12、気持ち
「……『椰子の実』って歌、わかりますか」
おれんじがそう言い、侃は内心の驚きを押し殺しながら尋ねました。
「……童謡の?」
「童謡かはわかりませんけど、すごく古い歌」
侃はそのリクエストに落ち着かなくなりながらも、最初のメロディを微かに鼻唄で歌いました。声は、やや震えていたかもしれません。
おれんじがはしゃぎます。
「わあ……続けていただいても?」
手のひらを差し出し促すおれんじに、侃は素直にしたがいました。
――名も知らぬ――と歌い始めると、侃の目の前からおれんじは消え失せました。
ここではないどこか。
自分ではない誰か。
そんな情景が、記憶が、目の前を歌と一緒に流れていきます。
――名も知らぬ 遠き島より 流れ寄る 椰子の実ひとつ――
音と一緒に、言葉と一緒に、侃の体の奥底からその情景はするすると湧き出してきます。
――ふるさとの岸をはなれて――
その声にそっと、少しハスキーな女声が重なりました。
その声で侃は、現在の河原の土手に引き戻され、侃の声に寄り添うように合唱をするおれんじと目があいます。
――汝はそも波に幾月――
そうして不慣れなユニゾンはたまに離れながらも重なって、川の流れと一緒に遠く消えていきます。
最後に――いづれの日にか国に帰らん――と結び、合唱は終わりました。
おれんじが、ほお、と息を吐き、しばらく二人は何も言わないで、歌の続きが無言の中に流れていくのを感じていました。
「……なにか、言ってくださいよ」
続く沈黙に耐えきれず侃がそう言うと、おれんじは静かに拍手をします。
厳かにすら見える拍手の仕方でした。
「ありがとうございました……噂に違わずお上手でしたね」
「やめてください恥ずかしい」
拍手がゆっくりとおさまっていきます。
「でも、とても悲しそうに歌うんですね、のどかな歌なのに」
「そんなつもりは、ありません、けど」
ぎこちなく返事をしながら、侃はまた目の前の風景、川の向こう岸に今ではないいつかを見ます。
「あの、渡良瀬さん」
「はい?」
「なぜ、この歌をリクエストしたんです?」
「なんとなく思い付いただけです」
振り払おうとしても、前世のようなその写し絵は現れ続けます。せめて先ほどのように、おれんじが歌声を重ねてくれたならその絵は消えそうなのに、そうはなりません。
「でも森野坂さんもご存じだったみたいで良かった。あの大きな木のことを思い出したからですかね。あれはもちろんヤシの木ではなくて……たぶん杉の木だったと思いますけど、でもふと思い付いて……」
「そうですか」
木の話が出たとき、もう侃はおれんじのことを見ないで土手を降りるべく歩き出していました。
自分でも思いもよらない体の反応でした。
あれもりのさかさん、というおれんじの声が後方から侃を追いかけますが、侃は構わずに歩き続けるしかありませんでした。少しでも川べりから離れなければという一心でした。
「ちょっと!」
侃の右手首に細いけれどしっかりと力の入ったおれんじの両手がすがったのは、駅へと向かう大通りに差し掛かる直前でした。
思いもよらない凄まじい力に思わずよろめき振り返ると、侃の後頭部に風圧と轟音が吹きつけていきます。
大型トラックが通り抜けていく風でした。
手首をつかまれなければ吹き付けてきていたのは侃の破片だったでしょう。
「危ない……です」
「……すいません」
「急にすたすたと……わたし、ずっと呼び掛けてたんですが、聞こえてましたか」
侃は答えません。おれんじは構わず続けます。
「体調が悪い?」
侃は答えません。
侃は何も言えません。
おれんじを傷つけずに、しかしもう会わない、という意思を伝えられるような言葉が、見当たらないからです。
「では、わたしが何かしましたか? 急に歌をうたわせたから? それはすいませんでした、でも」
「いえ」
言葉は、見つからなくても。何かを話さないわけにはいきませんでした。
そうでなければ、おれんじに決定的に嫌われてしまうと思いました。
「もう会わない」と伝えたいはずなのに同時に「嫌われたくない」と思っているその矛盾を自覚しながら、それでも侃は懸命に言葉を探し続けながら言いました。
「渡良瀬さんは……何も。あの、悪くありません。うた、歌をうたうのも……僕は嫌じゃありませんでした。ただ、ぜんぶ、僕の問題です。僕が悪いんです」
