第5話 殺人
中絶手術は、最初の診断から三週間後十一月七日に行われた。ある程度育ってからではないと中絶はできないと、紹介先の病院で言われたため、この日まで待つしかなかった。
朝一〇時に一人、楓は病院へ向かった。到着して、カビ臭い待合室で背中を丸め、楓は手術の時間を待った。
「森川さん、始めますよ。二階へお上がり下さい。」
母と似たような歳と思われる看護師が楓を呼びに来た。もし母がこの状況を知ったらどのような態度出るだろうか。泣き叫んで止めてくれるのだろうか。父親に報告して、一緒に優也を殴りに行くのだろうか。楓はそんな想像をすぐに止めた。涙の匂いが急に襲ってきたからだ。
与えられた個室で楓は手術着に着替え、すぐに看護師の案内の下、手術室に向かった。手術台に自ら寝て、おじいちゃん医師の説明を聞いた。
「森川さんね。今から手術をしますよ。ソウハ法という方法で行います。日本では、戦前から導入されていた方法ですよ。子宮や母体に負担をかけることなく施術できますから、安心してくださいね。この手術は、子宮内に器具を入れ、妊娠組織を掻き出すというシンプルな原理です。そのため、感染症などのトラブルは起こりにくいのですよ。まず森川さんに全身麻酔をかけますね。手術はあっという間に終わります。その後、先ほどの個室の方にこちらで運びますからね。」
「あの・・・。」
「何か。」
おじいちゃん医師は楓の顔を覗き込んできた。
「この場で言うのもおかしな話ですが、私はまた妊娠できるのでしょうか。」
おじいちゃん医師は楓の頭をなでてきた。
「大丈夫。私、ベテランですから。信じて下さい。」
おじいちゃん医師には、楓を取り巻いていた悲壮な状況が、痛いくらいに理解できていたに違いない。自ら“ベテラン”と自ら言うくらいなんだから。
医師はそばにいた看護師に目で指示を出し、注射の用意をさせた。
「森川さんは左利きだと言っていたから、右に麻酔を打ちますね。麻酔を打ったら私の指を見つめて一〇を数えて下さいね。」
楓は麻酔を打たれた右腕から目を反らし、医師の動かしている指を見つめながら数を唱えた。一〇まで数えた記憶はない。麻酔は即効、楓の体に浸透していったのだろう。
楓の目が覚めた時、病室の時計は一一時五分を指していた。妹が病院まで迎えに来るのは一二時である。目覚めの瞬間は、病室の風景が不気味なアニメーションに見え、軽く吐き気を覚えた。看護師の方から麻酔が切れる瞬間は気分が悪くなることもあるから、無理して体を起き上がらせないように、と言われていたことを思い出した。
頭がはっきりするまで、楓は天井の点模様の数を数えた。そして、妹が迎えに来る時間に合わせて、着替え、病室を出て受付に向かった。受付では既に妹が支払いを済ませていた。
「領収書は、姉ちゃんの財布に入れておいたから。これ保険きかないらしい。」
「そうよね。」
「あと。」
「何?」
「姉ちゃんの口座から今日のお金を引き出した時に、ついでに記帳しておいたんだけど、優也から五十万円、入っていたよ。」
楓は最後の最後まで、優也から“手術を止めよう、一緒に育てよう”という言葉を待っていた。だから手術日が決まったらメールで知らせ、お金を少し助けてほしいということもメールで伝え、口座番号も教えていた。しかし優也からの連絡は一切なかった。返事は入金された五十万円だった。
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