第3話 ~ 取引

 弟が血を吐いてから二か月。ユリシーズは競馬場で初老の貴族に声をかけられた。その貴族はアークライト卿と名乗り、頼みたいことがあると言ってユリシーズをクラブハウスに連れ出した。


 はじめは本当に貴族かどうか疑っていたが、アークライト卿はロンドンの中心部にある会員制のクラブに悠然と入り、従業員に手厚くもてなされていた。彼から受け取った名刺には、確かな肩書と本名が記されていた。


 ユリシーズはアークライト卿とともに応接間に通され、すぐに従業員が焼き菓子とダージリンティーを運んできた。飲み物と菓子がテーブルに揃うと、彼はテーブル上を手のひらで示した。


「ここまでご足労をかけたね。さあ、遠慮なくいただいてくれ」


「……どうも」


 穏やかな雰囲気の老紳士だったが、ユリシーズは警戒心をあらわにしていた。故郷で母が受けた仕打ちから、この老紳士だけのことではなく上流階級そのものを忌み嫌っていた。


「君は周りから猟犬と言われているそうだね。有力馬をつけ狙い、番狂わせを起こす騎手だと」


「厄介者扱いされているだけですよ」


「ふふ、知っているよ。君がレースに出たら馬券が荒れてしまうと嘆く者は多い。最近はそんな観客をたくさん見てきた」


 それからアークライト卿は葉巻に火を点けた。高級なソファに腰を沈めて煙を吹かす姿は、何十年も上流階級で過ごしてきた人間の所作だと改めて思った。


 しばし煙を楽しんでから、彼は本題を切り出してきた。


「頼みたいことは単純だ。私の息子を今年の二千ギニーステークスで勝利させてほしい」


「息子さんを、あの二千ギニーで?」


「そうだ。次男のジェロームが出走するので、君に協力してほしい。礼は弾む」


 話を聞いてユリシーズは啞然とした。現在の英国には「クラシック」と呼ばれる三歳馬限定のレースがある。四月の二千ギニー、六月のダービー、九月のセントレジャーの三つをクラシックと呼び、それらのレースには最高峰の駿馬しか出走しない。


 中でも四月の二千ギニーは今年度のクラシックレースの可否を占う一戦と言われている。


「今年こそクラシック三冠を獲りたい。そのためには最初の二千ギニーでつまづくわけにはいかないのだ」


「意味がわかりません。俺はそんな立派なレースに出る騎手ではないし、たとえ出ても八百長ができるほどの名手でもありません。頼む人を間違えてませんか?」


「そんなことはない。君にしか頼めないことだ。私たちはこのレースで勝利したという名誉が欲しいだけで、金銭面で不自由は一切ない。成功した暁には君に賞金の半分を支払おう」


「千ギニー……!」


 報酬を聞いて思わず息を呑んだ。もしも千ギニーもの大金が手に入ったら、ルークの治療費の問題は解決する。大きな病院でとびきりの治療を受けてから、空気のきれいな片田舎で家を建てることだってできる。


 アークライト卿のことを信用したわけではないが、この好機を捨てて帰ることはできなかった。


「それで、俺は何をやれば?」


「おお、引き受けてくれるのかね」


「まずは話を聞いてからです」


 貴族相手とは思えない堂々とした態度に、アークライト卿は鼻白んだが、気を取り直すように葉巻を深く吸い、煙をふかした。


「ふぅ……いいだろう。まずはこの血統書の写しを見てくれ」


 アークライト卿は懐から紙を取り出し、テーブルの上に広げた。


「今回の二千ギニーに出走する最有力馬、シアトルブラウン号についてのデータだ。サンダース卿の所有する三歳馬で、驚異的な末脚を持っている」


「三歳で体重が千二百ポンド(約五百四十キログラム)ですか。かなりでかいし、体力も相当あるでしょう」


「そうなのだ。ジェロームが乗る馬も順調に成長しているが、この馬だけは規格外だ。しかもレースの開催地はニューマーケットの直線コースで、純粋な体力がモノを言う。まともな直線勝負では勝ち目がない」


