7、夕凪ファイン
おれんじから連絡があったのは、
――ホエールウォッチングでもしませんか。
「夕凪ファイン」が、おれんじの告げたデート場所でした。
あがす市内の新進気鋭のデザイナーが作ったそのVRチャンネル空間は、侃もかねてから訪れてみたいと考えていたスポットだったので驚きました。驚いている隙をつかれて、思わずデートをOKしてしまったほどです。
ヴォレロをバックに誓った決意もむなしくするりと、いいですよ、という言葉が自然と口をついて出ていました。
こうしてあっさりと、二人の初デートがVR空間で行われることが決まったのです。
その予定は侃を深く深く悩ませ、当日を迎えるまでろくに食事も喉を通らず、眠れず、ため息ばかりがついて出る日々でした。
憂鬱でした。
不安でした。
なんならもう、おれんじには会いたくないとすら思っていました。
ペースを乱され、言うべきことを言えず、落ち着かない。そんな思いをするのが目に見えていたからです。
しかし当日になってみると侃の行動は裏腹なものでした。
VRチャンネル通信では関係ないはずなのにわざわざシャワーを浴びて着替えてから、転がるように自室へと滑り込み、ヘッドディスプレイをつけ、感触端子を両手に装着し、首筋に電脳アクセプターを貼りつけるのももどかしく、そわそわと端末を起動します。
そうしながら、こんなはずではないのに、と頭の片隅で考えている自分がいるのもまた、確かなことではありました。
が、もちろんそんなことはチャンネル空間内でおれんじと疑似的な再開を果たした瞬間に忘れてしまいました。
デートの始まりです。
「VR簡易官能チャンネル空間通信」の詳細については今さら言うまでもないでしょうからここでは説明を割愛しますが、PS社謹製のヴァーチャルリアリティ技術によって作られた超現実仮想空間内でも、おれんじはやはりくるくるとよく動く表情とぴしりとした発声でもって侃を落ち着かなくさせ、侃はそのペースを乱されたまま、乱されながらも、楽しんでいる自分に気が付き戸惑いました。
まさか、いや、そんな。
紺碧の空を軽々と舞うクジラを眺め、二人で歓声をあげながら、侃は思います。
そんなはずはない。
水面を歩きながら足元に沈んだ高層ビル群の廃墟に息をもらし、互いに何も言わなくてもいいという安堵の無言を感じつつ侃は考えます。
そんなはずはない。
それはまるで、あがすシティホテルのラウンジの続きのようでした。
おれんじといることは、侃にとって、ひどく落ち着かないことでした。
落ち着かないはずなのに……。
「森野坂さん、楽しめていますか?」
まっすぐにそう尋ねられて侃は言葉に詰まります。
永遠に沈まない夕暮れの中、おれんじは瞳をその名前の通りオレンジ色に輝かせ、侃がうまく返事ができずにいるのすらも織り込み済みと言った風に続けました。
「わたしは大変、楽しいんですが」
「……それは、良かった、です」
「ええ、なので森野坂さんも楽しいと嬉しいのですが……」
おれんじの視線がぐるりと侃の周りを巡って、
「そこまで求めるのは高望みというものでしょうから、やめておきますね」
楽しい、と言いそびれた侃の胸には罪悪感が広がりました。
同時に、それでいいのだと言い聞かせる自分もいました。
おれんじとの付き合いを続けるつもりはないのですから。そのはずなのですから。相手をぬか喜びさせてはいけないはずです。
それが正しいのです。
「あら、あそこ、素敵ですね」
完全に何も言えなくなった侃はそのままに、おれんじが声をあげた先には小さな島が見えていました。
いびつな影でした。
水面に浮かんでいたその影は、近づいてみるとさまざまなガラクタの寄せ集めでできているのがわかります。
侃とそう変わらない大きさの招き猫や、ラーメンどんぶりのオブジェから無限に上下し続ける麺と箸、本物の何十分の一ほどの富士山、ぎこちなくうごめく蟹のハリボテ。
様々な看板や意匠や置物たち。
かつての街並みの最終処分場。
日々の記憶のコラージュ。
新しい時代のために捨てられていったものたち。
そんなイメージを侃は抱きます。
しかし不思議と嫌な感じはしません。むしろ、ノスタルジーと愛着すら、その死骸の小山に覚えるのです。そう、なんだか無性に……、
「おつかれさま、って感じ、しますね」
……そんな風に声をかけてあげたくなる気持ちでした。
口に出したのは、おれんじです。
しかし侃も、同じことを感じていました。
その日何度目かのそんな偶然は、侃にもはや驚きではなく安堵を感じさせるものになっていました。
「ああ、これ、こんなところにもあるんですね」
おれんじはそう言って、半分水につかったがらくたの山すそから、なにかを拾い上げました。
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