第18話 解放された言葉
拓海は川崎の本社にいるときは、私の家から通うことが増えた。
残業も多いので、やはり遅くに自宅に帰るのは体力的にしんどいようだ。
一人暮らしも考えているが、東北に長期で行くことも多いので、その間の家賃を考えると踏み切れないと言って、うちに泊まっていく。
拓海がうちに来てくれるのは嬉しいので大歓迎だが、拓海が家に帰ってこなくて心配だと伯母から聞かされると胸が痛んだ。
「同僚の家に泊まってるらしいの。ちゃんと食べてるのか気になるよ。これが花音の家なら食事の心配はないんだけど。拓海から連絡は無い?」
「メールは来てるけど、特になにも」
電話でそんな返事をしながら、ちらりとベッドを見ると拓海は先に眠っている。
もしも此処に居ると言ったら、伯母はなんと思うだろう。きっと動揺するに違いない。
「もしも花音のところに行ったら、なんか食べさせてあげて。様子も見てもらえると助かるわ」
「うん、分かった」
電話を切って拓海が明日着ていくワイシャツにアイロンをかけた。この家にある着替えの数もだいぶ増えた気がする。
ベッドに潜り込むと、拓海がもぞもぞと動いて腕枕をしてくれた。
「伯母さま、心配してるよ」
その言葉は聞こえてないようだ。拓海はすでに小さな寝息をたてていた。
だいたい三ヶ月に一度のペースで拓海は東北に行き、そしてこちらに帰ってくる。拓海が居ないときの週末は、なるべく伯母のところに顔を出すようにした。伯母も拓海の居ないこの生活には慣れてきたようだ。
*
私は大学四年になり、卒論のテーマを幕末の沖縄に関するものに決めた。
もともと琉球王国については興味があって本も読んでいたが、さらに自分でも掘り下げてみたくなったからだ。
そういえば、智行くんに琉球王国の小説を貸したことがあったな、と図書館で資料を集めながらそんなことを思い出した。
就職活動はあまり真剣にはしなかった。バイト先のデザイン会社の社長が声を掛けてくれたからだ。
仕事にも慣れていたし、社員や契約しているデザイナーさんとも親しくなっていたし、なにより家から近い。
今の家に居れば、拓海が帰ってきたときに、拓海も会社に行きやすいと思ったのが大きい。
早々に内定をもらえたぶん、卒論やバイトでの仕事に注力出来た。その点は恵まれていたと思う。
来年の四月からは正社員になるので、仕事に関しても踏み込んだ指導を受けるようになった。
夏に学部の友達と一緒に沖縄に行ってみた。
卒論を書くにあたって実際の沖縄を見てみたかったからだ。友達は純粋に観光を楽しみ、私は資料館を巡って歴史を胸に刻んでいった。
東北から戻ってきた拓海に沖縄の写真を見せると、目を輝かせて羨ましがった。
「やっぱ海が綺麗だな。良い波がきそうな浜だ」
「もうずっとサーフィン出来てないもんね」
「そうなんだよ。たまに夢の中で波乗りしてるくらいだ」
あんなに波と一体になって過ごしていた拓海は今は居ない。それがとても切ない。
大学を卒業しても拓海との関係は変わらず続いていた。変わったことといえば、読書をする時間が取れなくなっていることか。
バイトの頃と違い、仕事量も責任も増える。帰宅しても勉強する時間が必要で、好きな本は殆ど読めなくなってしまった。
拓海が東北に行くのは半年に一度くらいになり、普段は川崎の本社に通勤している。家で食事をしているとき、会社が子会社を作るという噂が出ていると話してくれた。
そのときは場所はまだ分からなかったが、しばらくしてそれが沖縄であることが正式に発表されたそうだ。
「沖縄の通信設備強化なんだって。近いうち、その会社に異動する希望者を募集するらしいよ」
「拓海も行くの?」
「んー」
そう言葉を濁していたけれど、拓海は行くかもしれない。心の何処かでそう思った。