「では、この馬をマークするのですか?」


「そうだ。まず、君はシアトルブラウン号にぴったりと張りつき、なるべく体力を消耗させてくれ。残り二百メートルの地点で上り坂があるのは知っているな? その坂の手前で加速して前を塞げば、シアトルブラウン号は坂で加速しきれず、そのままジェロームは一着でゴールする」


「先に坂を上って、斜行しろということですか。下手すれば悪質な妨害行為ととられかねない」


 ユリシーズは作戦の内容を聞いて苦い顔をした。たしかにこれほどの馬に勝つには生半可な作戦では難しいだろう。しかし明らかな妨害と判定されたらユリシーズは失格になる。最悪の場合、競馬界からの追放もあり得る。


「君の立場が危うくなっても私ならなんとかできる。そもそも君は競馬界に未練がないだろう? 追放されても、金が手に入れば騎手をする理由はなくなるはずだ」


「っ……なぜ、それを?」


 驚いたユリシーズの顔を見て、老紳士は目を細めて笑った。


「どんな騎手でも勝利が増えれば羽振りの良い生活をしたがるものだ。しかし君は贅沢をせず、いつもまっすぐ家に帰っている。弟の医療費さえ工面できればそれで良い……だろう?」


「俺のことを最初から調べていたわけですか」


「周りの人間から少しだけ話を聞いて、君の行動を影から見せてもらっただけだ。人の私生活など案外そんなものだよ」


 それからアークライト卿は二本目の葉巻に火を点けた。


 二人の間に沈黙が広がったが、それを破るのはユリシーズの役目だ。この計画に伸るか、反るか。それを答えなければならない。うまくいかなければ金を得られず、騎手としての生活も奪われる危険性もある。そして取引相手は貴族で、下層階級である自分との約束を守ってくれる保証はない。


 しかしユリシーズの脳裏に弟の顔が浮かんだ。あの夜、血を吐いて倒れた弟はとても苦しんでいた。ユリシーズが医者のもとに運ばなければ、最悪の結末になっていただろう。


 弟を救えるなら、なんでもやると決めたのだ。母を失い、自分にはルークしかいない。もはや誰一人として失いたくない。


「……わかりました。この話、受けましょう」


「ありがとう。賢明な判断を下してくれて嬉しく思う」


 アークライト卿は身を乗り出し、ユリシーズに右手を差し出そうとした。だが、その前にユリシーズがぐっと体を前に出した。


「ただしお願いがあります、アークライト卿」


「むっ……なんだね?」


「今話した作戦には保証がありません。レース当日に俺が失敗するかもしれないし、無礼な憶測ですが、成功してもあなたがお金を払わない可能性もあります。お互いの欲しいものが手に入るためにも、たしかな証明をください。どうか、お願いします」


 深々と頭を下げた。アークライト卿は少々面食らっていたようだが、その後にふっと笑ってテーブルの端にあった鈴を鳴らした。


 十秒もしないうちにクラブの従業員が入室してきた。従業員はアークライト卿のそばに立った。


「アークライト様、御用でしょうか」


「この若者と商談をして、それをまとめているところだ。通用の証明書とペンを持ってきてくれ」


「かしこまりました」


 従業員はうやうやしく礼をして退室した。ほどなくして紙、ペン、インクを持った従業員が戻ってきて、それをテーブルの上に置いた。


「お待たせいたしました」


「ありがとう。下がっていてくれ」


 部屋から従業員が出ていくと、老紳士はペンにインクをつけ、慣れた手つきでペンを紙の上で走らせた。


 従業員が持ってきた証明書は厚みのある紙のようだ。あまり詳しくないユリシーズでも、公文書を取り扱う機関で使う紙だとわかった。


 契約内容とサインを書き終えてから、アークライト卿は書類をユリシーズに見せた。


「私が君にレースで行ってほしい妨害行動……それが成功して私の息子が一着になった場合、君に千ギニー支払うこと……主な内容はこれで良いだろう。そして私の直筆のサインもある。これを君に預かってもらおう」


