第3話  拒否

 部屋のベッドで目を覚ました楓は、妹から病院の診察室で倒れたことを聞かされた。

「驚いたんだから。あたしが家で学士論文を書いていたから、行くことができたけど、大学に行っていたらアウトだったんだからね。お医者さんが、後でもう一度病院に来てねって言っていたよ。」

同居している大学四年生の妹は、私に水をよこしながら、口を尖らせる。何があったのかは聞かない。女同士の直観が働いているのだろうか。姉の身に何が起こったのかは既に掴んでいたと思う。

妹が部屋を出て行って数分後、楓は優也の携帯を鳴らした。ちょうどお昼の時間帯だ。連絡を取るなら今しかない。

鳴らし始めてすぐに優也は出た。

「何?今から会社に戻るところなんだけど。もうすぐ電車に乗るよ。」

地下鉄のホームにいるのだろうか。鈍い音と共に、籠った独特の匂いのする空気が伝わってくるようだ。

「優也ごめん。緊急で話したいことがあったんだ。」

「何?誰か死んだの?」

優也は、何かをしながら電話に出ているのだろう。スポーツ新聞でも買っているのだろうか。売店のおばちゃんの声が挟まってくる。

「ごめんで忙しいところ。あの、ちょっとね。困ったことがあったんよ。」

「何?誰か死んだんか?」

「いやいや。」

喉元に大きな空気の塊がある感覚が生じて、うまく発音ができない。すごく苦しい。また気分も悪くなってきた。楓はゆっくりと何度も深呼吸をしながら、全身を落ち着かせて、言葉を発した。

「何?もうちょっとで電車きそうなんだけど。」

「あの。今日、婦人科行ってきたら、お医者さんからね、うん・・・妊娠していますよ、って言われたんだ。」

「え?」

「ごめんなさい。」

優也が息を飲む音が聞こえたのと同時に、反射的に謝ってしまった楓。

「本当なのか。」

「うん。」

構内アナウンスがクリアに聞こえる。少し携帯から顔を離しているのだろう。電車がホームに入る騒がしい音が大きくなってきた。

「聞こえるか。お前、今どこにいる?」

「部屋だけど。」

電車発車音がやかましい。優也は電車が発車してホームが落ち着いた頃、また喋り出した。

「今から家に行くから。」

「え?」

「今から、おまえん家、行くから。」

「あぁ。」

「そこで話し合おう。」

「あぁ。あの・・・。」

楓の次の言葉を聞かず、電話は一方的に切られた。しばらくの間、楓は顔から携帯電話を離せなかった。しばらく切れた後の寂しい音を聞き続けた。

一三時を回った頃、優也はアパートへやってきた。妹が玄関を開けたものの、あいさつもなしに乱暴に靴を脱ぎ、楓が横たわっている奥の部屋に走ってきた。あの時の優也の顔はこわばっていたように思う。今思い返せば、あの目が彼の思いを表白していたようにも感じるのだ。

「仕事は大丈夫だったの?」

「あぁ、有給取ってきた。」

優也は胡坐をかいてベッドの横に座り、楓の左手を握った。風の温度が急激に下がった季節だというのに、優也はひどく汗をかいていた。

「電話で伝えた通りなんだけど。」

優也は握りしめた楓の左手から目を離そうとしない。まるで何かを念じているような目つきだった。

「妊娠したんだよな。」

「うん。」

「ごめんな、お前にばっかり辛い思いさせて。」

「うん。」

一瞬楓は、なぜ優也がそんなことを言うのか理解できなかった。女性を労わる言葉にしては、会話が先走りすぎている。楓は思い切って、次の言葉を重ねた。

「産んでもいいのかな?」

楓は優也のおでこを見つめながらゆっくりと音にした。目を見つめることはできなかった。ひどく恐ろしかったのだ。優也がこの部屋に入ってきたときに纏っていた空気そのものが、NOと全身で主張している匂いであることを、楓は瞬間的に捉えてしまっていた。

優也は楓の左手を強く握り返した。楓は自分の予感が間違いであったという期待を一瞬寄せた。

「いや。堕ろしてくれないか。」

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