過去
第1話 ~ 故郷の別れ
暗い部屋でハンモックに揺られながら、ユリシーズは天井を見上げている。
雨音が続く夜は、弟が死んだ日を思い出す。これで本当になにも無くなってしまったと、喪失と絶望に打ちひしがれた日だ。
ハンモックの横にある丸テーブルに、二つのパンと牛乳が置いたままになっている。今日はかなり疲れていたのに、倉庫から飯を持ってきても食欲が湧かなかった。おそらく神経をすり減らしたせいだろう。
ロザリアの話のせいで混乱していたが、やがて気を失うように眠りに落ちた。
***
ユリシーズはウェールズの片田舎で生まれた。活発で働き者な父ネルソンと、優しくて美しい母ユリアのもとで育った。
両親は広大な農場で働く小作人だった。農場には他にも大勢の小作人がいて、その農地一帯はテューダー家の当主、セドリック・テューダーが所有していた。
貧しい境遇だったが両親との暮らしは幸せだった。少なくともロンドンでの暮らしよりも、幸せに満ちていた。両親の手伝いをしているうちに、ユリシーズは馬の世話をするようになった。馬と人一倍ふれあっていく日々の中で、馬を手なずける術をつちかった。
ユリシーズが十二歳の秋、父が地元警察に捕まって留置場に入った。母はそのわけを隠そうとしたが、周りの小作人たちの話を盗み聞いて、父は馬の密売を領主に告発されて捕まったと知った。
はじめは信じられない気持ちだった。尊敬している父がそんなことをするはずがないと思ったが、父は一向に釈放されず、親しかった小作人たちもユリシーズとユリアから距離を取るようになった。仲間に見られたくないために態度を豹変させた小作人たちを見て、当時のユリシーズはすでに人の絆というものに失望していた。
「どうしてお父さんが捕まらなければいけないんだ!」
何度も母を問い詰めて、ついに母は父が捕まった経緯を話し始めた。
「私とお父さんが一緒に暮らす前、お父さんは馬の密売業者と仕事をしていた時があったのよ。お父さんが農場に押し入って馬を盗むことはなかったけど、密売業者に命令されて、盗んだ馬の体毛を別の色に塗ったことがあったって……」
「そんな……でも、俺が生まれる前の話じゃないか! 今になって捕まえるなんておかしいし、悪いのは馬を売って金儲けしたやつらだ!」
「わかってるわよ!」
初めて母の怒鳴り声を聞いて、ユリシーズの体がびくりと固まった。
「ごめんなさい、ユリシーズ」
すぐに母はユリシーズを抱き寄せた。肌寒い厩舎の中で、母の腕の中だけが温かかった。
「大丈夫、大丈夫よ。お父さんはすぐに戻ってくるわ……お父さんも、あなたも、テューダー様の農地でずっと真面目に働き続けていたのよ。きっとすぐに許されて、またみんなで暮らせるから……」
優しく頭をなでてもらい、不安な気持ちは徐々におさまっていった。しかし母の声はわずかに震えていて、涙をこらえていることもわかった。
これから父はどうなってしまうのだろう。その不安と戦いながらユリシーズは仕事に励み続けた。
自分が一生懸命に働けば、周りの人たちの目が変わるのかもしれない。働きぶりが認められたら、テューダーの領主様も自分たちを許してくれるかもしれない。
幼いユリシーズにとって、現状に抗うためにはそれしかなかった。
それから、誰よりも早く起きて馬の世話をして、他の小作人たちが食事している間も厩舎の清掃と農具磨きを続けた。寄り添ってくれる人間はなかなか現れなかったが、それでも弱音は吐かなかった。父が戻ってきて、家族三人で暮らすことができるだけで良かった。
ある日、母が夜になるとどこかへ出かけていることに気づいた。いつもの厩舎で眠ろうとした時、ふと馬のいななきが聞こえた。窓から顔を出すと、厩舎の裏に停まった馬車に母が乗る姿が見えた。後ろ姿だったが、間違いなく母だった。
走り去る馬車には追いつけなかったが、車体には立派なバラの紋章が刻まれていた。朝になってユリシーズは母にそのことを聞いた。母は暗い顔をしていたが無理に笑顔を作って首を振った。
「あなたは気にしないでいいのよ」
「でも、どこに行っているのかくらい教えてくれよ。お母さんだって働きづめなのに、どうして暗くなってから出かけなきゃいけないんだ」
母はユリシーズを抱き寄せようとしたが、はっとした顔をして手を止めた。
「どうしたの?」
「なんでもないわ。本当に、なんでもないのよ」
「そんなはずない! お母さんの顔を見ればわかる。あの馬車だって、お貴族様が乗るような馬車だった!」
