結託

第1話 ~ 再燃

 窓から差してきた日の出がまぶたにかかる。まぶしさを感じて目を開けると暗い木目の天井が見えた。


 たいして熱くもないのに、ひどく寝汗をかいていた。体の上にかけていた布で汗をぬぐい、ハンモックの上で体を起こす。


 ずいぶん長い夢だったとユリシーズは思った。目覚めると断片的にしか思い出せないが、故郷を追われ、母と弟が亡くなる夢だったとわかる。一人になってから何度も見てきた悪夢だ。


 今でこそ悪夢を見ても精神的に病まなくなったが、弟が亡くなった直後は夢を見るたびに酒浸りになり、必ずと言っていいほど街で暴れた。ならず者に寄ってたかって殴られ、裏路地のゴミ捨て場で朝を迎えたことも日常茶飯事だった。


 俺はおしまいだと、自分で命を断つことも考えた。だが、それだけはついに実行しなかった。


 荒廃した生活に身を堕としても、心のどこかで人生を諦めきれなかったのだ。まだ自分は何かを背負わなければならない。死ぬのは何かを為してからだと、内なる自分がか細く叫び続けていた。


 当時のことはしっかり覚えている。役人に金を払って手続きを済ませ、弟を母と同じ共同墓地へ埋葬した。財産がないユリシーズには、家族を葬る場所はそこしかない。何も悪いことをしていない母と弟の遺体が、行き倒れた犯罪者と同じ墓地に埋められることが、たまらなく悔しかった。


 その帰り道で、テューダー卿のダービー参戦を耳にした。酒場の前で座っていた酔っ払いたちが、ゴミ捨て場から漁ったであろうクシャクシャの新聞を広げて、ダービーについて話していたのだ。


 テューダーという単語を耳にしたユリシーズは足を止めて、酔っ払いたちの持っていた新聞を取り上げた。新聞をひったくられた酔っ払いが怒鳴ってきたが、かっと目を見開いて記事を読み込むユリシーズを見て、頭のおかしい人間だと思って逃げていった。


 テューダー家の当主が代替わりして、現在の当主がダービーレースに所有馬を出すと知ったのはその時だったが、母を辱めた前当主がその後どうなったのか、記事では載っていなかった。街で噂を集めても、前当主が事故で亡くなったためロザリアが家を継いだ、という話だけしか聞けなかった。


 それでも生きる活力が生まれた。すべてを諦めかけ、折れかけていたユリシーズの心に報復の炎が灯った。家族をこんな目に遭わせておきながら、テューダー家が繁栄することは許せない。母と弟が受けた苦しみを覚えているのは、今や自分しかいないのだ。


 こうして暗い決意を固めたユリシーズは、職を転々としながらテューダー家の人間の動向を探った。寝ている時間以外はテューダー家への復讐計画を考えた。金も力もないユリシーズができることは非常に少なかったが、新しい当主がダービーを観戦しにロンドンへ来るというニュースを知り、ついに好機が訪れたと確信した。


 しかし昨夜、報復は失敗に終わった。念入りに考えたロザリア・テューダー暗殺計画だったが、ロザリアは殺せず、それどころか自分の身辺を突き止められた。


 失敗すれば破滅する。それは覚悟の上だったため、牢屋でのたれ死ぬのも、絞首台も怖くない。のうのうとテューダー家が存在し続けることは悔しい限りだが、警察に捕まったとしても思い残すことはなかった。


「くそっ……あの女、なにが狙いだ?」


 しかしユリシーズの感情は晴れない。ロザリアに持ちかけられた話が引っかかっていた。


 障害競走キングストン・カップ、それはなんとなく知っている。戦争の英雄を輩出した名門貴族が、三年の月日をかけて作り上げた大レースだと新聞に載っていた。


 ロザリアはそのレースの初優勝を獲りたいらしい。しかも騎手を元アマチュアの自分に任せたいと言ってきた。所有馬がダービー馬になったことで、ロザリアは時の人となっている。優れた騎手といくらでも契約できる立場にも関わらず、なぜ自分に依頼したのか意味がわからない。


 自分を苦しめるためのただの戯言かと考えたが、さすがにそれはあり得ない。命を狙われ、殺されかけた相手にお願いをするからには、それなりの理由があるはずだ。そうでなければ昨夜のうちに警察へ突き出されている。


「ロザリア・テューダー、か」


 思い返せばテューダー家の繁栄許すまじという執念で行動していた。それゆえロザリア個人についての情報はあまり知らない。テューダー家の当主で、なかなかのやり手だという評判は有名だが、昨日まではそれしか知らず、また、それ以上知ろうとも思わなかった。


 実際に会ってみて、一筋縄ではいかない女だと思った。いざとなれば女一人くらい押さえ込めると思っていたが、ロザリアは変装に長け、ためらいなく他人の後頭部に銃を突きつける度胸があった。


