9、蓼原婦妻
侃の家がある郊外の新興住宅地帯から、さらにさらに閑散とした本当の郊外へと車で20分ほど、辺鄙なところに私こと
妻は在宅仕事、私は一年の三分の二が在宅仕事、となればそこまでの不便を頻繁に感じることはありませんが、やっぱり不便は不便です。
それでも中古物件をふらふら下見していた折に襷さんが口にした「盥ちゃん……私はね……丘の上に住みたい少女だったのよ……!」という静かな興奮の声を聞いてしまえば、もう私に逆らうことなどできるわけがありません。
なるほど小高い丘と言えなくもない位置にその築25年二階建ての家は建っているようにも見えましたが、私にしてみればただの傾斜のてっぺん、ささやかな地面の隆起としか思えませんでした。
しかし不思議なもので、いざ住んでしまうと、我々だけの家というのも相まってあらゆる部分に愛着がわいてくるものです。
ささやかな傾斜だって可愛げのある丘に思えてきますし、疲れているときには呪いたくなるようなその坂も、唯一無二の我が家の象徴に感じられるのです。
なにより、夕暮れと宵のあわいにえっちらおっちら我が家へと登ってくる人影を窓から眺めているときなど、えもいわれぬ風情を感じて思わず微笑んでしまいます。
そんな様子を眺め下ろしながら窓辺で早めの晩酌をするのは、私の日々の楽しみになりました。
しかし、その日の仕事終わりに我が家を訪ねくる侃を見た時は、私の口は微笑むどころか思わずへの字を結びました。
見るからに疲れ果てた様子のその原因が、さっき終えて来たばかりの仕事ではないことは明らかです。
大して距離もない坂道をなかなか我が家までたどり着けないようなのですから、よほどのことでしょう。ぽつりぽつりと灯された街灯に伸ばされた影は左右に揺れ、それはそのまま、彼の心の内のようでした。
「……重症だね」
と、ビールをすすりながら私が呟くと、料理の手を止めて襷さんも窓辺に顔を並べます。
「あらほんと、分かりやすいねえ。……交パの相手とは順調なんでしょ?」
「そのはずだけどね」
「なのに?」
「”だから”ひどいんじゃない?」
「いつものやつ?」
「いつもよりひどい」
「じゃあよっぽど良い相手なんだあ」
「……どうだろね」
襷さんは満足げに頷いて料理に戻ります。
物事を常に面白おかしくとらえようとする襷さんは、侃の性格を自家発電と呼んで笑います。いつも自分で燃料を用意して、自分で物事を複雑にしている、と。
私もそれには同感です。
侃はみずから物事をややこしくしていると、長年傍らで見てきても思います。
しかし、時々、私は考えてしまうのです。
小高い我が家からびゅうびゅうと吹き降ろされる風によろめく侃を眺めたりしながら。
ほんとうに馬鹿だねえ、と呟いたりしながら。
あそこで風に吹かれているのが自分だった可能性がまったくなかったとは、言い切れないんじゃないかって。
侃も私も、ある部分では似た者同士なのです。
侃の偏屈さや不器用さを、一笑に付すことができないのは、そういう弱みが私の中にもあるからでしょう。
だから私はいつもいつも同じところで悩んでいる侃のことを、襷さんほどのんきには眺められないのです。どうしてもそこに、お節介だとはわかっていても口も手もはさみたくなってしまうのです。
「盥……どうしよう」
長い長い歩みの末に、風に巻かれるように我が家に転がり込んで来た侃は開口一番そう言って、こちらが聞くよりはやく困り果てている現状を滔々と語り続けました。
私と襷さんは、顔を見合わせて苦笑します。
なおも続く弱音の隙間隙間に相槌をはさみ、身振りでうながし、なんとか侃を椅子に座らせ、ビールを出してやり、お酒と襷さんお手製のおつまみをお供にそれを聞き続けます。
それはまるである種の怪我や病気の治療法のような、一連の決まり事です。
侃はこうして、誰かと良い関係になるらびに、なりそうになるたびに、わが家へやってきて「どうしよう」をひとしきり始めます。
「どうしよう」のルーティン、と我々蓼原
