第4話 ~ 突破
昼過ぎに出走する予定のレースだったが、天候が怪しくなってきたことで出走時刻が繰り上げられ、開催は午前中となった。
スタート前、馬上でユリシーズは空を見上げた。
青空はまだ見えている。しかし北から来た分厚い雲が太陽を完全に覆い隠し、空の青を暗くさせている。黒い雲が広がりを見せ、風も強くなり、ポツポツと雨粒がこぼれはじめてきた。間もなく冷たい北風とともに雨がやってくる。
寒さは感じていないのに、ぶるりと体に震えが走った。人生を変える戦いを前にしたことで、本能的に自分は怖気づいているのかと思った。
「なに震えてるんだ? へっ、もう逃げることはできねえけどな」
北の空を見上げていると、後ろから声が聞こえてきた。
「せいぜい漏らさないように気をつけろよ。目立たずドンケツにいたほうが身のためだぜ」
あの火傷のマーカスがわざわざ後ろを通って絡んできた。しかしマーカスが発した言葉が、うまくユリシーズの耳に入ってこない。
ユリシーズは馬首を返してスタート位置の方へ向き直る。視線の先はマグナスの乗るシアトルブラウン号のみ。あの馬さえ潰せば、弟が助かる未来がやってくる。怖れる暇はない。狙う背中はただ一つだけだ。
「っ……」
この時、ユリシーズも気づかぬうちに、マーカスの顔が一瞬こわばった。
瞬きせず前を見据えるユリシーズの瞳は、ガラス玉のように余計な感情がなかった。緊張して固まっているせいではない。獲物を狙う猟犬のように非情な目だった。
出走地点に馬が並び始める。一番右端はマグナスが乗るシアトルブラウン号、その隣がマーカス、次にユリシーズと並ぶ。さらに左に行き、列の中央にケビンがいる。そして列の左端には、ジェロームが乗るフォレスト号が並んだ。
若々しい肉体を誇るサラブレッドたちの姿は壮観の一言に尽きる。馬が一列に並ぶと興奮した歓声が小さくなり、整然とした拍手に移り変わっていく。
この地に並ぶサラブレッドは多くの期待を一身に背負っているのだ。馬主が大金をはたいて牧場を作り上げ、幾人もの調教師、厩舎員が何年にもわたり手塩をかけて育てる。それらの人々が万感の想いを込めて送り出した馬に、選ばれた騎手だけが騎乗を許されている。
たった二分弱の戦いで最速になる。そのためだけに人間は一頭の馬に心血を注ぎ、熱狂する。
合図の台に赤い旗を持った紳士が上がった。白いスーツの裾が春風にはためき、降りはじめた雨粒がその白の生地に染みこむ。
静かに旗が天に伸び、一瞬の間があってから、振り下ろされた。
一斉に馬が走り出す。スタート地点に集まっていた農民たちはわぁっと声を上げ、慌てて追いかけようとする。何人かの人間が芝に足を取られて転ぶが、その間も競走馬たちはどんどん遠ざかっていく。
すべての馬が問題なくスタートし、現在は横一列になって走っている。シアトルブラウン号が頭一つ分前に出ていて、湿った芝を物ともせず突き進んでいく。
順調に速度を上げるシアトルブラウン号の左後方にマーカスがつき、さらにその後ろからユリシーズが追う。他の騎手も馬の脚を急がせるが、シアトルブラウン号の加速には追いつかない。
やはり下馬評通りの体力差が現れ始めた。ユリシーズがそう思った頃、視界の左端から一頭の鹿毛馬が出てきた。白い乗馬服の騎手ジェロームが仕掛けたのだ。
ジェロームのフォレスト号は軽やかな足取りのまま前に出てきた。無茶な勢いではなく、まだ余力を残したうえで脚を上げてきたのだろう。
右端のシアトルブラウン号、左端のフォレスト号が前に出たことで歓声が大きくなる。著名な二人の貴族が育て上げた優駿の一騎打ち、その明快な勝負の始まりに大衆は湧いた。
一方で、他の騎手たちも動き始めた。サラブレッドという品種は、馬の中でも競争心が豊富で、首を並べて追いすがることで逆転の可能性が生まれる。ゆえに周回レースならばともかく、駆け引きの少ない直線レースで差が広がるのは好ましくない。あまりに引き離されてしまえば、馬の闘争心に火が点かず、後半で追いつけなくなる。
突き離されてなるものかと焦る騎手たちをよそに、ユリシーズだけが少し後方についたままだ。
マーカスはシアトルブラウン号を追いながら、一瞬だけ後ろを見た。異様な雰囲気をまとっていたユリシーズが静かに遅れていく。いつもなら気に留めないところだが、マーカスは不穏な気配を感じていた。
「焦るな……まだ、まだ……」
馬蹄の音が響く中、己を諫めるためにユリシーズはつぶやいた。
想像以上に周りの騎手は名手ぞろいだ。一番人気のマグナスだけではなく、他の騎手たちもここぞというタイミングで速度を上げて追いすがっている。
これがクラシックのレベルかと実感するとともに、同じ戦い方では敵わないと理解した。今から無理に急いでも、前を走る馬たちの間に割り込むことはできない。
しかし、自分には有利な点もある。北北西の風向きはスタートからゴールに向かって吹き、最後方にいるユリシーズがその追い風を最も受けている。そして他の馬は熾烈に押し合いながら先を競い、前方の風よけになってくれている。
すでに最善は尽くしている。勝つためのプランもできている。今は体力を温存し、力尽きた馬の間から割り込んで前へ出るしかない。残り二百メートルの上り坂でシアトルブラウン号をつぶすまで、ブレシング号は脚を溜めなければならないのだ。
