第10話 触れられる手

 数日後、サーファー仲間の家でバーベキューをすると言うので、拓海に連れられて出掛けた。海が見える庭は開放的で浜からの風が気持ち良い。

 大きめのバーベキューコンロでは、肉だけではなく海老やホタテなども焼かれて食欲を刺激する香りがする。


 七人ほど集まっていたのでとても賑やかだ。私と拓海はお酒はまだ飲めないし、拓海は運転があるので烏龍茶を飲みながらもりもりと肉を頬張っている。他の人たちは缶ビールを飲んで陽気に笑っていて、見ていても楽しい。


「拓海くんが付けているあのネックレス、花音ちゃんがプレゼントしたの?」と、肉を焼きながら本日ホスト役の奥さんが私に聞いてきた。

「あ、はい。二十日が拓海の誕生日だったんで」

「ふふ。やっぱり。すごく似合ってるじゃない」

「え? なになに?」と、他の人たちも話しに食いつく。

「拓海くん良かったねー。ずっと欲しがっていたもんね」

「それハワイアンジュエリーだろ。ロマンチックだねえ」

 皆に冷やかされたけれど、拓海はとっても嬉しそうに胸を張ってペンダントを見せる。

「花音が選んでくれたんすよ。このデザインなら毎日付けられるし気に入ってます」

「おまえら遠距離してた分、すげーお熱いのな」

 そう言われ、拓海は得意気に私の肩を抱き寄せてくる。私もこの仲間の前では彼女役も板に付いてきたので、笑いながら拓海に寄り添った。拓海の手にいつもより力が入っているのを感じながら。


 帰り道。ちょっと寄り道しようかと拓海が言って、車を湘南海岸公園の駐車場に入れた。浜辺を手を繋ぎながら歩く。

「お腹もいっぱいだったから、こうやって少し歩くのもいいね」

「そうだな」

 その声は心ここにあらずという感じだったので拓海の顔を見上げると、拓海も私を見てきた。

「どしたの?」

「んー、今日は楽しかったなーって思って」

「楽しかったね。お肉も美味しかったなー」

 拓海が繋いでいる手を引き寄せて抱き寄せてきた。

「オレたち、すげーお熱く見えるのな」

「──私の演技も上手くなってきたのかな」

「演技なの?」

「え?」

 拓海が顔を覗き込んでくる。そのまま顔が近づいてきたので、繋いでいないほうの手を拓海の顔に押しつけた。

「もう! すぐにふざけるんだから。彼女の時間はとっくに終わってますよ!」

「ちぇー」


 拓海は口を尖らせながら私から離れると、少し前を歩き始めた。サーファー仲間の前で拓海は演技じゃなく私に接しているのだろう。私だって……でもそれを拓海には絶対言わない。それは絶対言ったらダメ。

 拓海が立ち止まって振り返る。そして手を差し出してきた。


「これはイトコとしての手。花音すぐ転ぶから」

 私は微笑むと拓海の手をとった。

「オレのイトコは可愛すぎて困るよ」

 溜息交じりに呟いたその言葉は聞かなかったことにした。



 伯母の家で過ごした二週間。その間に智行くんの家にも行き、本のことをあれこれ話し、義弥くんと四人でゲームをして遊んだ。そのときの拓海はポロシャツを着ていたので、胸元のペンダントは見えなかった。

 もしも気づかれて刻印を見られたらバツが悪いと思っていたのかもしれない。四人で居るとき、私は確実に「イトコ」として居ることが出来た。


 伯母と一緒に長野に帰省すると、伯母と母は毎日のように二人で出歩いていた。本当に仲が良い姉妹だとしみじみ思う。

 私も拓海とこんなふうに一緒に居られたらと思う。もちろんそれはイトコとして。拓海に対してそれ以上の感情があることは確かだが、その感情は破局へと繋がるだろう。

 イトコで居る限り拓海との関係が終わることはないのだから、これからも拓海が必要以上のスキンシップを求めてきたら、そのときはちゃんと拒絶しないといけない。拓海の手のぬくもりを思い出しながら、そんなことを思った。


 九月に入り、東京に戻ってきた私は書店のバイトを再開した。拓海の学校はすでに授業が始まっていて、相変わらず実習三昧のようだ。帰りに私の部屋に立ち寄ってから家に帰ることも度々あった。

