6,ヴォレロ

 「侃さん、帰ってたの」



 と、声をかけられ侃はまどろみから目覚めます。

 ゆっくり辺りを眺めながら、一瞬、今がいつで、自分が誰なのか、わからなくなっていました。



 初めて自分の前世……誤った前世が届いたときのことを夢で見ていた気もします。



 いや、またはその前世の内容、オレゴン州を走るドライバーになっていた気もします。



 もしくは、今この瞬間こそ、いつかの誰かが夢に見ている前世の記憶なのかもしれない、そんな風にも思えました。



「あなた、今日行かなかったの?」



 暗闇から柔和な声がそう言い、続いて部屋の電灯がつけられ、人影が現れます。


 その姿を見て、自分は現代の、森野坂侃で、ここは自宅のリビングで、目の前の着物姿の女性が自分の母だということをはっきりと認識できました。


 認識してから、まず慌ててスラックスを脱ぎました。シワになってしまうと思ったのです。「あがすシティホテル」から帰ったままにソファで寝入ってしまって、スーツ姿のままだったのです。


 母は侃の返答には別段興味がないようで、そのまま買い物袋から順番に物を取り出し、ダイニングテーブルに並べていきます。



「いや……ちゃんと行ったよ」


「なあに?」



 まだぼんやりとした頭で、自分が今日会った女性のことを思い出します。変な、女性だった、という記憶があります。なぜだか思い出しただけなのに、恥ずかしくなります。その影を追いやるように母との話に集中しようとムキになります。



「交流促進パーティー、行きましたよ……ちゃんと」


「ならなんで――」



 母の視線は大げさに部屋の壁時計へと動き、「まだ宵の口じゃないの」と侃に示します。ひょうきんなその動きは、理知的で整った顔立ちときっちり着付けられた着物とはアンバランスでした。



「――こんな時間に帰ってるの?」

「16時までだよ、パーティー」

「でもその後にほら、二次会というか、気が合った相手がいたら……」



 そこまで口にしてから何かを勝手に察して、母は口をつぐみます。



「……ごめんなさいね、野暮なこと」


「なに勝手に残念がってるの」


「だって、そういうことでしょう。うまくマッチングが」


「相手は見つかりましたよ」


「ほう」



 母の手が、止まります。

 整然と並べられた品物の列の最後尾、バイオもずく酢のパックがこてんと倒れました。



「……詳しく話して」


「話さないよ」


「恥ずかしがらなくてもいいでしょ、話したまえ、さ、ほら、ほらほら」



 ことさら茶化す母の本心を侃はわかっていました。飛び上がるほど驚いているか、もしくは飛び上がるほど喜んでいるかのどちらかです。なにせ侃に今日の交パを薦めたのは母なのですから。


 侃は応えず、品物を取り出し並べるのを手伝います。


 それは森野坂家恒例の儀式でした。

 

 買い物から帰ると、買ってきたものを整然と並べ、これはどこそこで買った。あれは何々に使える、とひとしきり話し、それから順番にあるべきところにしまっていくのです。

 侃は小さな頃から、その儀式がとても好きでした。

 まるで戦利品を並べる海賊たちのようで、とても好きでした。



「……輸入植物の、管理をしてるってさ」


「なに? あ、その濃縮アボカド立派でしょう? みなとやで安かったの」


「今日話した人、の仕事。輸入植物の管理だって。ちょうどアボカドの刺身食べたかったからいいね」


「へえ、そんな仕事があるわけ。そのタコはこの間おいしかったモーリタニア産じゃないの、高くてとても手がだせなくて、大人しく瀬戸内産の買ったわ……それで他には?」


「あとはピーナツバターとファイバーわかめとなんかの缶詰め」


「そうじゃなくて、他にパーティーで話した人、いないの? その缶詰めは……ええと……なんだっけ……ほら」



 缶詰めの名前と侃の言葉を同時に引き出そうと、母は眉根を寄せながら指をするする動かします。

 侃はそれを眺めながら、母の老いを感じます。

 眉間によったシワは当然ですが年々深くなっていきます。母の顔に、薄くたどれる迷路のようにしわがつけられていくのは、侃をいつも落ち着かなくさせます。



「ランチョンミート。その人としか話してない」


「ああそう! それ! 懐かしくて買ったのランチョンミート! ……その人としか? 話してないの!? 一人だけ!? もったいない!」



 言葉が出た勢いそのままにそう続け、侃が頷くのを見てから、ふう、と息をついて、母は元の調子に戻ります。忙しい人なのです。



「でもまあ、一人でも、話ができたら上出来か……」


「どうだろうね」


「よっぽどいい人だったわけ? その人は」


「……そういうわけでも、ないけども、どうだろう」



 ごにょごにょと口のなかで呟いて侃は戦利品を眺めます。


 海賊の戦利品。母の手によって各所から集められたものたち。


 豆乳バター、海苔、食器用洗剤、スポンジ、卵、コオロギのふりかけ、ようかん、バイオもずく酢、日本酒、濃縮アボカド、フードプロセッサの素、タコ、煮干し、ピーナッツバターの瓶、ファイバーわかめ、ランチョンミート。


 母の号令で、リビングのスピーカーからは、ラヴェルの『ボレロ』が流れだします。それだけでもう母の機嫌の良さを表しているも同然でした。パタパタと動き周りながら、戦利品を次々にあるべき場所に仕舞っていきます。


 そうして、本来であれば出会うはずのなかったバラバラのモノたちが、森野坂家の一員となって収まっていくのを見るのが、侃は昔から大好きなのでした。



 母はもう、侃からそれ以上のことを尋ねるつもりは無いようでした。ただ上機嫌に鼻歌を奏でるばかりです。

 侃もジャケットを脱いでスラックスと一緒にハンガーに吊るし、上半身はワイシャツ下半身はパンツ丸出しで自分の部屋へと引き上げようとします。


 

「あ、お酒、お父さんにあげておいてね」



 母が着物姿で器用に踊りながらそう言い、そう言われるよりも前にすでに日本酒のパウチを手にしていた侃は、見せつけるように酒を高らかに掲げます。

 音楽と共にお辞儀をする母。お辞儀をする侃。

 リビングを抜けて、和室に鎮座する父と飼い猫……の仏壇にお酒のパウチを置きます。


 ひと拝みして、ひと拝みしながら、やはりおれんじとの付き合いについてはっきりと断るべきだろう、と侃は心を決めます。


 背後から漏れ聞こえるボレロはフレーズの反復を繰り返し、いよいよ高らかに。


 その音楽に合わせて階段を上がりながら、侃は断る理由とその伝え方を考えます。



 断ろう。そうすべきだろう。だってあの人は……なにより自分は……。


 

 そう決心を固めるほどに、頭の中ではけらけらと渡良瀬おれんじが楽しそうに跳ねまわります。


 それをねじ伏せるように、さらに侃は考えます。どう断ろうか、いつ断ろうか。


 そんな心は知ろうともせず音楽は鳴り続け、いつしか侃の頭の中の渡良瀬おれんじも音楽に合わせて踊り始めます。

 おそらくは、侃の母が、そうやって踊り続けているのと同じように、おれんじはくるくると踊り続けます。


 侃の決意も思考もその踊りに巻き取られ、自分の部屋に入る頃にはすっかり、侃は鼻歌交じりで体を弾ませてしまっているのでした。

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