第2話 ~ 疾走

「この機会、逃すものか」


 新たな一歩に踏み出すと決めると、とたんに腹が空いた。昨晩テーブルに置いていたパンを頬張り、それを牛乳で喉の奥に流し込む。


 水桶に残っていた水で顔と髪を洗い、上着を羽織って部屋を出た。階段を駆け下りて酒場に出ると、イスに座って雑誌を読んでいた店主が目を白黒させた。


「おう、ユリシーズ……って、お前、杖は?」


「店主、おはようございます」


 戸惑う店主の疑問をさえぎりながら、ポケットの中の財布をひっくり返し、カウンターに銀貨をバラバラと落とした。


「急な話ですが、この街から出ることになりました。退職金は要りません。今まで貯めていたこの給料で、俺を今日限りでクビにしてください」


「は? いや、えっと、おう」


 状況がよく飲みこめないまま、店主はおずおずとうなずいた。いきなり歩けるようになり、そして退職を申し出たことに何か説明が欲しかったが、給料のほとんどを返すと言われては納得するしかなかった。


「今までありがとうございました。では、これで」


 そう言ってからユリシーズは玄関を開け、勢いよく大通りへ出ていった。


 がらんとした店内に店主が立ちつくしている。あっけにとられた表情で、カウンター上に残った銀貨と、ユリシーズが出ていった玄関を見比べた。


「こりゃあ、どういうこった」


 店主は訳が分からないまま、とりあえずカウンターに散らばった銀貨を集めた。勝手に辞めたユリシーズに釈然としない気持ちもあったが、今は早く別の人間を早く雇わなければと考えることにした。


 店を飛び出したユリシーズはひたすら走った。道路には青空を映す水たまりが点在しているが、それを気にすることなくバシャバシャと駆け抜ける。


 六月のロンドンは初夏のむわっとした暑さがただよい、冬ならほとんど感じなかったガスとゴミの臭いが際立っている。久しぶりの快晴だが、暖かくなれば大都会のすえた悪臭も強くなる。


 部屋を出た時、置き時計の針は十時五分を指していた。あと三十分もしないうちにロザリアが乗るコッツウォルズ行きの列車が出発する。コッツウォルズはロンドンからはるか西にある丘陵地方で、都心の西側にあるパディントン駅から列車が運行している。


 ユリシーズが働いていた酒場は都心の東側にあり、貧困層と富裕層が入り乱れる歓楽街に位置している。西へ行けば上品な貴族が堂々と闊歩する都心に、東に行けば悪名高い貧民街がある。


 西へ行くほど人が多くなり、ユリシーズの足が止まる。歩道には大勢の人間がひしめき合っていて、そこにはスリやひったくりなども目を光らせているのだろう。


「くそっ、進まない」


 急ぎたい時に限ってごった返す人ごみにうんざりしていると、ちょうど近くに辻馬車が停まっていた。


「おい、乗せてくれ!」


 運転席の下を叩いて御者に呼びかける。高い席に座る御者はユリシーズを見下ろしてから、ふんっと鼻を鳴らした。どうやらユリシーズの服装を見て、運賃を払えるわけがないと思ったらしい。


「あんちゃんよ、そんなご立派な足があるなら歩いていきな。その日暮らしの人間が乗る馬車じゃねえよ」


 鼻をほじりながら小馬鹿にしてきた御者だったが、ユリシーズは懐から銀貨を取り出し、それを指で弾いて御者の胸元に飛ばした。御者は慌てて銀貨を受け止め、驚いた顔をユリシーズに向けてきた。


「金さえあれば文句ないだろう。それとも、俺みたいな格好のやつが銀貨を持ってたら悪いか」


「ちっ、わぁったよ。ほら、とっとと乗れ」


 御者の承諾を得て、馬車の戸を開いて乗った。


「行先は?」


「パディントン駅だ。十時半の列車には間に合いたい」


「へいへい」


 気の抜けた返事をしつつも御者は鞭を振るい、ぬかるんだ道を馬が走り出す。道路も人が多かったが、歩行者にさえぎられる心配はほとんどない。他の馬車と接触しないように配慮しながら、確実に馬車は進んでいく。


 だが、久しぶりに空が晴れたおかげで道路は混雑していた。買い物カゴを手にぶら下げた主婦、泥だらけの肌着を肉体労働の男たちなどもゾロゾロと行き交っている。歩行者は道路の端を歩くようになっているが、人の数が多ければ馬車も思いきり走るわけにはいかない。


