第5話 ~ 転落

 なかば興奮が醒めないまま、他の馬とともにレース場から出た。関係者に促されるまま馬から降り、雨除けの幌をつけた本部テントの中で、左目の手当てを受けた。


 手当てをしてもらっている間、記者がすぐさま押し寄せてきた。番狂わせを起こした主役を逃してなるものかと、テントの中は記者たちでごった返した。


「タイムズ紙です。ユリシーズ・ハーディ騎手、優勝おめでとうございます。初参加のクラシックレースでの勝利は快挙ですが、今のお気持ちは?」


「ええ、まあ……安心しました……」


 落ち着かないまま答えると、また別の記者から質問が飛んでくる。


「デイリーメールです。最後の坂でスパートをかけましたが……」


「イーストB&G誌です。後半に至るまでの厳しい展開は……」


 さすがに疲れを感じてきた時、記者たちの後方がざわつき始めた。集まっていた記者たちが左右に分かれ、シアトルブラウン号に乗っていたマグナスが現れた。


「おめでとう、ユリシーズ・ハーディ」


 厳めしい顔をしているマグナスだが、座って治療を受けているユリシーズに目線を合わせるために、わざわざ片膝をついてくれた。


「不可抗力とはいえ、すまなかったな。目は大丈夫か?」


「大丈夫です。こちらこそ、あんな距離まで競りかけてすいません」


「気にすることはない。勝つために君は突っ込んだだけで、俺はそれにおよばなかっただけだ」


 そしてマグナスは右手を差し出してきた。


「さあ、治療が終わったようだ。君がいなければ表彰は始まらないぞ」


 止血処置を済ませたことで関係者が離れていく。マグナスの手をつかんで立ち上がり、二人は記者に追われながらテントを出ていった。


 すでに雲は空全体に広がり、遠くからゆっくりと雷鳴を運んできている。空は暗く、もうすぐ小雨も本降りになってくるだろう。


 表彰台はレース場内に用意されている。テントを出て、観客がごった返す芝生を通っていく。観客たちはユリシーズに注目するが、わずかに距離を取ってくるように思える。


「避けられているようだ」


 ぽつりとつぶやくと、後ろからついて来ているマグナスが笑った。


「君は少しばかり元々の人相が悪いし、今は目に包帯を巻いているだろう。怖がられるのも当然さ」


「あんたも人のこと言えないでしょう。自分がなんて呼ばれているのか知らないのですか」


「俺は獅子だろう? 君のように、猟犬と呼ばれるよりはいくぶんマシだと思うが」


「……ふん」


 マグナスの軽口に鼻を鳴らし、そのまま表彰台へと向かう。


 人ごみを分けて進んでいくと周りに貴族たちが増えてきた。ゴール近くの席が貴族専用であり、それと同様に表彰式の最前列も貴族御用達ということなのだろう。


 そのあたりでユリシーズは違和感を覚えた。どことなく貴族たちの顔には嫌悪の感情が現れている。眉をひそめ、険しい目つきでこちらを見てくる。


 はじめは平民である自分が無遠慮に近づいたせいかと考えたが、それとは違う空気感がただよっている。


「むむう、これは一体?」


 後ろにいたマグナスも周囲の様子がおかしいことに気づいたようだ。首を傾げてから辺りを見渡し、雇い主であるサンダース卿を見つけて話しかけた。


「サンダース卿、この雰囲気はどういうことでしょう」


 サンダース卿と呼ばれた貴族は長身痩躯で、理知的な顔つきをした男だった。


「重大な審議があったのだ。それはそうとマグナス君、今までどこにいた?」


「審議……? いや、自分は彼の見舞いと、その勝利を讃えに……」


「そうか。しかし、その必要はない。勝者は君になったよ、マグナス君」


 その話を耳にしたユリシーズは目を剥いた。相手は貴族だったが、問いたださずにはいられなかった。


「なっ……どういうことだ!」


 ユリシーズの声に周りの人間は驚き、それからひそひそと小声で話しはじめる。


 サンダース卿が答える前に、別の方向から人ごみが割れていく。そこから現れたのは大会関係者を引き連れたアークライト卿だった。隣には息子のジェロームと、彼に支えられた小汚い格好の男が控えている。落馬したにも関わらず、ジェロームは軽傷で済んだようだ。