 そして、誠実な一面もあるのだろう。テューダー家の人間への憎しみは変わらないが、彼女は真剣な目でユリシーズに騎手を依頼し、家族の墓をロンドンから移したらどうかと提案してきた。真意まではわからないが、嘘をついて騙そうとする人間の目ではないように見えた。その一面だけは認めざるをえない。


 そこでユリシーズは思い出した。昨夜、彼女は最後に「明日、駅で待っている。決心したら来てくれ」と言っていた。彼女はコッツウォルズ行きの列車に乗るらしく、発車時間は十時半だったはずだ。


 部屋の机に小さな置き時計がある。針は九時五十分を指している。質屋で買った安物だが、時刻はこまめに合わせている。


「あと四十分……」


 思わずそうつぶやいてから、ハッとして首を振った。


 行くことを仮定して時間を見てしまったが、行く必要はないのだ。騎手をしてほしいと彼女は言ってきたものの、自分にそんな義理はない。


 ハンモックから降りて、机の上に置いていた財布をポケットに入れようとした。


「おっと」


 財布を取ったはずみで、机に積んでいた新聞が床に落ちてしまった。どれも競馬の見出しが入っている新聞で、ロザリアの動向を探るために日々買い溜めたものだ。


 床に落ちた新聞を拾い、机に置いた。表はダービーの記事だったが、その裏はキングストン・カップの記事だった。ロザリアの話を聞くまで気にしていなかったが、ユリシーズの視線はその記事の見出しで止まった。


「障害競走……九マイル……!?」


 記事を見たユリシーズは自分の目を疑った。九マイル(十四キロメートル)という超長距離のレースなど聞いたことがない。


 現在、通常の平地競馬は一マイルから二マイル程度の距離で勝敗を決める。昔は今より長いコースを走り、休憩時間を設けつつ、さらにそのコースを複数回走るという過酷なルールだったが、馬に対する負担を軽減するために、レースの距離は年々改められている。


 障害競走は平地競走より長距離を走るものだが、それを考慮しても、この時代に九マイルは規格外だ。


 そうなってくると、ますます疑問が湧いてくる。平地競走しか戦ったことのない自分に障害競走の騎手を依頼しただけでも不可解だったが、このような過酷なレースで優勝を目指す意味がわからない。


 歴史あるクラシックレースで勝つ馬を育てるだけでも一苦労なのに、ロザリアはさらに労力をかけて、超長距離に適した障害競走用の馬もわざわざ育てたということになる。それほどまでに、このキングストン・カップに価値があるのか。


「このレース、なにか裏がある」


 開催前からにわかに盛り上がりを見せているレースだが、新聞に詳しい情報は載っていない。主催するキングストン侯爵のことや、出場を表明している馬主たちの決意表明などが大体的に報じられているため、いくら読み進めても知りたい情報に行きつかない。あくまでも難しい情報を好まない大衆に向けた記事だ。


 しかし、ユリシーズはまたも記事の途中で視線を止めた。


「アークライト卿、キングストン・カップ制覇の、勝算……」


 三ヶ月前、ユリシーズを散々に痛めつけた親子の名が載っていた。記事の上でアークライト卿は有力な馬を有する馬主として報じられ、息子のジェローム騎手もキングストン・カップ優勝を目指すとコメントしている。


 見聞きするだけでも胸が悪くなる名だ。どれほど憎んでも足りず、そして自分ではどうにもできない権力という力を有する人間たちだ。


 あの時のアークライト親子に対する怒りが沸き上がる。たしかに自分は計画に加担したが、先に下手を打ったのは落馬したジェロームだった。その時点で計画はフイになり、その後のレースにユリシーズは実力で勝った。


 しかし彼らに正論は通じないのだろう。計画を持ち掛けたことも、先に自分たちが失敗したことも、権力があればもみ消せると思っているのだ。現にジェロームは衆人環視の中でユリシーズに大怪我を負わせたが、捕まって留置所に入ることはなく、こうしてキングストン・カップ優勝を目指す騎手と報じられている。


 いつの間にか手に力が入っていて、新聞記事がグシャリとゆがむ。


「……フッ、ハハッ」


 それから乾いた笑みがこぼれた。とっくにわかっていたが、自分の道は決まっている。昔からそうだった。守りたい者を守るために汚れ仕事を請け負い、独りになれば今度は報復に手を染めようとした。自分は退くことを知らず、折り合いをつけて前に進むことができない、愚かな男なのだ。


 ロザリアの要求通りにレースに勝てば、別の土地を得て二人の墓を移すことができる。土地を得て、墓を移すには金と権力がいる。今の自分には不可能な話だが、貴族のロザリアならば実現できる。


 母も弟もこの世にいない。しかし自分には為すべきことがまだ残っている。雑草が伸び、浮浪者が生ゴミを捨てるような共同墓地に、いつまでも母と弟を眠らせておくわけにはいかない。亡くなった家族の安らぎは己の肩にかかっている。


「この機会、逃すものか」

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