話しても、話しても、言葉は見つかりませんでした。侃が探しているものではない言葉だけが侃の口をついて出ます。
これは僕の言葉ではない。わかっていても、それしか口にできる言葉はありませんでした。
「……わたしといるのが嫌になったのか、あの場所にいるのが嫌になったのか、どちらですか」
「嫌、だなんて言ってない、です」
「でも」
「あなたとは一緒にいたいと……思ってるんです、たぶん」
付け加えた最後の、たぶん、におれんじの眉が寄ったのがわかりました。
おれんじは、怒っているのかもしれません。
それでも彼女の声にはその片鱗すら感じられず、いつも通り、侃がずっと聞いていたいと思う、いつもの抑揚でした。
「じゃああの場所が嫌でしたか? 施設があったから? 施設のことは触れてほしくない思い出ですか? そうであればもう二度とその話はしません」
おれんじの態度はあくまでいつも通りのもので、侃の手首に込められた力以外、彼女はどこにも力みなく、激しくなく、そこにいてただ話しているだけです。
その態度は侃を観念させます。最適な言葉が見つからなくても、言葉を尽くすしかないのだと、諦めさせるには十分でした。
しかし侃の体のどこかが、何かが、言葉の一部を飲み込ませ、出てくるのは虫食いの吐露だけです。
「……あの歌、歌が……僕は」
「椰子の実?」
「あの歌は、僕は……ずっと、小さい頃からつい、口ずさんでいて……」
おれんじは、言葉の意味を咀嚼しているようでした。意味など分かるわけがないのに。それでも彼女は、そうしてくれようとしていました。
侃は、必死に、思いつく言葉を並べるしかできませんでした。
これは僕の言葉ではない。僕の言うべき言葉じゃない。それだけを考えながら。
「ぼ、僕はっ、自分の前世を信じて、い、いない……です」
侃の手を握るおれんじの力が少し強くなりました。
「僕の前世は何かの手違いで割り当てられたんです」
こんなことが言いたいわけじゃない。
「ですから、渡良瀬さんとの縁も、あの間違い、なんです」
これは違う。
これは僕の言葉じゃない。
「僕の前世は僕のものではないので、本当の僕にはまた別の縁があるはずでして……」
でも、じゃあ、本当の僕の言葉は?
本当の僕の縁は?
そんなもの、本当にあるのだろうか。
そんな心の内は、声になってはくれませんでした。
「だからあなたと一緒にいるのは……だから……間違い……のはず、なんです」
おれんじの手が、侃から離れました。
さらに強く握られるかと覚悟していた侃は、少しの間戸惑い、立ち止まったままでした。
しばらく待ってみて、それでも呆然としているおれんじから何も言葉が出てこないのを確認してから、やっと侃はじりじりと離れ始めます。
「……気持ちではないですよね」
「え」
おれんじが呆然としたまま、呟いたようでした。
「それは、森野坂さんの気持ちではない、ですよね」
「いや、あの」
「それは、あなたが信じてる、推論です」
「でもあなたと僕」
「わたしは!」
初めて聞く、おれんじの大きな声でした。
まるで別人のような。
おれんじではない、誰かのような。
しかしそれはやっぱりおれんじでした。
おれんじの、素直な気持ち以外の何物でもありませんでした。
「…………森野坂さんの気持ちが知りたいんです」
――――僕の本当の気持ちは?
侃は、もう、何も言えませんでした。
何も言えず、言えないからこそ、足はこの場から逃げようとし続けていました。
今度は車が通っていないのをちゃんと確認してから道を渡ります。
おれんじはもう問いかけを重ねはしませんでした。
彼女は追ってきません。
侃は振り向かないように耐えながら駅まで歩き続けました。
自分が逃げていると自覚していました。しかもおよそ考えつく中でも最低の逃げ方だということもわかっていました。
しかし自分が逃げているのがおれんじからなのか、あの川べりからなのか、今は存在しない過去からなのか、それよりももっともっと前、役所から命じられた前世からなのか、自分の本当の気持ちからなのか、それだけはいくら考えてもわかりませんでした。
わかりたくもありませんでした。
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