第6話 ~ 弟

 ユリシーズが目を覚ますと留置場の中にいた。身じろぎすれば左ひざに激痛が走り、頭と首にも鈍痛が走る。まともに歩くことができない。おそらく膝の骨が砕けているのだろう。


 暗く、冷えた房の中でじっと待とうとする。小さな窓の外から夜空が見える。ここに入れられて何日経ったのかわからない。


「ルーク……」


 病弱な弟が自分の帰りを待っている。用意していた食事は一日分だけで、長く家を空けるわけにはいかない。ロンドンでは一人で買い物をするだけでも危険がつきまとう。なにより再び吐血するようなことがあれば弟は助からない。


「……おいっ! 誰か、誰かいないか? 頼むから出してくれ!」


 鉄格子にしがみつき、格子の外に見える扉へ向かって叫んだ。


 他の房にいる犯罪者たちが文句を言ってくるが、ユリシーズは構わず叫び続けた。


「うるさいぞ! 静かにしていろ!」


 扉が開き、若い警官が顔を出して怒鳴ってきた。


 このまま大人しくしていても始まらない。さらにユリシーズは訴え続ける。


「俺は誰も傷つけていない! 凶器も持っていないし、ステッキで殴られたんだ! いつまでもここに閉じ込めるなんておかしいじゃないか!」


 必死に叫ぶユリシーズの剣幕を見て、若い警官は眉をひそめながら近づいてきた。


「たしか、おととい競馬場で暴れた騎手だったか? ずいぶん眠っていたが……まあいい、お前はそんなに長く入らないから、あと二、三日は静かにしていろ」


「おととい、だって? ……ダメだ、ダメだ! 頼む、それでは遅いんだ! ロンドンに体の弱い弟がいる。俺がついていなきゃ、危ないんだ」


「出まかせを言うな。泣き落としは通じないぞ。仮にそうだとしたら、どうして弟さんのもとから離れてレースに出たんだ?」


「決まってるだろう。二千ギニーで勝てば、弟の治療費が稼げたからだ。そうでなければ、わざわざロンドンの外に出るもんか!」


 警官は疑い深い視線を向けてきたものの、少しずつユリシーズの話を真剣な面持ちで聞くようになった。


 アークライト卿に陥れられた今、隠すことは何もない。レースに出ることになった経緯や、捕まった時の状況をためらいなく話すことにした。騒ぐユリシーズに怒っていた他の犯罪者たちも、暇つぶしのためか、ユリシーズの話を黙って聞いていた。


 一通り話し終えたユリシーズがぐったりとした様子でうつむくと、腕を組んで立っていた警官がしゃがみこんだ。


「つまり、お前さんは自分のことを、貴族に勝ちを取り消されただけの被害者って言いたいのか?」


「いや、そこまであつかましくない。俺だって最初は他の騎手を妨害しようとしたからな。実力で獲った勝利をフイにされたことは許せないが、今はとにかく時間が惜しい。弟の身に何かあったら、俺には何もなくなってしまう」


「……そこまで弟のことが心配なのか?」


「当たり前だ。あいつ以外に家族はいない。俺にとって、あいつが全てだ」


 若い警官はユリシーズの目をじっと見てから、ふうっと息を吐いて立ち上がった。


 取り付く島もないのかと諦めかけた時、警官はつぶやいた。


「お前をさっさと追い出すよう上に掛け合ってやる。ずっと叫び続けるやつに構うほど暇じゃないからな」


「……! すまない、ありがとう」


「あまり期待はするなよ。またこの町で騒ぎを起こしたら、今度は何か月でも閉じ込めるぞ」


 そう言い残して、警官は留置場から出ていった。


 小一時間経った頃、若い警官が上司を連れて現れた。どちらも厳しい顔つきをしていたが、ユリシーズが何度も頭を下げると徐々に態度を軟化させていった。


「今回は特別だ。取り押さえられたお前の身柄をレース場で引き渡されたが、こちらはお前の行動を現認していない。私物に盗品などもなかったため、こちらの裁量で釈放する」


「ありがとう、ありがとうございます……!」


「言っておくが、お前の身元は各地区の警察署で確認済みだ。もしもロンドンで犯罪を犯せば、スコットランドヤードがお前をすぐさま捕まえるからな」


 警官たちの警告を聞いてから、ユリシーズは身支度を済ませて留置場を出た。外は強い雨が降っていて、ニューマーケットの灯りは少し遠いところに見える。道は暗くぬかるんでいたが、ニューマーケットの反対方向に向かい、駅のあるケンブリッジを目指すことにした。


