第7話 ~ ロザリアの決意

 二千ギニーの一週間後、ウェールズ地方のテューダー邸でロザリアはパーティーを主催していた。親しくしている貴族が参加するつつましいパーティーだったが、そこで彼女はあるニュースに驚かされた。


「今年の二千ギニーで、アマチュア騎手が勝利した?」


 立食形式でワインを楽しんでいると、ロザリアと同じく競馬に詳しい中年貴族がその話を始めたのだ。近くで別の話をしていた貴族たちも興味を持ったようで、ロザリアのいる方へ体を傾けてきた。


 中年の貴族はさらに話を続ける。


「ええ、といっても危険行為という理由で失格となり、優勝はサンダース卿の馬になりましたがね。それでも無名の馬を勝たせたアマチュア騎手の腕は、なかなか見事でしたよ」


「あなたは現地で観戦していたのですか?」


「はい。雨が降っていて肌寒い日でしたが、レースの内容には白熱しましたねぇ」


 そこで貴族はワインを一口含んだ。その後、話は今年のダービーに移り変わった。


「さて、今回の二千ギニーで少し波乱はありましたが、結果はサンダース卿のシアトルブラウン号となりました。次の大一番、ダービー戦もマグナス騎手を指名してくるでしょうし、私も次こそはシアトルブラウン号に賭けるつもりですよ、はっはっは」


「その日はどの馬に賭けていたのですか?」


「二番人気の馬ですよ。たしかアークライト卿の所有馬でしたが、他の馬につっかけられて騎手のジェローム殿が落馬してしまい、私も大負けしました……次のダービーは手堅くいくとしましょう」


「ふふふ、あいにくですが、私が育てた馬もなかなかできますよ」


「おお! そうでしたな、テューダー卿。あなたの馬も今回のダービーに参戦すると聞きました。しかし二千ギニーには出走なさらなかったのでは?」


「出走する三日前に軽い発熱があったので、大事を取って休ませました。ダービー、そしてセントレジャーのクラシック二冠を諦めてはいませんよ」


 挑戦的な目つきで笑うロザリアを見て、中年の貴族は腹を揺らして笑った。


「はっはっは! 良いですなあ、では私が賭けに勝ったら、そのお金でパーティーを開催してあげましょう。テューダー卿も残念賞ということで参加していただきたい」


「いいでしょう。では私の馬が勝ったら、開催するのは私の役目です。あなたはその祝勝会で祝辞を述べて、私の勝利を讃えてくださいね」


「ふはははっ、これは負けられませんなあ!」


 ロザリアとその貴族は不思議とウマが合う間柄だった。親子ほど年の離れた両者だったが、競馬の話になると長年の親友のように話が盛り上がる。


 若くして伯爵となったロザリアを妬み、運に恵まれただけの小娘とあなどる貴族は多いが、この競馬好きの貴族はそういった偏見のない男だった。


 そしてパーティーがお開きになり、ロザリアとその貴族は、会場の扉を出て玄関へ向かった。


「いやあ、今宵のデザートは良いものでしたなあ。フランスの高級ワインとスイスのチーズが特に素晴らしく、あれは手が止まりませんな。また主治医に小言を言われてしまいますよ」


「喜んでいただけてなによりです」


 中年の貴族が食事の内容を褒めると、隣のロザリアが軽く頭を下げた。


「いつも素晴らしい料理に感謝してますぞ。やはりあなたのおかげで、領内の景気が良いのですな」


「私は経営者の方々を微力ながら手助けしているだけですよ。利益を上げる源は、経営者と労働者の努力以外にありません」


 謙遜の言葉を述べるロザリアだったが、中年の貴族の目はいつの間にか真剣な目をしていた。酔いの回った赤ら顔だが、貴族として長年生き残ってきた男の目だった。


「ふふ、それができないから周りの貴族は金策に失敗し、成り上がりのブルジョワに先を越されるのです。テューダー卿、あなたの肩書や経歴は社交界でイロモノ扱いですが、やっていることはとても手堅く効果的だ」


 ロザリアは賛辞の言葉に謙遜し、首を振った。しかしわずかに口角を上げ、その貴族と同じように微笑んだ。


 テューダー家を受け継いだロザリアは、従来の農業中心の領地経営を一新した。鉄工業を盛り上げて、国内外問わず貿易収支を引き上げた。彼女が行うことは意外にも地味で、優秀な経営者を集めつつ、彼らが面倒に想っている諸々の仕事や交渉を、サポートすることだ。