 ユリシーズは書類を手に取って読んだ。内容に間違いはなかったため、小さくうなずいた。


「もしも私が約束を破れば、この紙を裁判所に持っていけば良い。これで君も安心だろう」


「ありがとうございます」


「構わないよ。私は君に依頼する立場で、誠意を示しただけだ。では、君が出場できるように関係者に話を通しておこう……当日、手はず通りに頼むよ」


「はい」


 こうしてユリシーズは貴族のアークライト卿と密約を交わし、帰宅した。


 ベッドのそばにあるイスに座り、寝ている弟の頭をなでた。ほのかに温かく、張り詰めた心がほぐれていく。今夜は体調が良いようで、おだやかな寝息を立てている。


 上着のポケットに手を入れて、中にある契約書に手を添えた。この書類に記された計画が成功すれば、すべてが変わる。しがらみのない土地に母の墓を移し、兄弟二人でやり直せる。


 部屋の窓から夜空を見上げる。月が薄いスモッグの向こうから輝いていて、部屋の中にいる兄弟を青白く照らしている。


 ロンドンから出ることができたら、もっと美しい夜空が見ることができるはずだ。澄み切った空気が広がる田舎道を、弟とともに散歩できれば、どれほど幸せだろう。


 淡い月明かりを見上げながら、ユリシーズはそう思った。


 二週間後、ついに勝負の日がやってきた。いつものように朝食を作り、自分が留守の間もルークが食べられる軽食も用意した。そしてスープと水を一杯ずつ飲んでから、支度を済ませた。


「兄ちゃん」


 服を着替えていると、まだ食べ終わっていないルークが声をかけてきた。


「なんだ?」


「その……顔が、ちょっとだけ恐いよ。なにか嫌なことでもあるの?」


「……そうか」


 ベッドで食事をしている弟のそばに座った。なるべくいつも通りを装っていたが、自分の緊張が伝わってしまったのだろう。


「心配かけてごめんな。大丈夫、ルークが入院できるように頑張ってくるだけだ」


「そう、なの?」


「ああ。兄ちゃんは強いんだ。今日はちょっと遠い町でレースに出て、たくさんお金を稼いでくるからな。もう少しで病院に入れるようになるから、ルークも元気を忘れるなよ」


 弟を抱きしめて、頭をなでた。いつ死ぬかわからない日々の中、弟はその恐怖に負けず懸命に生きている。ここで自分が怯えている暇はない。


「兄ちゃんのこと、信じてくれるよな」


「……うん!」


「よし。じゃあ、行ってくる」


 弟から離れて、玄関から出ていく。集合住宅の外階段を下りてから部屋の窓を見上げると、弟が部屋の中から手を振っていた。ユリシーズも手を振り返してから馬車に乗った。


 馬車でキングス・クロス駅に着いた。ここから列車に乗り、ケンブリッジの駅で降りたらニューマーケット競馬場はすぐ近くだ。


 列車に乗るのは故郷から出た時以来だった。車窓から初春の田園風景が見える。緑と土色がどこまでも広がり、時おり農夫らしき人影が動いている。


 雑多なロンドンとは打って変わって、のどかな光景だ。日々の忙しさに荒んでいたユリシーズの心もやわらいでいく。


 しかし一方で、親子三人で暮らしていた日々も思い出してしまう。陽だまりのような暖かい日々、忙しくても笑いが絶えなかった家族の団らん、そのどれもが心の奥底で焦がれてやまない思い出だ。