 左足は使い物にならない。道の端に落ちていた太い木の棒を杖代わりにして、膝の痛みをこらえながら夜道を歩いていく。


 金を得られず、勝利も奪われ、さらには足の自由まで失った。自分のすべてを賭けた戦いが散々なものに終わり、体一つでロンドンへ帰ることになった。


 しかし立ち止まるわけにはいかない。一刻も早く家へ帰り、弟の世話をしなければならない。片足が故障してしまったため、もう騎手として稼ぐことはできないが、ロンドンに帰れば働き口はいくらでもある。たとえ手足がもげたとしても、働かないという選択肢はないのだ。


 ケンブリッジの通りを進み、汗と泥にまみれた姿で駅の改札口を抜けた。周りの通行人がユリシーズの姿を見て驚き、指で鼻をつまみ、嘲笑を浴びせながら通り過ぎていくが、それを気にする余裕はない。


 揺れる列車の中、左ひざの痛みをこらえて座っている。夜の最終列車は人が少なく、ロンドンへ向かっていても車内は静かだ。春の夜はまだまだ冷えこみ、車内も暖かいわけではない。雨に濡れたユリシーズは強い悪寒に耐えながら、ロンドンの灯を今か今かと待っていた。


 ついに列車が止まり、キングス・クロス駅に着いた。終着のロンドンに着いたことで、他の乗客もぞろぞろと下車していく。


 再び衆目の視線にさらされながら駅を出て、家へ急ぐ。木の棒で体を支え、よろけながら歩く。ずぶぬれになっている姿は浮浪者となんら変わらない。薄明るいガス灯に照らされた通りを進んでいると、傘を差した通行人がユリシーズを避けて、足早に通り過ぎていった。


 ぜいぜいと肩で息を吐き、木の棒を両手で握って歩く。雨が止む気配はない。雨水が顔の上を流れ、目が沁みる。服のそでで拭いてもきりがないので、なんとか目を開けて進み、少しずつ家に近づいてきた。


 一時間以上かけて、ついにユリシーズは家の前にたどり着いた。歩きなれた集合住宅の外階段がとても辛かったが、力を振り絞って二階まで上がった。


 玄関の横にある郵便受けをつかんで体を支え、ノブを引いて部屋の中に入る。部屋は暗かったが、いつものランプの場所は見なくてもわかる。入ってすぐの場所にあるイスの上に手を伸ばし、置いてあるランプを灯した。


 ランプが点灯すると、部屋の中がうっすらと照らされていく。手前には台所、奥には寝室を兼ねた居間がある。


 いつも通りの部屋だったが、ユリシーズはすぐさま異常に気づいた。なにより弟の身を案じている彼にとって、ベッドにいる弟の様子はこの距離でもわかる。


「ルーク!」


 杖を玄関に放り捨て、苦しそうにしている弟のもとへ駆け寄る。


「苦しいのか? 落ち着け、ゆっくり息を吸うんだ」


 ベッドで苦しそうに咳き込む弟の手を握る。普段から弟の手は冷たいが、今は温かい。間違いなく高熱をきたしている。自分がいない二日間、弟は食事もままならず苦しんでいたのだろう。