 その働きに気づいている人間はまだ少ない。若い女貴族に色気づいた中年だと揶揄されたことはあったが、この貴族とロザリアはお互いの頭の良さを理解して親しくしている。


「おっと、迎えの馬車が来たようだ」


 中年の貴族はテューダー邸の玄関を出て、正面の階段を下りていった。他の貴族たちも次々に帰路につくと、主催者のロザリアはひと息つくために自室に戻った。あとの片付けは使用人に頼むことにした。


 執務室の中には暖炉があり、そのそばにあるクッション付きのイスに身を沈める。手の届くところに小さなサイドテーブルがあり、読みかけの本や新聞がいくつか積まれている。


 ふとロザリアは二千ギニーについて知りたくなった。アマチュア騎手がクラシックに出て勝利することは珍しいので、話を聞くだけでは物足りないと思った。


「まだ捨ててなかったか……?」


 サイドテーブルに積まれた新聞をまとめてつかみ、次々と見出しを読んでいく。一週間前の新聞を捨てていなかったら、二千ギニーについてわかるはずだ。


「あった、どれどれ……」


 ようやく二千ギニーの見出し記事を見つけ、文章を目で追っていく。


 はじめは単なる興味の延長だった。もしもこの時、新聞が手元に残ってなければ、これ以上思い返すつもりもなかった。しかし記事の中にある人物の名が出たことで、ロザリアの視線が止まった。


「ユリシーズ・ハーディ……ハーディ?」


 危険行為により失格となったアマチュア騎手、その名がユリシーズ・ハーディと小さく記載されていた。記事の主役はあくまでもサンダース卿やマグナス騎手になっていたが、ハーディという姓がロザリアの目に留まった。


「まさか……いや、そんなこと……」


 記事を見つめるロザリアの目がわずかに震える。


 まだロザリアが家を継ぐ前、父セドリック・テューダーがしてきた所業は凄まじかった。社交界では鳴りをひそめていたものの、父は領内や家庭内では冷徹で、卑劣な一面を見せていた。劣悪な環境で使用人を働かせるのはもちろんのこと、粗相のあった使用人には平気で鞭を打った。


 だが最も恐ろしかったのは、半ば強制的に雇った女性使用人を意のままに従わせ、その使用人が自分の子どもを孕むと、容赦なく屋敷から追い出したことだ。血を分けた家族であっても、あの時の老いた父は悪魔そのものだと思っていた。


 あの使用人は美しく、誠実な女性だったと思う。農民の出だったが、彼女は屋敷内で懸命に働いていた。話をする機会はほとんどなかったが、少女だったロザリアはその使用人の名を覚えていた。ユリア・ハーディという名だったはずだ。


 異例のアマチュア騎手出場、そして、ハーディの姓。それを知ったロザリアは胸の内がざわめいた。


 自分の馬が出走できなかった二千ギニーで、番狂わせを起こしたアマチュア騎手は、もしかしたら自分の一族と因縁深い青年かもしれない。青年は母とともに故郷を追われ、その後の行方は誰も気にしなかったが、彼の母親の腹には、ロザリアと同じくテューダーの血を引く赤子がいたのだ。彼らがウェールズを離れ、ロンドンでどう生きていたのかと考えると、胸がひどく痛んだ。


 テューダー家を継いだロザリアは、当主として一族の光と闇に向き合い続けている。権力を手にする者には責任が伴い、それから目を背けた瞬間から、暴走が始まると彼女は考えている。多くの人間から恐れられ、憎まれて死んでいった父の死にざまは、まだ若い彼女にとって重い教訓だった。


 傾きかけた家を建て直すために、ロザリアはあらゆる点で抜かりなかった。自分がどのような人間として見られ、どれほど支持を受けているのかと常に真剣に考え、行動して今に至っている。その努力が実を結んだことで、ようやく一定の尊敬を勝ち取った。


「父の、負の遺産か……」


 つまり、これも目を背けてはならない事実なのだ。


 翌朝、ロザリアの使用人たちがテューダー邸を出発した。


 ユリシーズ・ハーディの身辺を調べ上げろ。今のユリシーズがどんな人間で、何に困り、何を心から願っているのか報告しろ。


 ロザリアから命令を受け、精鋭の部下はロンドンへ向かった。ユリシーズとロザリアが会う、二か月前のことだった。

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