 あの頃には、あの家には戻れない。父の笑顔も、母の優しさも届かぬ場所に行ってしまった。


 それでも自分にはたった一人だけ残されている。


「大丈夫、大丈夫だ……見ててくれ、母さん……俺がルークを、絶対に守るから」


 両手を顔の前で合わせて握る。座ってうつむきながら、ユリシーズは今日の勝負を祈っていた。


 列車はつつがなくケンブリッジに着いた。駅に下りると一台の辻馬車が停まっていて、その中から老紳士が手まねきしていた。


「おはよう、ユリシーズ君」


 馬車の扉を開けると、葉巻の煙がむわっと押し寄せてきた。煙が晴れた先にアークライト卿が座っており、ユリシーズが隣に座ったところで、彼は目深にかぶっていた帽子を取った。


「おはようございます、アークライト卿。その、あなたもこういう馬車に乗るんですね」


「一族専用の馬車じゃないのが意外だったかね?」


「ああ、いえ、すいません」


「構わないよ。なに、ちょっとした用心だ」


 話しながらアークライト卿が御者に合図を送った。御者の掛け声とともに馬車が動きだし、学問の風が豊かなケンブリッジ・タウンの道路を走っていく。


 ロンドンのように排ガスにまみれておらず、人々の喧噪も少ない街だ。まだ日陰の道路は朝露でわずかに湿っていて、地味な色合いの大学の校舎や博物館が、上の方からだんだんと朝日に照らされつつある。


「今日のレースでサンダース卿の馬が君に妨害され、息子の乗る馬が難なく優勝したとなれば、誰もがなんらかの思惑を疑うだろう。そんな時に私と君が親しく話していればさらに怪しまれてしまう」


 アークライト卿は口を動かしながら、半開きになっている馬車の窓枠に葉巻を打ちつけ、窓から灰を落とした。


 前に会った時とは違い、所作がどことなく乱暴に感じる。レースを前にして神経が過敏になっているのか、少しずつ上品な貴族とかけ離れているように見える。今の様子がアークライト卿の本性なのかもしれないと、ユリシーズは思った。


「あくまで俺とあなたは他人。俺が勝手にサンダース卿の馬を妨害して、あなたの息子さんが優勝する。そういう筋書きですね」


「その通りだ。先日、君が出場できるように大会関係者に根回ししたが、私が君を直接推薦したと思われないように気をつけた。もちろん競馬場の中でも、君と私はどこまで行っても無関係だぞ」


 老紳士の目がきらりと光った。しわが刻まれた顔の奥で瞳が輝き、ユリシーズをじっと見据えている。下手を打ったらただでは済まさないぞという脅しだろう。


「わかっています」


「よろしい。さて、もうそろそろニューマーケットに着く。悪いがここで君は降りてくれ」


 馬車はニューマーケットの入り口で止まり、ユリシーズはそこで下車した。


 下車する直前に、アークライト卿の方へ振り返った。


「あの、ちょっと聞いても良いですか?」


「なんだね」


「息子さんや、馬の調子はどうですか? シアトルブラウン号は俺が止めますが、もしも他の馬に負けてしまったら……」


 ユリシーズの問いはアークライト卿のプライドに障ったらしい。彼は顔をしかめ、語気を強めた。


「その心配は無用だ。君があの馬さえつぶしてくれたら、息子の乗るフォレスト号は間違いなく一着だ」


「わかりました。では、後ほど」


「うむ。君も役目を果たしなさい」


 そして馬車は先へ行った。レース開催にはまだ時間があるため、ニューマーケット・タウンの入り口から歩いていくことにした。


 ケンブリッジから東に進んだ近郊にニューマーケットはある。この町の競馬場は英国でも古くからある由緒正しきコースであり、十七世紀初頭には国王ジェームズ一世が観戦したという記録もある。


 調教場や牧場など競馬に関する施設も多く、町というより緑豊かな農村に見えなくもない。しかし今日は人通りが多く、かなりにぎわっている。まだ朝だというのに住民に落ち着きがなく、明らかに都会から来たような富裕層の男女もちらほらといる。


