16、母
侃が帰宅すると、リビングは暗く、母親はすでに寝室に引き上げて寝ているようでした。
侃はキッチンの明かりをつけ、冷蔵庫からビールのペットボトルを取り出します。
ついさっき蓼原家で考えた楽観的な決断は、キッチンライトのささやかな明かりのもとで思い浮かべるとなんだか頼りなく感じられました。
侃が小さく漂い始めた不安を振り払おうとビールをあおった矢先、暗がりから細く声が聞こえてきました。
母の声でした。
「帰ったの……?」
「……寝てたの?」
まだ不明瞭な母の声はしばらくリビングと夢の間を行き来していたようですが、そのうちハッキリとソファから起き上がってくる気配がありました。
「……お水、ちょうだい」
「これはビールだよ」
「あら?」
ペットボトルに伸びてきた腕をかわし、侃は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し渡します。
母はまだぼんやりと夢から顔を出したかのような不明瞭さで不思議そうにその水を眺め、ゆっくりと飲んでから息をつきます。
「……歌ってたわ」
「いや、寝てたよ」
「私じゃなくて、あなたが」
「ああ、夢で?」
うなずきながら、母はダイニングテーブルの椅子に腰かけます。
「私は巨大なカエルになって、お城の王様の前で歌わせられるんだけどうまく声が出ない。そうしたら、王様の横の近衛兵がゆっくり歌い始めてくれて」
「それが僕」
「そう、私の声もつられて出るようになったわ……リアルな夢だった」
「聞いている限りではそうは思えないけど」
「歌声がね、リアルだったの。あの歌、最近は歌わないけど、昔はよく歌ってたでしょ。あれをあなた、歌ってくれて、本当にリアルで……いまこれは……私、起きてる?」
母は笑い、侃はまるで自分が小さい子供になったかのような錯覚を覚えます。
しかし目の前の母は確実に老いていて、笑みを縁どっているのは時間が作った小さなしわたちです。
「……この間、樫川の辺りに行ったんだ」
「ああそうなの。大きな工場が建ったんでしょ」
「知ってたの?」
「バーバラさんが役所で工場誘致担当してたらしいから、お香の会でよく話しててね」
「工場、大きかったよ。センターはもう跡形もなかった」
「でしょうねえ」
頷きながら、おそらく母が思い浮かべているのはもう存在しないかつての川辺の施設だということは、侃にもわかっていました。
現在の光景を見たばかりの侃ですら、いまだにそうなのです。ましてや母はなおのこと、そうでしょう。
夢か過去かはわかりませんが、まだぼうっと夢想を続ける母をそのままに、侃は二階へと上がろうとします。
「侃」
「なに」
「……大丈夫?」
「なにが」
「なにがかはわからないけど、何かが」
まだ過去にいるかのような、少年を案ずるような母の声音でした。
「大丈夫だよ」
「お父さんとそっくり、すぐ大丈夫なふりする」
「本当に大丈夫だって」
「お父さんはそう言って一週間後に倒れた」
「一緒にしないでよ、あの人は心臓のアレでしょ」
「だから、そういう家系なのかもしれないでしょう、わが家は」
侃は毎度呆れるのですが、母はよくこういった物言いをします。
もらわれっ子の自分に父母の何が遺伝すると言うのか。
しかし幼いころからそう言われ続け、侃も半ばそれを信じかけてすらいるのもまた、事実なのでした。
「大丈夫だよ、安心して。少なくとも体調は悪くない」
「そう、なんか困ったことが起きたんなら……言いなさいね」
言ったからどうだというのか。首をかしげながら、侃は生返事で応じます。
侃はもう子供ではなく、母はもう元気な中年女性ではありません。大人と老人が二人で暮らしているのです。
母が思うところの“困ったこと”が起きたとして、母にはもうそれを解決できるかわかりませんし、侃は一人でそれをどうにか乗り越えようとするでしょう。
それでも。
それでも母はおそらく死ぬまで、侃を“困ったこと”から遠ざけようとするのでしょう。
なぜならば、彼女は侃の母だから。
「あ、ねえ」
二階へ引き上げようとした侃を、再び母が呼び止めます。
「なに」
「あの歌、なんだっけ」
「……歌?」
「夢の中で久しぶりに聞いた。あなたがよく歌ってた、ほら」
「椰子の実だよ」
「ああ、そうだった」
すぐに母が口ずさむだろうその歌を避けるように、侃は隣の部屋の父と飼い猫の遺影への挨拶もそぞろに、自室へと引き上げました。
ほどなくして、鼻唄の切れ端が、夜の闇をぬって侃の部屋にも届いてきました。
その夜、侃は夢を見ました。
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