第4話 遊び盛り
体温が急降下激していく感触。そして襲ってくる虚無感。楓の体を押さえつけるような有無も言わせない圧力。
「やっぱり……。」
楓は涙ひとつでなかった。予感した通りだったからだ。全身が一気に乾いていく、それだけは阻止しなければならないと思い、楓は体を起こし、そばにあったペットボトルの水を一口含んだ。
「ごめんな、お前にばっかり辛い思いさせて。」
優也は同じ事をもう一度言った。この言葉しか、用意してこなかったのだろう。
酸素が薄い。背中を全速力で駆け上がっていく悪寒。
優也は楓の部屋に来るまでの三〇分程度の短い時間の間に、自分の意思を固めてしまっていたのだろうか。優也の表情からは有無も言わせぬ、ある種の恐怖さえ感じた。
「ねえ。」
「ん?」
「思いだけ、聞いてもいい?」
楓はやっとの思いで、視線を優也の目に移した。視界が曇って優也の目が見えない。涙が出ているのではなかった。おそらく体の機能が一つ停止してしまい、目が見えなくなってしまっていたのだろう。
「あぁ。そうだな。俺、もうちょっと遊びたいかな。まだ子持ち、結婚は考えられないかな。」
優也とつないでいた手の表面が、急激に乾いていく感触を楓は確実に感じ取った。
「そうか、そうだよね。」
そのあとはどんなやりとりがあったのか、今となってはよく覚えていない。とりあえず優也と一緒に、楓はもう一度婦人科を訪れたことだけ覚えている。病院について、診察が始まるまでの間、優也は片時も楓の手を放そうとはしなかった。まだ何かを伝えようとしていたのだろうか。
診察室に入っても医師の説明は耳に入ってこなかった。ただ優也が中絶の意思を医師に伝え、事務室で、中絶を行う病院の紹介状を受け取り、診察料金を支払っていたことだけはよく覚えている。
家に帰ってきてから、事の顛末を伝えた。妹は表情を歪ませたまま、
「十字架背負うよ。」
それだけ言って、妹は背を向けた。卒論に忙しいふりをしているだけで、本当は姉の体や心を強く心配していることだけはよく伝わってきた。
妹は中絶に同意した楓を責めようとはしなかった。非常勤講師の打ち切りを告げられてからこれまで、学業とアルバイトに励んでいる自分のそばで、教育委員会からの講師依頼の電話を待ちながら、並行して何枚もの履歴書を書き、就職活動を行なってきた姉の姿を、いやというほど見てきていた。ただでさえ欠員の少ない社会教師枠である。給料には恵まれなくとも、途切れることなく毎年、非常勤講師の仕事を得てきたことは、奇跡に近いことだった。楓と同じ立場の中に、非常勤講師の経済的に不安定な環境に耐えかね、一線を越えてしまい、アダルトビデオ出演や風俗勤務に手を出し、委員会に見つかり、二度と講師依頼が来なくなった人もいることを妹は把握していた。無職になった姉に子供など育てられるはずもなく、ましてや事情が事情だけに、親も頼ることもできない状況であることを、痛いくらいに理解していた。姉妹して、喉の奥に小石が溜まるような感覚を抱えながら中絶の日を迎えた。
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