11、椰子の実

 蓼原家でのやりとりから二週間後、侃とおれんじの生身での初デートは、散歩だったそうです。

 それを聞いた私と襷さんは、侃らしいと二人で笑い合いました。



 待ち合わせの駅に現れたおれんじはパーティーの時とは違いラフな格好で、淡いオレンジ色のパーカーと動きやすそうで形の良いふわりとした緑のスカートをはいていました。

 侃は、いつも職場に行くのとそう変わらない、地味な茶色のスラックスと真っ白なシャツでした。

 いつも通りの格好で来てしまったことを、侃は少し後悔しました。



「オレンジ色が好きなんです」



 ぼうっと彼女を眺める侃に、おれんじはそう笑います。



「名前が先か好みが先かどっちがどっちかわかりませんけど」


「……お互いが影響をしあって、そうなったんでしょう」


「そうかもしれませんね」



 お互いの住んでいる場所の中間だから、という理由で決めたデートの場所は、偶然にも侃とおれんじ両方に縁がある土地でした。

 侃は子供の頃に、おれんじは数年前に、それぞれその町に住んでいたのです。その偶然がおれんじを喜ばせ、そして侃を困らせました。


 そう、この期に及んでまだ侃は困っていたのです。


 すでに数回の通話と、ほぼ毎日のメッセージのやりとりと、チャンネル空間でのヴァーチャルデートを二度ほど楽しんでおきながら、いまだに侃は何かを決めかねて、その場をなんとか居心地の悪い時間だと思おうとしていました。


 ですから、初の生身のデートは盛り上がったのに、楽しかったのに、盛り上がり楽しかったからこそ、侃の心の一部はそのことを苦々しげに感じていました。


 当意即妙の会話を楽しみ、無言の気ままさを楽しみ、自然と重なる歩調を楽しみながらも、侃はどこかにおれんじのことを嫌える要素やおれんじが自分を嫌う要素がないかを探し続け、通常のデートの三倍疲れ、そして三倍の疲労もむなしくそんなものを見つけられはしませんでした。


 彼女はずっと素敵で、侃はずっとそのことを思い知らされるばかりでした。


 共通の町並みの記憶やところどころに食い違う思い出に会話も歩調もはずみ、二人は町を横切って河原へとたどり着きます。

 土手をあがって、わあ、と声をあげたのはおれんじの方でした。



「すごい変わりよう……」



 侃も川辺の景色を眺めながら、ああ……、と声を漏らします。


 川の向こう岸にはのっぺりとした乳白色の建物が視界いっぱいに広がっていました。


 巨大化したおもちゃのブロックのようにも見えますし、空から降ってきた出来損ないのプリンのようにも見えるそれは、搬入口や入り口などがすべて川に背を向けて作られているので外界と繋がる部分がどこにも見当たらず、異様です。



「無人工場……PS社のハイパーバクテリアプラントですね」


「わたしがあの辺に住んでた頃はまだあんなのなかったなあ」


「住んでたのって……」


「職業短大を出た後だったんで、五年ぐらい前ですかね」


「じゃあ、無人工場関係の法律が整備されて誘致が始まったのがちょうどその頃なんで、まだなかったでしょうね」



 へええ、と聞いているのかいないのか、生返事で応じながら、おれんじは対岸を眺めつづけています。


 彼女の瞳は工場に向けられていますが、その焦点はどこか別のところで、もう存在しない彼女の記憶で結ばれているのが侃にもわかりました。


 侃もまた、工場よりも以前の風景をそこに見ていました。



「初めて就職した頃なんですよ……この辺りにいたの」



 おれんじは相変わらず、ここではなく今ではないどこかを見つめながら言いました。



「会社の用意したマンションの部屋がすぐそこにあって。仕事は物流用ドローンの営業担当だったんですけど」


「営業、ですか」


「私には向いてなさそうでしょう」


「今のお仕事よりは、まあ……」



 おれんじは大いにうなずきます。侃もつられてうなずきます。



「向いてませんでした。今時珍しく電話営業ですよ? 音声通信なんか受信可能にしてる人ほとんどいないのに……。あのころはぼんやりと感じてただけでしたけど今ははっきりわかります。あの会社、嫌いでした。上司も高圧的で同僚もぴりぴりしていてノルマと残業ばっかりで自宅勤務もなくて毎日出勤しなくちゃいけなくて。朝起きるともう、帰りたい、って泣きそうになってるんです……それに比べると輸入植物の管理って、天職です」



 正直、意外だと感じていました。

 侃はこれまでおれんじの中にそういった暗い部分を見たことがありませんでした。

 その可哀そうな新社会人の話は、まるで別人のことのようにすら聞こえます。



「会社は駅の近くで、私のマンションは川の向こう側なので、この土手をこうやって橋の方まで歩いて帰るんですけど、ぼうっとチューハイゼリーのパック片手に向こう岸を眺めるのが、なんとなくの日課だったんです」



