10、江戸前のタコ
「そ、いま思い出しても腹立たしいのよ、あのタコ」
「……は、タコ、ですか」
すっかり虚をつかれた侃が、ついつい襷さんの唐突な話に乗ってしまいます。
このリズム。このタイミング。
この素っ頓狂で間の抜けた声音で引き込む手練手管こそが、襷さんという人なのです。
「盥ちゃんの所に籍入れた時ね、転入者にも前世が発行されますっていうからこっちはワクワクしてたのよお」
「あ、そうなんですか」
「そんで、身分証はもちろん、ポイントカードからお薬手帳から通帳から何から何まで情報集めて、挙句に散々待たされて出てきたのが……“あなたは江戸前のタコでした”だよ?」
「またその話ぃ?」
私は呆れて、グラスを空にします。
襷さんがいつまでも根に持つその件は、前世の話になると必ず出てくる定番でした。
「だから説明されたじゃん。転入者はデータ少ないから動物になるのは仕方ないんだって。あたしが東京の落語家だったから、襷さんはほら、ねえ」
「にしたって、タコってさあ。猫とか、鷹とか、鯨とか、もっと粋でかわいい動物にできなかったもんかねえ」
「鯨はかわいいかあ?」
「タコよりかはかわいげあるよお」
「タコだってかわいいじゃないさ」
「中身が私ならそりゃあそうだろうけど、でも一般的には」
「あの、二人とも、ちょっと僕の話を」
すっかり襷さんのペースに巻き込まれ戸惑う侃を、さらに襷さんはタコらしくからめとります。
「あ、だから私は侃さんの味方だよ、馬鹿馬鹿しいよねえ、前世なんて」
「え? ありがとうございま」
「なにそれ! べつにあたしだってさ、従前生が完璧だとは言ってないじゃん!」
「だけど盥ちゃんはなんだか肩持つでしょう、前世の」
「肩なんて持ってないよ、それが普通なの! この街ではそれが大多数の考え方なの、それだけ!」
「あの盥も、ええと、わかったから二人とも」
「はあー! なにかっちゃあ、すぐこれだよお! ねえ侃さん? いつもこうなのよ。この街ではー、あがす市ではー、従前生はー」
「そんなに頻繁にこんな話しないでしょ!」
「話はしないけど思ってはいるでしょお」
「思うのは勝手でしょ、思うのは。思想の自由じゃん!」
「ねえちょっと二人とも一回おちつい」
「はいはいそうだねー、盥ちゃんは自由だもんねえ」
「あのさ、ね、僕の話」
「襷さんの方がよっぽど自由じゃん! 自由の権化みたいなくせして!」
「なにそれえ! 自由の権化ってなに! なんかやだぁその表現! 私すごく能天気バカみたいじゃない! っていうか侃さんもさあ!」
「あ、はい!」
ぴん、としょぼくれていた侃の背筋が伸びます。
「前世でくっつけられるのは不本意って言っておきながらさあ!」
「あの、ですからその件は」
「結局前世のせいで気になる相手と付き合わないって言うんでしょ?」
「付き合わないというか……ですね」
「それって結局前世の影響受けてるってことにならない?」
「あ…………え?」
凄まじいハンドリングと根拠不明の勢い、こうなるともう襷さんに勝てる人はいません。
そして何より、冷静に聞いてみると、往々にして襷さんの言っていることは的を射ていたりもするからなおのこと混乱するのです。
「言わばそれも前世の相性をもとに自分の行く末決めてるってことになるんじゃないの!?」
「その、とおり、です、ね……あれ?」
「でしょう!」
「……はい」
ふん、と胸を張り、高らかに瓶ビールを直接飲み干し、それでも飽き足りずウインニングランさながら冷蔵庫へと歩いていき、取り出した缶ビールをぷしゅりと開けて、改めて襷さんはそれをかかげます。
「とにかくもう一度会ってみなさいってえ!」
「え?」
「侃さんも好きなんでしょ、その子のこと!」
「はあ……え」
「ね!」
「あ、じゃあ、会ってみま、す」
「はい決定ね、それでおしまい!」
「…………?」
侃の負けです。
なにがどうしてこうなったのか、わけがわからないと言った風に侃は首をかしげます。
襷さんのいつものことながらの魔法のような強引さと手腕に舌を巻きながら、私は侃から隠したピースサインを彼女に送ります。
勝利の美酒に酔いしれる妻は、それに応えるように途端に鼻歌交じりになってこれまた魔法のようなおつまみの大群を机の上に広げていきます。
つまるところこの一連のやりとりこそが侃のルーティンであり、そして私たち婦妻のいつもの役割なのです。
ええそうです。
この愛すべき変人であるところの森野坂侃の友人である私たちもまた、おそらくは、どうやら変人のようなのです。
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