第2話 ~ 貧困の日々
大都会ロンドンでの生活は苦しかったが、働き口に困ることはなく、狭い集合住宅で細々と暮らした。
数か月後、母が部屋で激しく嘔吐した。体調を崩した母の看病をしていくなかで、まだ少年だったユリシーズも真実を知ってしまった。
母の腹に赤子がいたのだ。だが、父は何か月も留置場に入っていた。その赤子も当然、父との子どもではない。
「どうして、どうしてなんだ」
ベッドに寝込む母の手を握り、こみあげる涙をおさえて問いかけた。
「こうするしかなかったの……お父さんを釈放してほしいと願った時、テューダー様は私を屋敷で働かせた。はじめはただ雑用を命じるだけだった……けど、テューダー様が欲しているのはそれだけではないと、私はどこかで気づいていた……」
「まさか、そんな」
「……お父さんのこと、今もずっと愛しているわ。でも、テューダー様は私が自分からその身を差し出すように仕向けた。あの方自身が寝所に来いとは言わず、家令や使用人たちが命じて……だから、そうするしか……」
天井を見上げたまま、母は涙を流した。愛する者を助けるために、みずからを犠牲にした苦しみは想像を絶する。
「私が身ごもっていると知った時、テューダー様にいとまを出されたわ。赤子がいることは誰にも話さすな、秘密のまま領地から去れと……」
「テューダー……あいつら、あの人でなしどもが……!」
ユリシーズは途方もない怒りを抱いていた。母の誇りと愛を踏みにじり、身ごもった母を辞職させた。そして今もなお、テューダー邸の人間たちは領地でぬくぬくと生きているのだ。
しかし一方で、母の居場所を聞き出してから出ていった父のことが気になった。
「待ってよ、でも、お父さんは? なんでお父さんは帰って来なかったんだ」
「お父さんは、私のことを愛していたわ。私がお父さんを想うよりも、ずっと深い愛情を注いでくれた。でも……だからこそ、お父さんは私を許してくれなかった。テューダー様と私のことを知って、お父さんは屋敷の前で私を怒鳴りつけてどこかに走り去っていった。ずっと孤独で、牢につながれていたあの人の心に……私が、最後の傷を与えてしまったのよ……」
「違う! それは違うよ! お母さんはお父さんを助けるために戦ったんだ! お母さんが悪いことなんて……」
「いいえ、すべて私のせいなのよ。私が愚かだったの」
その日から母の笑顔は消えた。今までは悲しさをまぎらわせるような笑顔を見せていたが、苦しかった過去をユリシーズにさらけ出したことで、もはや越えてはならない一線を越えてしまったのだろう。
ユリシーズもまた笑わなくなった。幸せだったあの過去には戻れないと悟った時、ただひたすら労働し続けることしか考えられなかった。母は身ごもっていて、そう遠くないうちに赤子が生まれる。その赤子を自分の家族と思えるかわからないが、医者にかからなければ母も赤子も命が危ない。
できる仕事はなんでもやった。煙突掃除、食肉処理、墓掘り、どぶさらい……金をためるために、とにかく働くしかなかった。
母の腹がいよいよ大きくなってきた頃、ユリシーズは競馬場の職員になった。仕事の内容はコースの整備だけではなく、厩舎の掃除や馬の世話なども含まれていたので、故郷で得た経験を生かすことができた。なにより、これまでの日雇い労働よりも安定した仕事だった。
そうして得た賃金のほとんどを母の医療費にあてて、ついに産気づいた日、ユリシーズは仕事を休んで病院に向かった。かなりの難産だと医者から聞いていたので、不安で押しつぶされそうだった。
一睡もできず病院の待合室で待っていた。明け方になって赤子の鳴き声が響きわたり、その後に医者と助産師が病室から出てきた。
赤子は生まれたが、母は無事ではなかった。出血が多く、さらには出産中に脳血管が破裂した可能性があるという。この時、母は峠を越えておらず、仮に生き永らえてもなんらかの後遺症が残ると宣告された。
ユリシーズは神にすがった。父に捨てられ、母まで失うことになればもう耐え切れない。母を守り抜くという想いだけでここまで耐え忍んできたのだ。
その想いが通じたのか、母は一命をとりとめた。視力が極端に落ちるという後遺症が残ったが、生きてくれているだけで充分だった。