 おれんじはその風景を眺めながら侃の横を歩きます。もちろん侃には彼女が見ている風景は見えません。


 侃の知らないおれんじが、侃の知らない風景の中を歩いていく。


 今に連なる、しかし今とは違う景色。


 目の前の景色のいつかあった姿。


 それは前世のようなものかもしれない、と侃は思います。



「そのときはまだ、工場は無かったんですか」


「ええ、大きいグラウンドと、木があったのを覚えてます。たまにライトがついてて、何かの練習とか試合みたいなのがやってて……その、明るいところからね、少し離れたところにすごく大きな木があったんです」


「……どれですか」


「うーん、もうありませんねえ、工場を建てるときにグラウンド共々潰したんでしょうね。立派な木でした。土手に遮られて、こんなに離れてるのにはっきりわかったぐらいですからね、すごく大きかったんだと思います。なんとなくぼうっと、あれを眺めるのが好きでした」


「それは……残念ですね」


「ええ、ほんとうに」



 おれんじの見る景色と侃の見る景色が、一瞬重なります。

 その大きな木は侃の記憶の中にも存在していました。



「森野坂さんは何年ぐらい前にこの辺りに住んでたんですか」



 胸のうちを見透かすようにおれんじが尋ね、侃はより一層、過去の気配が濃くなるのを感じながら答えます。



「子供の頃です。四歳……六歳ぐらいかな。小学校に上がる前でした」


「ああ、じゃあもうかなり違うでしょう」


「そうですね。この辺りの護岸整備も済む前で、ひどい大雨で土手の一部が決壊したことがあって」


「そうなんですか?」


「僕も小さい頃なんではっきりと覚えてないんですけど。川べりに、ええと、家……がありまして、それでみんなで避難をしたことがあって、怖かった記憶があります」


「ご家族はみんな無事で?」


「うーん、みんな……まあ無事ではありました」


「そう、それならよかったですけど……」



 おれんじが腑に落ちない顔でそう言ったのは、侃の歯切れが悪かったからでしょう。

 どうするべきか躊躇はしましたが結局侃は正直に口にすることにしました。べつに隠そうというつもりはなかったのです。なのになぜだかおれんじにそのことを話そうとするのにはささやかな勇気がいりました。


「僕、小さい頃、施設で育ったんです」


「施設ですか」


「はい、川べりにあったのはその施設です」


「どんな施設だったんですか」



 喉に何かが引っ掛かります。この事について他人に話す度にいつも感じるその感触を、ぐっと飲みこんで、一拍置いて侃は言いました。



「様々な事情で、両親と暮らせない子供たちが集まって……集められていて、ですかね? ええと、大体高校生ぐらいまでの人たちで……職員の方たちと一緒に暮らしてました。30人ぐらい、いたのかな。僕は生みの親が生活能力の無い人で放置子だったんですが、ついにある日、親が何かの犯罪をしでかした上にその足で死んでしまったため、その施設に入所することになった……らしいです。他にも色んな事情の子供がいましたけど、意外と親が死んでるとか親に捨てられていたとかは少ないんですよね。大体何らかの事情で親が育てられなくて預けられたり保護されたりって子供が多くて。それで、僕は小学校にあがる前ごろに、いまの母に引き取られました。母は長らく外国で暮らしていて、帰国してから父と結婚し、子供を産むには体力的に不安があるということで養子をとりました。施設で一番口数が少なく、本を読むのが好きで、歌がうまかったので、母は僕を気に入ってくれたようです」



 おれんじの方を見ないようにしながら一気にそうまくしたてて、それでも言葉は足りない気がしました。

 もっと何かを話し、補足し、こういった話に付き物の感想から少しでもおれんじと自分を遠ざけたかったのに、侃が何かを追加で口にするよりも前におれんじは小さく吹き出してしまいました。



「どんなところって、そういうこと聞いたんじゃないんですよ?」


「え」


「どんな建物で、広いかとか狭いかとか、庭はあったとか雰囲気はよかったとか、おもちゃはあったかとか壁紙の色は何色だったとか、ご飯は美味しかったかとかそういうことを尋ねたつもりだったんです……ごめんなさい」


「……ああ」



 気負っていたことが露呈したようで侃は恥じ入り、顔を赤くします。左手を額に当てて不自然に唸ります。

 おれんじはそれをさらに笑いました。



「おかげで森野坂さんの生い立ちがよくわかりました。ありがとうございます」


「いや、なんだかすいません。すいませんというのも違いますが、すいません」


「歌、うまいんですか」



 おれんじは楽しそうです。

 いつもこの話をするときと違って、少し気分が軽くなっていることに侃は気が付きます。



「……子供の頃の話です、今はもう、そんなに歌いません」


「差し支えなければ何か歌ってくださいませんか」


「差し支えます」


「じゃあ差し支えても、無理ではないようでしたら、なんでしたらわたしも一緒に歌います」


「……急に歌えと言われても、すっと出てくる歌がないです」


「じゃあリクエストを」


 そう言っておれんじは人差し指を立てて目をつぶります。


 しばしの沈黙。


 ゆっくりと目を開き、おれんじが告げます。



「……『椰子の実』って歌、わかりますか」


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