 疲れているのだろう。私の隣に寝転んでそのまま寝てしまうこともあり、そんなときは寝顔をぼんやりと眺めていた。無防備な寝顔は可愛らしい。頬に触れたくなってしまう。

 目を覚ました拓海は足を投げ出して座っている私のももに頭を乗せ抱きついてくる。ちゃんと拒絶しないと──拓海の背中にそっと手を乗せて言う台詞はいつも同じ。


「そろそろ帰らないとだよ。遅くなっちゃうよ」

「──うん。分かってる」

 拓海もそれ以上は求めてこない。二人にとってのラインは此処まで。そんなルールができあがっていた。


 *


 秋は大学の学園祭がある。サークルでは演劇部の手伝いをすることになっていて、普段から絵を描く面々は舞台背景の製作をおこなうのが慣例らしい。

 私は絵を描いてないが駆り出されて、空に浮かぶ雲を白いペンキでペタペタと塗っていた。


 これがなかなか楽しい作業で、季節によって変わる雲の形にこだわりはじめると止まらなくなってしまった。先輩方はビールを飲みながら作業している。そのうち飲みの方がメインになってきたようで、賑やかな笑い声が響いていた。


「花音ちゃんも今日はそのくらいにしてこっちにおいでよ」

 女の先輩が声を掛けてきたので、後片付けをしてから私も輪に加わった。

「おでんまである。いつの間に」

「さっき磯貝くんが買ってきたんだ。好きなの取って食べて」

「じゃあ、大根。いただきます」

「遠慮しないでたくさん食べなよ」

 磯貝さんがビールを飲みながら近づいてきて隣に腰を下ろす。その距離が近い気がして少し緊張した。


「花音ちゃんの雲、なかなか味わいがあるね」

「そうですか? ありがとうございます」

「あのへんの鰯雲、遠くから見ると本当に秋の空に見えるよ。優しい秋空」

「ペタペタ塗るの楽しいです」

「普段から描けばいいのに」

「んー、皆さんの作品見てると、私なんてとても」

「花音ちゃんの絵、見てみたいけどな。あ、オレにも適当に取ってくれる?」


 紙皿を受け取り、大根、ちくわ、餅入り巾着などを入れて磯貝さんに渡したとき、思いっきり手を触れられて嫌悪感が増した。

 顔には出さないように気をつけてその場に居たが、好きでもない人に触れられるのはこんなにも不快なのだと実感した。拓海の手はあんなにも心地良いのに──


 腕時計を見ると九時になろうとしていた。まだまだ宴は終わりそうになかったので先に失礼する。挨拶をして部屋を出てからトイレに寄った。なんとなく手を洗いたかったのだ。

 溜息をついてトイレを出ると、目の前に磯貝さんが居て驚いた。頬がほんのり赤く染まっていて、酔っているのが分かる。


「ど……どうしたんですか」

「このあと飯でもどう?」

「いえ、おでんをいただいたのでもう大丈夫です」

 頭を軽く下げてその場を去ろうとすると腕を掴まれた。

「そんなにオレのこと避けなくてもよくない?」

「別に避けてなんて──」


 腕は強く掴まれていて振りほどけない。磯貝さんの顔が近づいてくる。唇が触れそうになったので、思いっきり顔を逸らした。

「磯貝さん、彼女居ますよね。こんなことしたら怒られますよ」

「花音ちゃん、まだ子供だね。そんなんだから彼氏が出来ないんじゃないか? このくらい遊びだよ」

「そうです、子供です。だからやめてください」

「ほんっと可愛いね。大人になりたくなったらいつでも手伝うよ」


 含み笑いをした磯貝さんは手を離すと「また明日―」と言って去っていった。涙が出てきた。この涙は何なのか、悔しさなのか分からない。彼氏が出来ない限りこんなふうにいじられるのだろうか。


 最寄り駅に着いても苛立ちは収まらなかった。うつむいたまま改札を出ると

「花音ちゃん?」という声が聞こえた。この声は智行くん。

 顔を上げると目の前に智行くんが居た。前にちらりと会った智行くんの学校の友達も一緒だ。


「どうしたの、大丈夫?」

「あ、うん。こんな遅くまで学校だったの?」

「そう。花音ちゃんこそ遅かったんだね」

「学園祭の準備で……」と、そこまで言ったとき鼻の奥がつんとして熱くなった。涙が出そうになるのを必死に堪える。智行くんの顔を見たら気が抜けてしまったのかもしれない。

 智行くんは私の顔を見て、それから一緒に居た友達に

「悪い、先に帰って」と声を掛けた。彼らは素直に頷くと「じゃあな」と改札内に消えていった。

「ごめんね。大丈夫だよ」

「その顔、全然大丈夫じゃないでしょ。あっちの広場にでも行こうか」


 智行くんは私の背中にそっと手を当て促した。この手は全然嫌じゃない──そんなことを思っていた。

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