そして家族は三人になった。目がほとんど見えなくなった母を助けながら、赤ん坊の面倒を見た。
母ユリアは生まれてきた男の子を、ルークと名づけた。自分に後遺症が残ったことや、息子のユリシーズに苦労をかけてしまうことに悩んでいたものの、無事に生まれてくれたルークを抱いた時は、幸せな顔をしていた。
ユリシーズは父が違う弟を世話することに複雑な想いを感じていた。領主のセドリック・テューダーへの恨みは深く、この赤子はその男の息子だと思うと、胸の中に重いしこりを感じていた。
しかしユリシーズは懸命にその感情に振り払った。赤子に罪はなく、どうしても憎むことはできなかった。
ルークはすくすくと育ったが、物心がつく頃には近所の子どもたちから仲間外れにされていた。
子どもたちの親も、ユリシーズたちの複雑な家庭環境に勘づいていたのだ。現にユリシーズとユリアは黒髪に褐色の瞳だが、ルークだけは金髪碧眼で、明らかに別の男とできた子だとわかってしまう。
その違いを、周りにいた無責任な親と、その子どもたちがあげつらってきた。
「どうして、僕と兄ちゃんは違うの?」
ある日、近所の路地裏でルークは膝を抱えて泣きじゃくっていた。ちょうど仕事帰りだったユリシーズはルークを見つけて、その隣に座った。
「また、あいつらに何か言われたのか?」
「お前は父親に捨てられた子だって……お前を産んだせいで母親は目が見えなくなって、働けない体になったんだって……」
弟が言われた言葉は無神経に人を傷つけるものばかりだった。事実には違いないが、家族でもない人間がそれを悪しざまになじるのは許せない。ユリシーズもはじめはルークのことを家族と思えなかったが、ルークの成長を見守っていくにつれて、本当の弟のように面倒を見るようになった。
そしてルークはすでに自分の父親のことを知っている。しかし顔も知らない父親を恋しがることはなく、ユリアとユリシーズにべったり甘えている。生まれる前のことを掘り返して彼を傷つけるのは、常に他人だった。
「気にするな。あいつらは何も知りもしないくせに、面白おかしく言っているだけだ。ルークはひとつも悪くないし、俺も母さんも、お前のことが一番大事だ。親父が違っても、お前は俺の弟だ」
「兄ちゃん……うぅ……」
泣いている弟の頭をなでた。金髪だが、貧しい生活のせいで色つやがない。生まれた頃から大気汚染が著しいロンドンにいるため、肺が弱く、よく風邪をひくことが多かった。
時おり思うことだが、もしもルークがテューダー家の人間として裕福に暮らしていたら、健康に成長できたかもしれない。テューダー家を憎んではいるものの、果たしてルークはここで暮らして幸せなのだろうかという不安があった。
「さあ、早く中に入れ。今日はシチューを作るから、ルークも手伝ってくれよな」
「……うん!」
涙を拭いた弟とともに家に入り、ユリシーズは食事の準備に取り掛かった。競馬場での仕事をこなし、母親と弟の面倒を見ることが日課だった。毎日が過酷で休む暇はなかったが、この時までは平穏な暮らしだった。
しかしそれも長くは続かなかった。ユリシーズが十九歳、ルークが六歳の時に母ユリアは亡くなった。
その日は大雨のせいでレースが中止になり、いつもよりコース整備などの仕事が立て込んだ。遠方から多くの貴族が来て観戦しようとしたため、中止後の掛け金返却などで競馬場は混乱し、ユリシーズも徹夜で事務仕事をすることになった。
家で夜を過ごしていたのはルークと母のみだった。ベッドで眠ろうとしたルークは、暗い部屋の中で母が起き上がる音が聞こえた。何か取ってきて欲しいものがあるのかと聞いても、母は「自分でとるから大丈夫」と言って台所に向かった。
少し経って母が部屋に戻ってきた。暗くてよく見えなかったが、母はコップを持ったままベッドに座ったことはわかった。喉が渇いて水を取りに行ったんだと思い、ルークはそのまま眠った。
朝になってユリシーズが家に着くと、部屋の中が少し牛乳臭かった。違和感を感じつつも部屋に向かうと、母がベッドの上で息を引き取っていた。窓から差し込む朝日に照らされ、痩せて青白かった母の顔は陶器のように生気がない。