「サンダース卿に代わって私が説明しよう」


 そう話すアークライト卿の口ぶりはとても事務的で、抑揚のないものだった。


「先ほどのレース、君は見事に坂で加速して一着を獲った。しかしその時に見過ごせない危険行為があり、審議の結果、君は失格となった」


「失格? 危険行為?! 俺はそんなことしていない!」


「見苦しいぞ! 確かな被害者が存在する話だからな」


 アークライト卿が鋭く言い返すと、ジェロームに支えられた老人がふらつきながら一歩前に出た。


「……坂の近くで観戦していた時、あの人の馬が急に迫って来たんです。馬にぶつかられて、尻もちをついて腰を打ちました。今も、立ち上がるのもやっとで……」


 そう話す間も老人は腰をさすり、立っているのも限界だというように、よろめいている。


 この老人の登場でユリシーズへ厳しい視線が向けられる。


 しかしユリシーズはアークライト卿の考えた出まかせだと気づいた。話を聞いた当初は戸惑ってしまったが、落ち着いて思い返せばぶつかった覚えはない。レースに集中していても、人に接触すれば気づかないはずがない。


 これがアークライト親子なりの報復なのだろう。アクシデントによりジェロームは最後着となり、計画の片棒を担いでいたユリシーズが優勝を果たした。クラシック三冠という称号が得られなくなった今、彼らはユリシーズを引きずり下ろすことしか考えていない。


「待ってくれ! 俺はコースから外れて走っていない。コースから出てもいないのに、ぶつかったら危険行為だと判断するのはおかしいじゃないか!」


 卑劣な思惑にユリシーズは憤り、語気を荒くして言い返した。


 だが、周囲の貴族は冷ややかな声を小さく投げかけてくる。


 怪我を負わせたことへの謝意もない……勝つことしか考えていない、欲深な下民……由緒正しきクラシックに泥を塗ったアマチュア……いつの間にか、危険行為かそうでないかの話ではなく、彼らはユリシーズのことを汚らわしい鼻つまみものとして見ている。


「君が自身の危険行為について、なにも反省していないことはわかった。一着はマグナス・アーケイン君のシアトルブラウン号、それ以降の馬も着順が一つ繰り上げとなる。これは決定事項だ」


 アークライト卿が宣言すると、周囲の貴族たちもそれに従って拍手する。


 パチパチと響く拍手はどこまでも残酷に広がっていく。もはやそれは人を讃えるものではなく、アークライト卿の発した言葉に賛同を示すためのものだった。ユリシーズの主張は通さないという意図が、拍手を通して響き渡る。


 その時、ユリシーズはひとつの考えに至った。これで自分の優勝がなくなったのならば、遠慮することは何もない。自分もまた相手の弱みを握っていて、死ねばもろともだと考えた。


 静かに懐へ手を入れた。服の内ポケットには、アークライト卿が書いた契約書がある。自筆の契約書が人目にさらされたら、アークライト卿も言い逃れはできない。


「おい、なにか出そうとしているぞ! 取り押さえろ!」


 しかし目の前にいたジェロームが声を上げたことで、周りにいた大会関係者がわあっと覆いかかる。為すすべなく濡れた芝の上に押さえつけられ、さらには紐で拘束されていく。


「待て、待ってくれ! 俺は何もやっていないだろう!」


「黙れ! お前は勝つために手段を選ばない人間だ。父上に凶器で襲いかかろうとしたに違いない! さあ、早くこいつを警官隊に引き渡してくれ!」


 ジェロームの命を受けて、大会関係者がユリシーズを押さえつけて連れていく。


「……下民ふぜいが」 


 羽交い締めにされたユリシーズが、アークライト親子の横を通る時、ジェロームがそう吐き捨てた。


「なんだと?」


 それを聞いたユリシーズは、ジェロームの顔を睨みつけた。侮蔑の言葉が相手に聞かれても、ジェロームは目を細め、せせら笑っていた。


 この男は他人の不幸を心の底から楽しんでいる。その態度に怒りを抱き、ユリシーズはつばを吐きかけた。


「貴様っ!」


 目元につばが飛んだことで、ジェロームの顔が真っ赤に染まる。


 叫んだジェロームは端正な眉を吊り上げ、持っていたステッキを左ひざに叩きつけてきた。にぶい音が響き、強い痛みが走って立てなくなる。ユリシーズが崩れ落ちて、頭の位置が下がると、さらにジェロームは後頭部にステッキを振り下ろした。


 あわてて周りの人間が二人を引き離し、ユリシーズは気を失ったまま連行されることとなった。


 殴られ、足に重傷を負ったユリシーズだけが身柄を拘束される。その異様な光景を離れた位置で見ていたマグナスは、貴族を絶対とする社会の闇を感じていた。

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