新春(2)
――二本松の老臣達は、連日苦悩していた。
この頃、上方の情勢は全く読めない状況にあった。
慶応三年十月には、将軍である徳川慶喜が政権を御上に返上してしまっていた。いわゆる、大政奉還である。長国公は江戸にいて、国元はこれからどうするべきか紛糾した。
更に十二月九日には、天皇の御代の始まりを告げる「王政復古の大号令」が、一方的に宣言された。何と、幕府もなくなるという。同日夜に開かれた小御所会議では、慶喜の辞官納地が一方的に決められた。十二月には幕府から諸大名への新しい政についての説明があったものの、諸大名も困惑するばかりであった。
二本松藩でも、十二月には、京の
年末に政権が朝廷の手に渡ってからは、藩論はさらに混迷を深めていた。
剛介たちは知らなかったが、敬学館の教授である竹内貞や渡邊新助は、大政奉還の直後から上層部に「勤王を貫くべし」と上奏していたのである。「時勢が切迫している今、公の進退は代々の君主の名誉にも関わる。私は平素より大義を唱えてきた。どうしてこの事態を見過ごせようか。いやしくも国の利益になるならば、越職の罪であっても、決して避けまい」
竹内は、そう公言して憚らなかった。皆、一様に押し黙っている。ただ一人、渡邉新助はこれに「その通りである」と賛同し、上奏文に連署した。
上奏文の大意は、以下のようなものだった。
「公に兵を率いて速やかに上洛し、京を護衛して勤王の忠誠を示すのが上策である。次に、江戸を去って国元に帰り、尊王の大義を明示して人心を鎮撫し、使いを京にやって朝命を請うのが、中策である。
慶喜公は昨年将軍の座に就いたが、今は我々と同列である。安全な江戸にいて日が徒に過ぎるのをざして待ち、時機を逃すのは無策も甚だしい」
簡潔に述べると、「徳川を見限って、帝に忠誠を誓うべし」という内容であった。
また、尚武を尊ぶ藩風の二本松藩では珍しく、丹波は現実主義者でもあった。自身は家老座上の地位にあり、いくら相手が敬学館の教授方とはいえ、目下の者が自分に意見するのは面白くない。もっとも、丹波の気性は二本松において余り好まれず、表向きはともかく、裏では密かに酒の肴にされているのを、丹波は薄々察していた。
「御家老、それはあまりにも無体ではございませぬか」
そう言って諫止したのは、
「何を申すか。明らかに職の分を越えているではないか」
学者風情が偉そうに、と丹波は腹が煮えくり返った。
「藩の行く末を決めるのは、儒者共ではないわ。そなたも大概にせい」
腹立ちのあまり、丹波は小者に命じて大内蔵に縄をつけ、ひったてようかと一瞬思った。もっとも、あまり感情を見せるのも、他の重臣の手前外聞が悪い。丹波は、辛うじて怒りを抑えた。
この後、竹内と渡邊は再度上奏文をしたためているが、丹波はそれも無視した。本当は両名を馘首したいところであるが、さすがにそれは、と他の家老達に止められた。
だが、年明けて一月三日に鳥羽・伏見の戦いが勃発。火力において最新式の装備を供えた新政府軍に対し、旧幕府軍はなす術もなかった。
この事変に対して、京都警固の任に当たっていた高橋竹之進が江戸藩邸に急使として馬を飛ばし、その江戸藩邸から石田軍記が急使として二本松に急行した。
「大樹公と肥後守が賊軍に貶められただと?」
その知らせを受け取った丹波は、絶句した。
「何かの間違いではないのか」
やっとのことで国元に辿り着いた石田に対して、丹波は思わず疑惑の目を向けた。
「間違いござりませぬ」
負けじと、石田も丹波を睨み返す。
「薩長の陣には、紛れもなく錦旗が翻っていたとの由」
石田の言葉を受けた面々は、しばし言葉を失った。さらに石田は、大樹公と会津肥後守が密かに大阪から船で上方を脱出し、江戸に帰ってきたという話も伝えた。その事実も、俄かには信じ難かった。そもそも、将が兵を置いて逃げ戻るなど、前代未聞である。
ともあれ、藩公の安全確保が最優先事項である。この変事に対し、二本松からは日野源太左衛門、
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