 やはり三大クラシックレースが開催される日は、町の内外から人が集まるのだろう。二千ギニーレースは今年のクラシックの初陣であり、注目度もかなり高い。『二千ギニーの優勝馬は六月のダービーの大本命』とも言われているため、競馬に通じている人間ならば、今日の二千ギニーを見逃すことはあり得ないのだ。


 だが、ユリシーズにとって今日は金を得るための決戦だ。クラシックの称号などに興味はなく、ただひたすらに弟の命を救うという覚悟しかない。もちろんシアトルブラウン号が勝利するために、多くの関係者が労力をかけているだろう。ユリシーズが卑劣な妨害行為を行うことで、多くの人間が悲しみ、憤るに違いない。


 もはや後戻りはできないと頭の中で繰り返し、ユリシーズはニューマーケット競馬場に向かった。


 競馬場に着き、係員に名乗って案内を受けた。騎手のために用意された小屋に入ると、中には三人の騎手が着替えていて、ユリシーズを見て不思議そうな顔をした。


 軽く一礼してから部屋の奥へ進み、空いている棚の前で着替えることにした。


「もしかして、あんたが飛び入り参加のユリシーズかい?」


 服を脱いでいるユリシーズに声をかけてきたのは、茶色の髪とそばかすが印象的な若者だった。


「俺はケビン、よろしくな」


 ケビンと名乗った若い騎手はニッと歯を見せた。


「ああ……よろしく」


 ユリシーズも挨拶を返したが、部屋の隅にいた騎手たちが鼻を鳴らした。


「ふっ、あまり良い顔をしても無駄だぞ、ケビン。所詮は主催者が慌てて用意した補欠騎手だ」


 声の方に振り向くと、身ぎれいな乗馬用の服を着た騎手が二人いた。一人は腕を組んだ背の高い男で、なかなかの美男子だ。もう一人は額に火傷のある男で、底意地の悪そうな笑みを浮かべている。今の言葉を放ったのは、背の高い騎手のようだ。


「まあ、君もせいぜい頑張りな」


 そう言い残して背の高い男は出ていった。その次に火傷のある人相の悪い男が近づいてきた。


 男はユリシーズに詰め寄り、じろじろと顔を見つめてから笑った。


「おいおい、アマチュア。今からでも遅くないから、さっさと帰ったらどうだ? 三流がこんな大レースに出ても恥かくだけだぜ」


「ちょ、ちょっとマーカスさん……」


 マーカスと呼ばれた男はケビンの制止を聞かず、威圧的な態度をとってくる。


 しかしユリシーズはため息をつき、マーカスに背を向けて着替えを再開した。


「なっ、てめえ!」


 無視されたことでいきり立ち、乱暴に肩をつかもうとしてきた。すかさずその手を振り払い、マーカスはたたらを踏んだ。


「俺はレースをしに来ただけだ。あんたらも無駄口を叩かずに着替えたらどうだ?」


 後ろに下がったマーカスの方に冷たい視線を送る。


「ちっ……」


 二人の間に険悪な空気が流れる。しばらくにらみ合っていたが、火傷のマーカスが舌打ちをしてから先に出ていった。それをそばで見ていたケビンも、身支度を済ませたらそそくさと小屋から出た。


 一時間後、ニューマーケット競馬場に花火が上がった。多くの観客が集まっており、熱気に満ちている。ここにいるすべての人間が今年のクラシックの幕開けを待ち望んできた。平民はもちろん、ゴール近くに陣取る貴族たちも大きな拍手を送る。


 その最中、ユリシーズはパドックで今日の馬に乗っていた。ユリシーズが騎乗する馬は小柄な黒鹿毛の馬で、名をブレシング号という。


 アークライト卿の息のかかったクラブで所有している馬で、筋肉のハリは上々だが、周りの馬の様子を気にしやすい神経質な性格のようだ。今は落ち着いているが、下手に扱えば振り落とされる可能性もある。アークライト卿は「少しばかり手がかかるが、今回の役目に最適な馬だ」と馬車で語っていた。