「母さん、母さんっ! 起きてくれよ!」
気づいたユリシーズが必死に叫んで母の体を揺らす。その声でルークも目を覚まし、すぐに母のもとへ駆け寄った。
ベッドのそばにはコップが転がり、床には牛乳の臭いを放つシミが広がっている。母は昔から牛乳を飲むと体調を崩すことが多く、食事の時も飲む習慣はなかった。一口程度なら問題なくても、コップ一杯分も飲んでしまえば危険になる体質だった。
「お母さん! お母さぁぁん! うあぁああ……っ!」
母の胸にルークがすがりつく。二人がどれだけ泣いても、呼びかけても母は手遅れだった。
それからルークはひどく塞ぎこむようになった。あの時、自分が飲み物を取ってあげれば、母は間違って牛乳を飲まなかったかもしれない。その自責の念からルークは外で遊ばず、部屋に閉じこもるようになった。
だんだんとルークも体が弱っていった。軽く体を動かしたらすぐに息が切れるようになり、風邪をひいて高熱に苦しむようになった。できる限り金を稼いで良い物を食べさせようとしても、貧しく、不衛生な生活は確実にルークをむしばんでいった。
ルークは何年生きていけるだろうか。そんな不安がよぎることがあったが、ユリシーズはめげることなく仕事に勤しんだ。空気の汚れたロンドンから出ることも考えたが、兄弟二人で居を移すための金銭的な余裕は一切ない。大都会ロンドンだからこそ、ユリシーズのようなよそ者でも仕事にありつけていた。
アマチュア騎手として働き始めたのもこの時期だった。本業をしながら空いた時間にレースに参加し、勝ったら掛け金の一割がもらえた。たちの悪い主催者に報酬をごまかされたことは何度かあったが、勝てばたいていは金を得ることができた。
正式な競馬場で騎手をすることはなかったが、主にロンドンの郊外で行われる野良レースに出走した。レースの形式は様々で、一般的なトラックレースもあれば、アップダウンの激しい直線レースもあった。
とにかく生活費と医療費を欠かしてはならず、自分が諦めてしまえば弟は長生きできない。たった一人の家族を失わないためにも、ユリシーズは遮二無二になって働き続けた。
だが、ユリシーズに課された運命は残酷極まりなかった。
弟の容態は一向に良くならず、ある夜に血を吐いた。近くの町医者に診てもらった結果、気管支が異常拡張している可能性が高いとのことだった。手術でも治すことは難しく、投薬しながら入院するしかない難病だ。
家のベッドで弟の手を握った。母と同じように痩せている手だった。
「兄ちゃん、僕は、死んじゃうの?」
泣きそうな顔でユリシーズの目を見てくる。ここでルークから目を逸らしてはダメだと思い、弱気を見せないようにこらえた。
「心配するな。ルークは大丈夫、絶対に兄ちゃんが助けるから」
「……本当に?」
「ああ、本当だ。大きな病院でお医者さんに治してもらえば元気になれる。だからもう泣くな。男だろう」
「うん、わかった。もう泣かない……僕も、頑張るよ……」
涙をこらえる弟の頬をなでて、それから優しく頭を抱き寄せた。母の代わりにルークを守らなければいけないと、改めて腹をくくった。
もはや一刻の猶予もないと考えたユリシーズは、時間を拘束されるレース整備の仕事を辞めて、騎手一本で稼ぐことに決めた。ルークを大病院に入院させるためにはまとまった金が必要で、これまでの稼ぎ方ではまったく足りない。
不要な食事を抜き、自分の体を限界まで軽くした。騎手として勝つための努力を怠らず、連日のように相手を研究して、とにかく野良レースに出た。
なりふり構わず勝利を狙うユリシーズの名は次第に広がった。一番人気の馬をマークして差し切る戦法で勝利を重ねたため、非公式レースにたずさわる者たちは彼を「猟犬」と呼ぶようになり、競馬好きの貴族にもその名を知られるようになった。
それでもユリシーズは貪欲に勝利を欲した。難病を患った弟を助けてくれる大病院の治療費、入院費にはまだまだ届かない。その現実がユリシーズにのしかかり、焦りがつのるばかりだった。
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