在京時代に、長州や薩摩の不逞浪士を斬りまくったという。
「会津にいらしていたのですか」
「土方様は、この間まで
山口次郎とは、新選組の三番隊長だった斎藤一の変名である。
「新選組が来たからには、ここも百人力だな」
自分も職務を放棄していることに気づかずに、渡部は惚れ惚れと山口らを眺めていた。すると、山口がひょいとこちらを見た。
「まずい」
剛介は慌てて鍬を持ち、渡部も背筋を正した。
夕方、皆で炊き出しの汁をもらうために並んでいると、そこに思いがけない顔を見つけた。
「水野!」
あの悪夢のような二十九日、大隣寺で別れたきりの水野進だった。
水野も目を大きく見開いた。
「無事だったか」
聞くと、二十九日のあの日、水野は夜まで城下に潜んでいたという。夜になってようやく一ノ丁の山に分け入り、そこから西谷の山へ抜けて、宗形幸吉や下河辺武司らとばったり出くわした。そして二日二晩かけてようやく塩沢村に入ることができ、主婦に手厚くもてなされてから岳温泉へ向かった。そこから先、やはり会津の陣営があった土湯峠に向かったが、既に会津兵が火をかけようとしていたところだったので、道を引き返し、中山峠を越えて会津領の蚕飼村に至ったという。その地で丹波とその家臣団に出会い、指示を受けてこの地にやってきたとのことだった。
「水野さん、他の皆は?」
一緒に列に並んでいた釥太が訊ねた。すると、水野は椀の中に視線を落とした。
「才次郎が死んだ」
剛介と釥太は言葉を失った。聞くと、才次郎はあの後銃太郎の首級を桑畑の畝に埋めて、ふらふらと郭内へ向かった。それを、たまたま出会った大桶から聞いたのだと言う。その後、才次郎は一ノ丁の通りで長州藩の指揮を執る男に向かって、刺突していった。才次郎はその男を見事仕留めたものの、周りにいた兵にたちまち撃たれて、死んだ。偶然だが、水野は郭内において才次郎のすぐ近くで戦っていた。やはり敵と遭遇し、自分のいる場所からわずか半丁程先で、才次郎が死ぬ様の一部始終を見ていたという。
あと、どれだけの仲間が命を落としたのだろう。今、自分らが母成峠にたどり着けたのは、奇跡のようなものだった。
それから暫く、剛介らは塹壕掘りや、土塁を作る作業に駆り出された。死んでいった仲間の分まで、今度こそ一人でも多くの兵を斃してやる。毎日、その誓いを新たにして活力の源にしていった。
時には、小商人がこんな山奥にまでやってきて、塩鮭や菓子を売っていた。それらの商人たちの話によると、西軍は未だ二本松城下に留まっていて、こちらの出方を伺っているという。また、二度目に小商人がやってきた頃には、肌寒くなってきただろうと会津藩から木綿の筒袖の支給があった。まとっている衣服もぼろぼろになっていた剛介らにとっては、これはありがたかった。
一方、母成峠にいる東軍にも、新たな命令が下された。
聞くところによると、八月九日、庭坂で丹波様らは庭坂で会談を開き、二本松奪還作戦が計画されたという。初めは兵力を割く余力はないと出兵を渋られたが、伝習隊の大鳥圭介は、会津藩の首脳陣の勢いに押されて、作戦の決行を支持してくれた。当初、作戦決行の日は十二日と聞かされていた。ところが、待てども待てども、なかなか出撃命令が出ない。結局、母成峠にいる二本松兵や伝習隊に出撃命令が出たのは、十九日の夜だった。
二本松兵は喜んだ。聞けば、玉ノ井村へ出動せよという。
中には「玉ノ井から二本松までは二里余りだ。敵を撃退して、お城を取り返そう」と小躍りする者もあった。
だが翌朝、喜び勇んで出陣した二本松兵を待ち受けていたのは、またしても過酷な戦いだった。
二本松隊は岳温泉へ向かう間道で西軍を待ち構えていた。西軍は中山峠を越えて会津へ進軍するとの噂が流れていたため、その背後から衝こうという作戦である。玉ノ井村の中でも比較的高台にあり、玉ノ井村全体が見渡せた。仙台兵・会津兵を右翼に、二本松兵を左翼に配置し、中央に伝習兵が陣を張った。