「なるほど。この馬なら、坂道で暴走して斜行してもおかしくないというわけか」


 誰にも聞こえない声でつぶやく。そう思えば、今回のレースで悪役を演じなければならない馬に同情の念が湧いた。この二千ギニーに出走する馬の馬主たちは、勝つために全力を注いできたはずだ。その中でユリシーズを乗せるブレシング号だけが、勝つことを許されず、危険な妨害行為に加担しなければならない。


 アークライト卿が用意した捨て駒ならば、この無名の黒鹿毛に未来はないのだろう。大きなレースで勝てない馬を手厚く養う馬主はいない。種付けの馬になることもできず、そう遠くないうちに処分されるのが常だ。


「……すまない。ルークのためにも、今日は勝利を諦めてくれ」


 そう言って、荒い鼻息を吐く馬の首に手を添えた。あくまでもユリシーズの目的は弟の命を救うためであり、それ以外に求めるものは無い。チャンスは今日しかない。


 馬から視線を外し、次に周りの馬と騎手を見た。どの馬も落ち着いていて、騎手たちも悠々と手綱を握って馬を操っている。先ほど更衣室で会った騎手たちも、ここでは真剣な目で馬に乗っていて集中を高めている。


 そのうちの一人、赤い乗馬服を着た騎手にユリシーズは注目した。騎手の名はマグナス・アーケイン。サンダース卿のお抱え騎手で、輝く金髪に鋭い鼻、太い顎をしたベテランだ。アマチュア騎手に過ぎないユリシーズですら「獅子」の異名を持つ彼のことを知っている。


 そしてそのマグナスが今回乗る馬こそが、サンダース卿の傑作と噂されるシアトルブラウン号だ。


「あれが一番人気のシアトルブラウン号と騎手マグナス、そして……」


 次にユリシーズが目を向けたのは、先ほどの美男の騎手だ。歳はユリシーズと同じくらいだが、新調されたばかりの白い乗馬服から、裕福な家柄であることがうかがえる。馬は鹿毛で、細長い流星が額から鼻先まで通っている。


 準備室で会った時にもしかしてと思ったが、やはり彼がアークライト卿の次男、ジェローム・アークライト騎手だ。


 馬に乗っている様はなかなか堂に入っていて、経験を積んできた騎手だとわかる。ただのお坊ちゃまかと思いきや、案外そうでもないようだとユリシーズは思った。


 ふとジェロームはユリシーズの視線に気づいた。数秒だけ目が合ったが、すぐにジェロームの方が興味を失い、別の方に目を向けた。


 父親のアークライト卿は、今回の作戦を息子には話していない。知っている人間をごくごく少数に絞ることで、秘密を隠しやすくするためだ。あくまでもジェロームが自力でレースに勝ち、ユリシーズは対抗馬を妨害した不届き者という泥を被る。


 ゆえにジェロームはユリシーズを気にも留めていないだろう。飛び入りで現れたアマチュアあがりの騎手、という程度で認識しているはずだ。


 これまで考えないようにしてきたが、暗い嫉妬が胸の内でざわめく。自分の弟と同じ貴族の血筋といえど、あのジェロームは周りのお膳立てで栄誉を手にしようとしている。貴族と平民では見えている世界が違う。彼らにとって与えられることは当然で、思い通りになることが常識なのだろう。


 そしてユリシーズは、その恵まれた貴族からの命令に従うことで、弟を生き永らえさせようとしている。貴族に対する尊敬など一切ないが、上の人間からおこぼれをもらう自分もみじめな人間なのだろう。


「いいさ、俺はやるべきことをやるだけ……」


 パドックの一部が開き、おのおのがレース場へ向かう。ユリシーズは胸に手を当て、気を鎮めてからレース場へ向かった。

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