「おい、これで間に合うのか」


 窓から顔を出し、上の運転席に座る御者に呼びかけた。


「さあな。急ぎたくてもこれだけ混んでいれば無茶できねえよ」


 そう言いながらも御者は慣れた手つきで馬を操り、人をかわして進んでいく。


「上手いな」


 ユリシーズが褒めると、御者は得意げな顔をしてあご髭を撫でた。


「へっ、そりゃどうも。時にあんちゃん、車酔いは平気か?」


「うん? ああ、平気だが」


「よし、なら少し狭い道を通るぞ」

 その一言から、馬車は大通りから右折して細い道に入った。馬車一台分の幅しかない道だが、人や他の馬車は通っていないので、先ほどよりも速度を上げて進める。


 馬車がガタガタと激しく揺れる。大きな通りと違い、狭い通りは舗装が悪く凹凸が多い。水たまりがあちこちにあり、そこを車輪が踏むたびに車体が上下する。


「ずいぶん荒っぽいな!」


「文句は聞かねえよ! その代わり、列車には間に合わせてやる」


 御者はそう言って鞭を操り、誰もいない細道を突き進む。何度か十字路から歩行者が出てきそうになったが、御者が「どけぇ!」と怒鳴ると、あわてて顔を引っ込めていく。


 ようやく別の大通りに出て、馬車は左に曲がった。あと一マイルほど真っ直ぐ進めば、パディントン駅が目の前に見えてくる。


 ユリシーズは古びた懐中時計を取り出した。時計の針は二十二分を指しているので、これならなんとか間に合いそうだと思った。


「うおっ!?」


 そこでひと際強い振動が走った。同時に馬車が急に止まり、車体を引いていた馬も戸惑って足踏みする。


 ユリシーズが窓から顔を出すと、御者が顔をしかめて車輪を見下ろしていた。


「なんてこった、車輪のスポークが折れやがった」


 いらだった御者が吐き捨てる。右の車輪を見ると、車輪の中央から放射状に伸びる骨組みが二本折れていた。


 これでは馬車は走ることはできない。前の道に目を向ければ、わずかに左にカーブを描く大通りが伸びている。先ほどの通りより混雑していないが、それでも馬車や人は多く、歩いていけば時間がかかるだろう。さらに肝心の駅はずっとカーブを曲がった先にある。


 刻一刻と列車の出発時間が迫る。馬車が急停止しても、馬は元気に足踏みしていて、走って荒くなった呼吸が整いつつある。首もせわしなく動き、どうして前に行こうとしないんだと急かすような素振りをしている。


 じっとりと汗を張りつかせた馬の背中を見て、ユリシーズは意を決した。


「……おいっ! 残金はここに置いていく。駅まで馬を借りるぞ!」


「はあ!?」


 とんでもないことを言われて御者は目を剝いたが、ユリシーズは有無も言わさず車体と馬をつなぐ金具を外し、席を下りてから馬の背に飛び乗った。


 いきなり背中に乗られたことで馬は驚いたが、首をさすって落ち着かせ、なんとか暴れ出さずに済んだ。


「ちょっ、そんな!」


 あわてて御者が席から降りようとしたが、さらに銀貨を御者に飛ばした。


「大丈夫だ! 駅前のガス灯につないでおくから、あんたもそのままついてこい!」


 それから前を向き、馬の腹を優しく蹴った。人が直接乗るための馬ではないが、馬はユリシーズの合図を理解して駆け出した。本当にこのまま走って良いのか、という若干の戸惑いが馬から伝わってくるが、ユリシーズはそのまま迷いなく前方を見る。


「行け、そのまま行くんだ!」


 小さく叫び、馬の脚を後押しする。乗り手の不安は馬に伝わってしまう。多少の不安があったとしてもその感情を表に出さず、しっかりと手綱を握ることで馬も乗り手を信用してくれる。


 他の馬車の脇を駆け抜け、水たまりを軽やかに越える。サラブレッドとは違うため加速力はないが、馬は徐々に脚の速度を上げ、前へ前へひた走る。


 二か月ぶりの馬の背に、かすかな高揚感が湧いてきた。馬の動きに合わせて自分の体が揺れ、馬の呼吸と拍動も己の芯に伝わる。一人と一頭の呼吸が重なり合い、熱く脈打つ塊となって風を切る。


 公道で馬に騎乗したユリシーズが駆け抜けると、それを見た周りがどよめく。驚きの声の中には、危ないじゃないかと怒りをあらわにする者、なんの見世物だと面白がる者、そして、見事なものだと感嘆の声を上げる者など様々だ。


 しかしユリシーズの耳にそんな声はまったく届かない。正確に手綱を操って右に左に舵を切り、目の前をさえぎる通行人、馬車、露天商、それらすべてを視界に捉えてかわしていく。


 足を乗せるあぶみも、腰を下ろす鞍もない。それでもユリシーズは体幹と太ももに力を込めて姿勢を安定させ、淀みない手綱さばきで天下の往来を縫い進んでいった。


 ついに駅前の広場に到着した。広場に停まっていた馬車の御者たちが、馬に乗って現れたユリシーズを見て固まる。周囲の視線を気にせず馬から降りると、うまく足が地についていないように感じた。あぶみがなかったせいで、思ったより足に力が入っていたのだろう。


 そして、馬と同じく自分も息が上がっていた。久しぶりに馬に乗ったことで、心地よい緊張と興奮を味わった。


「ふぅ……ありがとうな。おかげで間に合った」


 そう言って馬の頭をさすると、ぬっと馬が顔を近づけてきて、ユリシーズの頬をなめてきた。少し驚いたが、意外に人懐っこいこの馬には感謝しかなかった。


「本当に助かったよ。悪いが、ここにつながせてくれ。もう少しでお前のご主人が来るからな」


 馬の手綱をガス灯に結び、最後にもう一度だけ頭をなでてから駅舎へ走った。馬は暴れ出すことなく、走り去るユリシーズの背をじっと見つめていた。


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