拓海が遠くに行ってしまう。それを思うと胸が苦しい。でも、拓海がもし行くと決めたなら、笑顔で送り出さなくちゃと思っていた。
数日後の休日。伯母の家に言った私は、久しぶりに拓海と海に出掛けた。
春の海──拓海が長野から出てきた私を初めて連れていってくれたのも春の海だ。この日の波はとても穏やかで吹く風が気持ち良い。
「昨日、父さんと母さんには話した。オレ、沖縄に行くことにするよ」
ああ、やはりこの話だったか。海に行こうと声を掛けてくれたときから、話があるのだろうと思っていた。私は呼吸を整えて
「うん」と言った。
「今の会社に居た方が出世は出来るよ。でもなんかそういうのに魅力を感じなくてさ。オレね、何度も東北で仕事をしていて痛感したことがあるんだ」
「それはなに?」
「いつ日常は壊れるか分からない。だから仕事はもちろん大事だけど、好きなことも大事にして生きていきたい」
「──そっか。サーフィンだ」
「あたり」
拓海はそう言って笑った。
「花音も知っての通り、今の仕事してると全然波乗り出来ないんだよ。でも沖縄なら休みの日に気軽に波乗り出来るだろ」
「拓海らしいね」
拓海らしいと思う反面、寂しさがこみ上げる。沖縄は気軽に行けるところではない。
私は拓海から目を逸らし、水平線を眺める。拓海が私の肩を抱いてきた。
「もう一つ思ったことがあるんだ。ちゃんと気持ちに正直に生きようって」
「正直?」
意味が分からず拓海を見ると、まっすぐ私の顔を見ていた。
「花音に渡すものがある」
そう言うと、拓海はジャケットの胸ポケットから小さな箱を出した。
それはベルベットのジュエリーケース。その中に入っているものは、おそらく一つしかない。
ゆっくり開けると、そこには太陽の光できらめく波のような輝きをしたダイヤモンドリングがあった。
「まだしなくていいよ。花音は就職したばかりだし、やりたいこともあるだろうから。でもいつか、いいかなって思えたら──そしたらそれをして沖縄に来て」
拓海はちょっと照れたように微笑んで私を見つめた。心臓の鼓動が激しくて苦しい。
「あ、もちろん、それとは関係なく沖縄には遊びにおいでよ。なんと一軒家が借家なんだぜ。花音の部屋もちゃんと用意しておくから、いつでも遊びにおいで。なんなら花音がこっちでも仕事出来るようにネット環境もバッチリ整えておくよ。なにせオレの会社はそんな会社だからね。それなら長期滞在オッケーじゃね?」
おどけて言う拓海の言葉に思わず笑ってしまった。
「うん。そうだね」
私は指輪を見つめる。
「サイズ、良く分かったね」
「そりゃ分かるよ。だってほら」
そう言って拓海は自分のネックレスをトンと指で叩いた。そうか、一緒に買いに行った日、指輪を嵌めてみたんだっけ。
「そんなことがあったね」
「オレたち、いろんなこと一緒にしてるんだよ」
波の音を聞く。長野から出てきて拓海と過ごした日々を思い出す。そして、小さい頃に一緒に過ごした思い出も──
「父さんにはね、聞かれたんだ。恋人は居ないのかって。ハッキリとは答えられなかったけど、それとなく……ずっと大事にしたい人は居るって答えた。父さんが花音のことを思ったかどうかは知らないけどね」
「──そっか。ありがとう」
「花音、言っていいかな。ずっと言えなかった言葉。今」
「──うん」
「花音が好きだよ」
その言葉を噛みしめる。ずっと聞きたかった言葉──
「私も拓海が好き」
拓海が嬉しそうに微笑む。やっと解放して言えた言葉は、心をじんわりと温かくした。
こんなにも温かい──私は自然と笑顔になる。
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