ただし今回は、いつもと違うところがひとつだけありました。
それは、苦悩を話す侃の言葉の端々に、どこかやさしさのような、いつくしみのような、ささやかな柔らかさが感じられること。
その違いに、襷さんは気が付いたでしょうか。
少なくとも私にはそう感じられました。
侃は困りながら、その実、困っていることをどこか喜んでいるようにも思えたのです。
やがて侃は何度も何度も同じ言葉を回転させ続けていることにやっと気が付くとようやく口を閉じ、そうしていま初めてその存在に気が付いたという風に、目の前に置かれているすっかり気の抜けてしまったビールをぐびぐびと飲み干します。
さあて、と私は腕まくり。
ここからが、毎度のことながら、私の仕事なのです。ぐびりとビールを飲んで喉を湿らせ、身を乗り出します。
「侃、ちょっと思ったんだけどね」
「うん、もう一杯いいかな」
「どうぞご自由に。……そんでね、話を聞いての感想としては……つまりその、率直に言うと……」
「ああ」
「何が問題かわかんないんだけど」
「なん……!」
と、勢いあまってむせてから、侃は続けます。
「なんで! 説明した、したじゃないか、だから、」
「はいはい、だから、渡良瀬さん? だっけ? 前世の相性は良いし、向こうは乗り気だし、侃もその子のことは好きかもしれないんでしょ?」
「好きっていうか、まあ気は……合うけどさ」
「どれぐらい?」
「……オールド70’sニューミュージックの話で一時間以上盛り上がれるくらい」
「話も合うわけだ」
「まあべつに……話すことがなくても、ただ二人でぼんやり景色を眺めたりとかも苦じゃないかな」
「波長も合う」
「それで……次もいつ会おうかって話になってるんだけど、どうしたらいいもんか……」
「だから、会いなさいよ」
「そんな、簡単に言うけど」
「簡単じゃない。会えばいいじゃない。会いたいと思えるうちは」
「べつにこっちから会いたいと言ったわけでは」
ふてくされたようにムキになる侃。
段々と私もイライラしてきます。
「ええ、なに、会いたくないの?」
「いや、そういうわけでは」
「じゃあ会えよ」
「それはでも……」
「でもじゃなくてさ」
「うーん、でも……」
絶妙なコンビネーションで、まず襷さんが私の前に置いてあった皿とグラスをよけ、その一瞬後に私は身を乗り出して侃のおでこをすぺんと叩きます。
それで再び繰り返しそうになった堂々巡りが止まります。
あのねえ、とため息交じりにたっぷり間をおいてから、一語一語嚙み含めるように私は言いました。
「従前生の、前世の縁でつながるってのがね……あんたには気にくわない。それは、まあわかるよ」
おでこをさすりながら、侃は不承不承うなずきます。
「そんなものを信用してない、くだらない、だからそんな縁でつながるなんてあり得ないって、そういうあんたの態度に今さら何かを言うつもりも、ない」
「そっ」
すぐさま何かを付け加えようとする侃を制し。
「――ないけども。だからと言って自分の気持ちより従前生に逆らうことを優先するってのは本末転倒じゃない?」
「本末……」
「転倒。それぐらいわかってるでしょ」
まるで駄々をこねる子供のように、侃はうなだれます。そこへ追い打ちをかけるように私は続けます。
「……いつまで、同じこと続けるつもり」
「……なにがさ」
「まだ役所に問い合わせ、続けてるんでしょう」
「それとこれとは」
「そんなことに意味があるって、ほんとに思ってる?」
「盥に関係ない」
「ほお、関係ないって言うなら……」
「なんだよ」
私と侃が椅子から少し腰を浮かせます。お互いが大きく息を吸い、衝突を予感したタイミングで、おつまみの皿を新しく持ってきた襷さんがすっとんきょうな声をあげました。
「あ、そうそう役所って言えばさあー、タコのことなのよねえ」
「なに、タコ?」
私はまだ侃を見据えたまま声だけで返事をします。
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