さらにユリシーズが問いただすと、母はようやく重たい口を開いた。
「……お父さんの罪を許してもらうために、テューダー様のお屋敷で下働きをさせてもらっているの」
「お屋敷、で?」
「そうよ。テューダー様は賃金もくれるし、真面目に働いたら告発を取り下げると言ってくれたわ」
「本当に!?」
「ええ。だから心配しないでいいのよ。もうすぐお父さんは、帰ってくるから……」
そうして母はこれまで通りの仕事の他に、テューダー邸での下働きにも励んだ。先に母の体調が崩れてしまわないか不安だったが、母もまた弱音を吐くことなく働き続けた。
それから二か月が経った頃、父が突然帰ってきた。頬はこけ、髪とひげは乱雑に伸びきっていて、留置場での日々がどれほど過酷で孤独だったのか物語っていた。一目で父だとは気づかなかったが、とにかく家族が元通りになることが嬉しかった。
父の変わり果てた人相に驚いたものの、ユリシーズは急いで食事を用意し、体を拭くためのお湯を何杯も沸かした。その間も父はどこか落ち着かない様子で、目だけが異様に血走っていた。
「お父さん、大丈夫? 体はどこも悪くない?」
おずおずと尋ねると、父は目をぎょろりと向けて肩をつかんできた。
「おい、ユリアは?」
「え?」
「ユリアはどこに行った!」
凄まじい剣幕にユリシーズは言葉を失った。何か悪さをしたときに父に怒鳴られたことはあっても、歯をむき出しにして声を荒げる人ではなかった。
「お、お母さんは……テューダー様のお屋敷に行ってる。お屋敷でちゃんと働けば、テューダー様がお父さんのことを許してくれるからって……」
声を震わせながら答えると、父は食事もとらずに農舎を飛び出していった。ユリシーズは父の後を追おうとしたがまったく追いつけず、日の沈みかけた田園で立ちつくすしかなかった。恐ろしいことが起きようとしている。まだ子どもだったユリシーズも嫌な予感を感じ取っていた。
厩舎を無人にするわけにもいかず、眠ることなく父の帰りを待ち続けた。分厚い雲が山の向こうからやってきて、夜が更けるにつれて本格的な秋雨が降ってきた。
どれほど待っていたのかわからないが、やがて遠くの方から人の足音が聞こえてきた。雨の音は激しかったが、気が張り詰めていたユリシーズはその足音に気づいた。
「誰だ?」
こちらに近づいてくる人間に問いかけるも、返事は聞こえなかった。雨が当たらない玄関先で松明を灯しているが、炎の光はまだその人間に届いていない。
固唾を飲んで待ち続けていると、ようやく松明の炎がその姿を照らす。帰ってきたのは母だった。
「お母さん!」
松明を壁の鉤に引っかけ、大急ぎで母のもとに駆け寄った。
ふらふらと歩いてきた母はずぶ濡れで、体はとても冷え切っていた。
「お母さん……お母さん? どうしたんだ?」
ユリシーズは母を抱きしめたが、母は何も反応せず呆然としていた。左の頬は赤く腫れあがり、目はうつろで、ひどいショックを受けている様子だった。
すぐに母を厩舎の中に入れて、干し草の上で濡れた髪や服を拭いてあげた。それでも母はなすがままで、まるで魂の抜けた人形のように座り込んでいた。
「お母さん、お父さんが今日帰ってきたんだ。だから……」
父のことを話したとたん、母はユリシーズの方に顔を向けた。母の顔は悲しみにあふれ、ぐったりと疲れ切っていて生気がない。あの美しかった母の面影はどこにもなく、まるで十年も年老いたかのようだ。
「ユリシーズ……ごめんなさい、お母さん、もう……」
「……え?」
「もう、ここから逃げましょう。私と、あなたで、ここではないどこかに……」
「ちょっ、ちょっと待ってくれよ。お父さんが帰ってきたんだよ。夕方、ここに帰ってきて、」
「お父さんは帰って来ないわ! もう、二度と!」
雨音を切り裂くような母の叫びだった。どうして母がそんなことを言うのかわからなかったが、もはや母は壊れる寸前で、その時は詳しく聞き出せなかった。
夜明けになり、ユリシーズは荷物をまとめて母と厩舎から出た。同じ農場の小作人たちには何も言わず、夜逃げ同然に農場から離れた。
領主の部下や警官が追いかけて来るかと思ったが、何事もなく町の駅に着いた。この駅から列車に乗れば、もう後戻りはできない。わずかにためらったが、抜け殻のようになっている母をこれ以上苦しめたくない。
こうしてユリシーズは母とともに故郷を捨て、ロンドンに向かうこととなった。
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