ごめんね、ありがとう

 足をもつれさせながら、僕はののかのいる病院まで辿り着いた。必死に走って来たから、視界がぼやけている。息が荒くて、心臓がこれでもかと早く動いていて、呼吸が詰まる。爽やかな春なのに、真夏のように汗を掻いている。


 ──邪魔だ、全て。


 そう思った瞬間、全てが消えた。疲労も、呼吸の苦しさも、暑さも、汗も。


 だから僕はまた、走る。エレベーターを待つ時間も惜しくて、僕は階段を駆け上がった。


 ののかの病室に近づくほど、人の気配が濃くなるのを感じていた。嫌な予感が、現実味を帯びていく。

 ののかの病室には、沢山の人と、声が飛び交っていた。


「一星さん、聞こえますか!?」

「意識レベル、低下しています!!」

「まずい、このままだと……!!」


 僕は一瞬、足を止める。しかし次の瞬間には、動き出していて。……沢山の人をかき分け、ののかのところへ飛び込んだ。


「いっ、伊勢美さん!? ちょっと、今は……!!」

「──放して」


 腕を掴まれたので、僕は一言、そう告げる。

 それと同時、僕は近くに置いてあった花瓶を、消去した。


 周囲からどよめきがあがる。僕はそれを無視し、僕の腕を掴む看護師を見上げた。

 このままなら、どうなるか分かっているでしょう。そんな、脅しだ。


 その脅しは、正常に作動したらしい。慌てたように、看護師は僕の腕から手を離した。そして僕は、誰からも距離を取られる。……好都合だ。


 僕はののかを見る。ベッドの上で、青白い顔で、苦しそうに胸を抑えている。だけどその瞳は、僕を見つめている。

 ……その口が、どうして、と動いた。


「ど、う……ぃ、て、とうこ、わたしのこと、きらいになったんじゃ……」

「ッ……嫌いになんて……嫌いになんて、なってないっ」


 こんなにも苦しそうなのに、それでも僕に意識を向ける。どうしてののかは、どこまでも──他の人のこと、ばかりなんだ。


 言いたいことが、胸の中から溢れ出る。だけどその全てが喉を通って、声にはならない。何を言えばいい。どうすればいい。


 ごめんと言いたかった。傷つけてしまってごめんと、誤解をさせてしまってごめんと、言いたかった。謝りたかった。

 でも、こんなに苦しんでいる人の前での謝罪なんて。……そんなの、ただの自己満足に過ぎない。


 ののかは必死に呼吸をしている。どこかが痛むのか、表情を歪ませて、体を震わせて、耐えている。それでもやはり耐え難いのか、瞳には涙が溜まっている。──見て、いられない。


「ッ……」


 ののかが、小さく呻く。瞳から、涙が零れる。


「……くる、しいっ……」


 声が、零れた。


 それと同時、僕の瞳からも涙が零れた。無意識に手を伸ばして、ののかの手を握っていた。熱くて、この手の中で、血が波打っている。それが……伝わる。

 この苦しみを、終わらせてあげたい。苦しみから、解放してあげたい。ののかを傷つけるものを、消してしまいたい。でも僕には……僕には、何も──。


 ──そこで、思いつく。思いついて、しまう。


 僕は目を見開いた。そして、固まった。その悪魔が囁いて来たような回答を、、この苦しみを終わらせる方法。……思いついてしまったことが、酷く怖かった。


 しかしその考えが、頭を離れない。手の中で、血が波打つ。ののかが大きく体を震わす。


「……ぃや、もう、いや……っ」


 呟く。


「……つらいのはっ、もうっ、いやっ……」


 固まる。


 ののかは、そんなことを言うような人じゃない。ののかはいつも気丈で、笑顔で、キラキラと輝いていて、でも今目の前にいるのは、違う。

 彼女は弱音なんか吐かない。そんな諦めたような、絶望をしたような顔をしない。……どうして。


『一星ののかは君という大事な人が出来て、弱くなっタ!!』


 脳裏に、忌々しい声が甦る。それで、全てを悟った。


 ──僕のせいだ。


 僕がいたから、僕と関わったから、彼女は光を失ったんだ。

 ……僕が、僕の存在が、彼女のきらめきを、奪ったんだ。


 ああ、と、声に出していたと思う。僕を、何かが飲み込んでいくのが分かる。くらくて、おもい。──絶望。


 ……消さないと。

 終わらせないと。


「……ごめんねっ……」


 口から、謝罪の言葉が零れる。やはり僕は、保身に走ることしか出来ない。


 ──全てを、消去。





 体が軽くなるような感覚がしていた。生気が抜けていくというか、体と意識が切り離されて行くというか。……そんな感じがした。

 薄く目を開くと、彼女と手を繋ぐその手が……透明になっていて。向こう側の景色が、見える。


 僕は消えるのだと、悟った。


 当然の報いだ。僕は、ののかの煌めきを奪った。それは、絶対にやってはいけないことだった。僕がいたから、あいつはののかをもっと苦しめることにした。……全部、僕が悪い。僕だけが、悪い。


「──とうこ」


 名前を、呼ばれる。


 顔を上げると、そこには、微笑むののかがいた。苦しんでいない、その様子に、思わずホッとしてしまう。


 ──ごめんね、最後まで、余計なことしか出来なくて、ごめん。

 でももう、僕にはこれしか……こうすることしか、出来ない。


 手を握り返される。そうされることで、まだ僕には体があるのだと、思い知らされる。早く、消えてしまえばいいのに。


「聞いて。あのね、私、とうこのことが、だいすき」


 ののかが、囁く。その声は、僕の中で確かに響いて。


「だから私、とうこには、笑っていてほしい。とうこはね、とっても素敵な子なの。……優しくて、たまに見せる笑顔が、かわいくて……きっと皆、とうこのことを好きになる」


 首を横に振る。そんなことない。僕が誰かに好かれるわけがない。こんな、最低の人間を。


「……私はもう、とうこの隣にはいられないけど……でも、私、幸せだったよ。幸せだった。ほんとうに」


 それと同時、僕は違和感を覚えた。……ののかに手を握られているところ。……そこから、熱が流れ込む。そして僕の体は、輪郭を取り戻していった。

 顔を上げる。やはりののかは、笑っていた。


 その口が動く。何かを聞いたはずだ。でもノイズが掛かったみたいに、聞こえない。


 僕が輪郭を取り戻すのに伴って、徐々にののかの輪郭が、曖昧になっていく。だめ、と、呟く。

 お願い、1人にしないで。


 ののかは笑う。相も変わらず、幸せそうに。



「──私を、殺してくれてありがとう。灯子」



 そしてののかは、僕の手に温もりを残して──消えた。



 いや、違う。──僕が、消したのだ。





【第51話 終】





第51話イラスト

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