時刻は正午を回った頃であろうか。
「敵だッ!」
誰かの鋭い叫び声を合図に、戦闘が開始された。
剛介も夢中で刀を奮った。膂力では大人たちに劣るため、ひたすら刺突を繰り返しては、一人、また一人と斃していった。
「大鳥様が討たれたあ」
悲鳴のような声が耳に飛び込んでくる。だが、伝習隊より先に西軍の猛攻を受けていて山上に追い詰められていた剛介たちには、その言葉の真偽を確かめる余裕もなかった。
最終的な東軍の死傷者は、百人以上にも上った。大敗である。
もっとも、当の大鳥圭介が死亡したというのは誤りで、その大鳥は「左右両翼の会津兵、二本松兵は血戦に及ばずに山腹に引き揚げた。敵は両翼を追って山に登ってくるので、正面で対峙していた伝習隊が正面の敵の後ろからも打ち掛かれる様相になった。伝習隊の兵も大いに驚いて敵を追い払おうとしたが、正面の敵も再び進んできて挟撃され、大苦戦した。多くの兵を失い、かろうじて引き揚げた」と、『幕末実戦史』(大鳥圭介手記)で書き残している。
だが、五十余りの兵力しか持たない会津・二本松に対して「ろくに戦わなかった」というのは、あまりにも辛辣かもしれない。水野氏の『二本松戊辰少年隊記』によると、首級の髻を提げて走る者あり、負傷者に肩を貸し、或いは足を負傷して刀を杖代わりにする者など、その混乱ぶりは名状し難いものだったとある。母成峠までの三里余りの道を疾走したが、壮健な者でも吐血するものが出るほど、厳しい退却だった。
剛介も、例外ではない。背中の火傷が引き攣り、塞がりかけていた傷口が開こうとしている。足の筋が切れそうだ。何度も気を失いそうになりながら、ようやくのことで母成峠まで戻ってきた頃には、夜になっていた。退避の途中から雨が振り出して道がぬかるみ、大変な行軍だった。
振り返ると、熱海方面がぼうっと赤く光っている。敵はあちらに陣を張り、今日はそこから張り出してきたのだろう。明日は中山峠に回されるのかもしれない。疲労でぼんやりとした頭で、剛介はそう考えた。
血反吐を吐きつつ、やっと退却してきた剛介らを母成峠で待っていたのは、丹羽丹波だった。さすがに戦況が気になったのだろうか。
だが、敗戦の軍をちらりと見ると、眉を上げた。何か言いたげである。
「そなたら」
暗く、怒りを感じさせる声だった。丹波は、兵たちが敗退してきたのが許せないのだろう。剛介は身を縮めた。
その時である。誰かが丹波の袖を引いた。丹波がそれ以上言葉を紡ぐのを止めたのは、大谷与兵衛だった。襤褸布のようになりながら命からがらで戻ってきた兵士に対して、あまりにも不遜だと感じたのだろう。与兵衛とて、息子の志摩を失っている。悔しい思いをしているのは、丹波だけではないのだ。
一瞬の沈黙の後に、丹波はぼそりと「大義であった」と、一言だけ声を掛けた。それからくるりと諸兵に背を向け、そのまま本陣の方へ戻っていった。
兵士等は呆然と、その背を見送った。
大方の兵が宿営地に戻ると、これから軍議だというのに、与兵衛はこっそり鳴海を手招いた。
「丹波様のことでございますか」
話を先回りして、鳴海は声を顰めながら与兵衛に訊ねた。
「そうだ。ここに至って、まだあの御仁の悪癖が出ているらしい」
与兵衛が唇を歪めた。与兵衛も長く藩政に携わってきた者である。丹波の祖父、丹羽貴明が藩内における一大勢力を築き上げたが、その弊害もまた大きかった。賄賂なども横行し、亡き丹羽和左衛門や安部井又之丞などが、それを嘆いていたのが思い出される。
「我々は良い。だが、これ以上無駄死にする者が出れば、二本松は本当の意味で亡びるぞ」
鳴海は、与兵衛の言葉を噛み締めた。
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