「にい、ちゃん」

 熱にうるんだ弟の瞳がこちらを向く。苦しそうな顔に、かすかな安堵が見えた。


「ルーク! しっかりしろ、兄ちゃんがついてるからな」


「う、あ……」


「どうした、水か? 水が欲しいのか?」


 弟に必死に呼びかける。手を強く握り返して、少しでも弟を勇気づけようとした。


 しかし弟は返事をする前に激しく咳きこんだ。はじめは苦しそうな乾いた咳だったが、次第に咳の中に水っぽい音が混じってきた。


 次の瞬間に弟はなにかを吐き出した。薄暗くても、鉄のような臭いでわかる。前と同じように吐血してしまったのだ。


「くそっ! 待ってろ、ルーク!」


 ユリシーズは自分のベッドにある布掛けを取り、小柄な弟の体を包んだ。その間も弟は血の混じった咳をしていたが、やがてその咳すらも、か細いものになっていく。


 一刻も早く医者に診せなければならない。近所の医者まで運び込めば、治すことはできなくても最悪の事態にはならないはずだ。


「ぐぅっ……ぅうおおっ!」


 弟の体の下に両手を入れて、叫びながら一気に抱きかかえる。ひざの痛みを気にする余裕はない。左足に力が入らず、ほとんど感覚もなかったが、とにかく無我夢中で家から運び出した。


 雨がとても冷たい。少しでも弟が寒い思いをしないように強く抱きしめ、左足を引きずりながら通りを歩く。


 誰でもいいから助けてくれ。そう叫びたかったが、ユリシーズも呼吸することが精いっぱいで、声を出せないまま願うしかない。だが、声を上げても誰も助けに現れなかっただろう。ここに住むのは朝早くから働く労働者ばかりで、みな夜になれば泥のように眠り込んでいる。


 荒い呼吸を繰り返す弟に、残された時間はない。少しでも近道をするために路地裏に入り、悪臭に満ちたゴミ山を足で踏みつぶしながら進む。


 必死に弟を運んでいると、泣きそうになった。どうしてこうなってしまったのか、自分のしてきたことは間違っていたのかという考えが頭の中で回り続ける。今は何も考えるなと頭を振るが、それでも激しい恐怖と後悔がのしかかってくる。


 アークライト卿に手を貸してしまったことも、ロンドンを離れてレースに挑んだことも、二千ギニーで優勝したことも、すべてが過ちだったのか。


 いつの間にか弟の体はとても熱くなっていた。こうしている間も熱は上がり続け、予断を許さない状況になっている。


「ごめん、ごめんな……ごめんな、ルーク……っ!」


 謝らずにはいられなかった。弟の耳に届いているのかどうかもわからないが、謝り続けながら路地裏を進む。


 だが、限界はあっけなく訪れた。ずっと負担をかけていた右足が悲鳴を上げ、がくりと力が抜けて転んでしまった。弟の体はなんとかかばったが、ユリシーズは顔から地面に激突した。


「ぐ……っ!」


 顔は擦りむき、左目に巻いている包帯にも泥水が染み込む。全身に痛みが走るが、それでも前を見る。この路地裏を抜けて右へ行けば、町医者のいる医院に着く。ここで止まるわけにはいかない。路地の壁にゴンッと頭と背をつき、壁を支えにしながら歯を食いしばって立ち上がろうとした。


「に、い……ちゃん……」


 上半身だけ起こしたところで、弟が声を発した。腕の中にいた弟が手を伸ばし、頬に触れてきた。


「もう、いいよ……ありが、とう」


 ほとんど音はなく、口の動きだけだった。その言葉を最後に弟の手が離れ、まぶたが閉じた。


 だらり、と力の抜けた弟の体を抱えなおす。受け止めきれない現実を理解する前に、ユリシーズは弟の胸に手をあてたが、鼓動も、呼吸も感じられない。


「ルーク、ルーク……頼む、頼むよ、起きてくれよ、ルーク……」


 呼びかけても動かない弟を揺さぶる。疲れ果てた心に、耐えがたい悲しみがやってくる。


「起きろよ、おい……もうちょっとで、お医者さんのところに着くから、なあ……」


 言葉では現実を受け止めていない。弟は眠っているだけで、医者に行けば助かるのだと思い込もうとしている。そうでなければ、自分の中で、何もかもが砕けてしまいそうだ。


 だが、いくら呼びかけても弟は安らかに目を閉じたままだった。


 もう、わかっているのだ。母の死に顔を見た時と同じ、命が消えた人間の顔だとわかっている。


 空を見上げた。涙に雨が混ざり、顔の上を流れていく。


 これで、何もなくなってしまった。故郷を離れて七年。自分が守ってきたものは、すべてなくなった。


「うわぁぁああーーっ!!」


 叫びは激しい雨にかき消される。悲劇は誰にも気づかれないまま、ロンドンのとある裏路地で幕を閉じた。

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