横に視線を向けると左右の観衆が一気に増えてきた。千メートルを通過し、残り六百メートルを切ったところだ。あと数十秒で決着がつく。
ついにシアトルブラウン号のハイペースに追いつけなくなり、疲弊した後続の馬たちが横によれてきた。ある馬は横の馬にぶつかり始め、ある馬は目に見えて速度を落としていく。
均衡が崩れ、ユリシーズの正面が空いた。右前方は二頭。マグナスのシアトルブラウン号と、それに食らいつくマーカスの馬だ。この二頭より先に坂へ入り、馬体を右に大きく傾ければ、妨害作戦は成功する。
今だ、と鞭を入れた瞬間、左側の歓声が悲鳴に変わった。
何事かと思い左へ視線を向けると、白い乗馬服を着た騎手が、ターフの上を転がっていった。
「馬鹿な、ジェローム……ッ!?」
よそ見は危険なので、すぐに視線を前に戻したが、あまりのアクシデントに思考が乱れる。
あれを見間違えるはずがない。今回、白い乗馬服を着ている騎手はジェロームだけだ。優勝候補だったジェロームが落馬したのだ。
レースで落馬すれば優勝は絶望的だ。たとえ馬だけが何事もなく走り終えても、騎手が乗っていなければ当然失格となる。ルール上は再度騎乗すれば問題ないが、それは現実的にあり得ない。
体が震え、歯がカチカチと鳴る。アークライト卿は優勝の名誉を得る代わりに、賞金の半額を譲るという破格の報酬を約束してくれた。ユリシーズが千ギニーを得るには、ジェロームの勝利が大前提だった。
それら全てが水泡に帰した。今からシアトルブラウン号を妨害したとして、はたしてアークライト卿は報酬を払ってくれるだろうか。
目の前が暗くなりかけた。すべてを賭けて挑んだ戦いが詰みの状態になったことで、胸が絞めつけられるような感覚に襲われる。
ガクンッと馬体が沈んだ。はっと我に返ると、ブレシング号が脚に力を入れて、体を沈めていた。前が空いていることを理解したことで、本能で前へ進もうとしたのだろう。
一瞬だけ驚いたものの、その直後にユリシーズの視線は、前へ向き直った。
「……やるしか、ない」
馬の闘争心にあてられたことで、絶望から浮き上がる。まだやれることはあると気づくことができた。
残り二百メートル、ついに最後の上り坂に突入する。
ユリシーズは手綱を握りなおして右へ進路を取った。右前方にいるマーカスとマグナスの後ろに張りつき、そのまま加速する。坂道を乗り越えるため、ここぞとばかりに全員が鞭を振るっているものの、体力を温存していたブレシング号が猛追する。
対してマーカスは、左後ろにいたユリシーズが消えたことに驚く。次の瞬間、右側に目を向けると、すぐそこまでユリシーズのブレシング号が近づいていた。
そのままブレシング号は加速を続け、最右翼にいるシアトルブラウン号よりも、さらに右へ舵を切っていく。
「な、なんだっ? なにをする気だ?」
マーカスが思わず声を上げたことで、マグナスが左へ視線を移した。
その一瞬の隙を突いて、シアトルブラウン号の右隣に割り込んだ。
マグナスはコースの右端に陣取っていたが、さらに右には馬一頭分の隙間があった。あと一歩でも右に出ればコース外となり、近くにいる観客にぶつかる危険がある、とても狭いスペースだ。
そこへユリシーズは突っ込んだ。百戦錬磨のマグナスの意表を突く、奇策だった。
狭いスペースに割り込んだことで、マグナスが右手で振っていた鞭が左目にぶつかり、激痛が走った。鞭でユリシーズを叩いてしまったことに驚き、マグナスは体勢を崩す。
しかしユリシーズは怯まず、二度、三度と馬に鞭を入れた。汗で艶めいた黒鹿毛の体が再び沈み、長く続く坂を一気に上っていく。左目は見えなくても、右目だけで前を見る。
歓声が遠く感じる。他の馬の足音も聞こえない。もはや耳に入ってくるのは、自分と馬の荒い呼吸だけ。見えているのはゴールを示す左右の柱だけだ。
無我夢中で走り抜けてから、しばらくして馬の脚を緩めた。前を走っている馬はおらず、振り向くと後続の馬が次々とゴールを抜けてきた。
歓声がなだれかかる。体が固まるほどの熱狂をその身に受けて、馬上のユリシーズは観客席の方へ目を向けて放心した。
「一着っ! ユリシーズ・ハーディが見事に差し切り、ブレシング号は悲願の初勝利ーーっ!!」
主催者が高らかに宣言し、さらなる歓声が巻き起こる。あまりの番狂わせに貴族たちは顔を見合わせ、驚きを隠せていない。それでも勝者を前にして拍手を忘れる人間はいなかった。一人また一人と、無名の騎手へ拍手が送られた。
「勝った……のか?」
目の前の光景を見て、呆然とする。
老若男女が入り混じる大観衆が、馬上の自分に惜しみない称賛を送ってくる。貴族の人間すらも席から立ち上がり、拍手で讃えてくれている。夢のような現実がユリシーズを迎え入れた。
ポタ、ポタと自分の左手にしずくが落ちる。鞭で切れたまぶたから血は流れていたが、その血には涙が混じっていた。安心なのか、感動なのかわからない。痛みは感じず、いつの間にか涙があふれていた。
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