第3話 ~ 邂逅

「はぁ……はぁ……やった、やってやったぞ!」


 緊張のせいか汗がなかなか止まらなかったが、ユリシーズは歓喜に体を震わせていた。


 自分がやったとは思えないほど見事な出来だった。すべて計画通りに事が運び、誰にも接触することなく自室に戻ることができた。実行する前は不安が胸に渦巻いていたが、今は逆に、自分の行動は世界中の誰にも気づかれていないという達成感であふれている。


 ユリシーズはなんとか呼吸を整えてから天井を見上げた。脳の興奮が徐々に冷めて落ち着きを取り戻すと、テューダー卿の頭上にレンガを落とした瞬間を思い返した。


 できれば死んだところをしっかり確認したかったが、それは諦めるしかなかった。あそこで通りを見下ろしてしまうと、ホテルの上を見上げた通行人に、自分の姿が目撃される危険があった。


 しかし、ほぼ確実にレンガは当たっただろう。真上から見ていたユリシーズは、自分の落としたレンガが、テューダー卿の頭上を覆い隠す瞬間まで確認していた。


 もう一度大きく深呼吸して、まだ震えている自分の手を握りしめた。罪悪感はなかったが、初めての殺人に対する緊張はまだ解けていない。完全に平常心になるまで時間がかかるかもしれない。


 部屋には窓を叩く雨音だけが響いていたが、ほどなくして警官隊の足音と警笛が聞こえてきた。


 びくりと身を固めたが、すぐに笛の音は通り過ぎていく。なんということはない、と木を落ち着かせた。警官たちはレンガで頭を砕かれたテューダー卿のもとに、慌てて駆けつけようとしているのだろう。


 あくまでも現場は高級ホテルのある大通りだ。ユリシーズがいる建物はそこから隣に三軒分ずれて、さらに裏の通りにある。近所と言えなくもないが、ほとんど関わりのない建物どうしだ。


 当然、警察による捜査が何日も粘り強く行われたら、この場所まで行き着くかもしれない。しかしそうなっても問題はない。そうなった時のためにユリシーズはギプスを巻き、杖に頼った生活を演じ続け、店主や常連の客に「足の不自由な若者」という印象を与えてきた。


 改めて自分の成し遂げた計画が盤石であると実感し、ユリシーズは部屋を出た。いつまでも顔を出さなければ店主が不審に思うかもしれないと思ったためだ。


 倉庫を掃除して時間を適当につぶしてから、酒瓶の入った箱を小脇にかかえて酒場に戻った。先ほど来た客は帰ったようで、店の中は静かだった。


 店主はまだ不機嫌な顔をしていたが、ユリシーズが箱を持ってカウンターの中に入ると「それはこっちに置いておけ」と指示を出してきた。


 ユリシーズは言われた場所に木箱を置き、カウンターから出た。


「裏の掃除は終わったか?」


「あぁ、はい。ついさっき済ませました」


 昼間のうちに終わっていたが、さっきまで掃除していたと答えた。店主はユリシーズがさぼっていなかったと知り、満足そうにうなずいた。


「だったら良い。今日は客の入りが少ねえから、酒場の片づけが終わったら部屋に上がっていいぞ」


 それから店主はカウンターの中にあるイスに座り、客が置いていった号外の記事を読み始めた。ユリシーズが読んでいた記事と同じものだ。


 しばらく黙々と掃除を続けていると、店主があくびをしながら話しかけてきた。


「へぇ、例の女伯爵さまの馬がダービーで優勝したんだな。お前も読んだか?」


「ええ、まあ……」


「すげえもんだな、五馬身差の圧勝だとよ。よっぽど速い馬を連れてきたらしい」


 なるべく興味のなさそうなふりをして掃除を続けるが、その間も店主は気にせず話し続ける。


「あんな若い女が伯爵家を継ぐって聞いた時は、記者たちも面白おかしく記事を書いていたんだがな……へっ、『あらゆる分野で名采配を振るう女傑』だってよ。今にも女伯爵さまの靴の裏すら舐めそうな文章だな」


 そこで店主は新聞を置き、杖をつきながら掃除するユリシーズの背中を見た。


「つくづく残酷な業界だよな。こういう貴族さまのお抱え騎手になれたら、お前もダービーに出ることができたかもしれねぇのに」


 騎手時代のことを触れられた途端、拳に力が入った。ユリシーズは聞こえていないふりをしてテーブルを拭き続け、怒りを抑え込んだ。


 そこで店の扉が開いて、一人の紳士が入ってきた。ユリシーズはため息を吐き、掃除を中断して離れた。


「あぁ、いらっしゃい……といっても、その、もう店じまいで申し訳ないんですが」


 店主はそう言ったが、その若い紳士を邪険に扱わなかった。紳士の身なりは洗練されていて、一目で高貴な人物だということがわかる。下手に追い返せばどんな仕打ちを受けるかわからないので、店主の言葉はいつもより丁寧だ。


「そうか。では部屋は空いているか? 酒は飲めなくても良いが、宿泊場所がなくて困っていてね」


 そのまま紳士はカウンターの席に腰かけて、シルクハットを取った。つややかな黒髪がこぼれ、わずかなハーブの香りが店主の鼻をくすぐる。背は高く、目は切れ長で鼻筋も通っている。黙っていても女性が寄ってくるような美男だ。


「部屋は空いてますが、本当に良いんですかい? うちに貴族様が寝泊まりできるような部屋は……」


「構わない。ここは他の安宿より清潔そうだし、背に腹は代えられないからね。ついさっきロンドンに着いたんだが、ダービーが開催していたせいで高級ホテルはどこも満室だったんだ」


「それは災難でしたね……おい、なにをぼさっとしている。この人を最上階の部屋に案内してやれ」


 店主は酒場のすみにいたユリシーズを呼んだ。できれば貴族に関わりたくなかったが、ユリシーズはしぶしぶ掃除の手を止めて案内することにした。


「こちらへどうぞ」


「ああ、よろしく頼む」


 声をかけると紳士は微笑んだ。見た目に反して少年のように爽やかな声だ。


 カウンターの横にある扉を開け、先導して廊下を歩き始めた。上流階級を嫌っていることを悟られないために、なるべく紳士の方を見ないようにして階段を上る。


「その足で階段を上るなんて、大変そうだね」


「ええ、まあ……」


 同情の言葉を投げかけられても、ユリシーズは顔を合わせず生返事する。


 二人は最上階まで上った。奥の部屋の扉には『故障中』の札がかかっているので、もちろん別の部屋を開けて案内した。部屋のランプを灯すと、紳士は内装を見て感嘆した。


「ほう、すこし狭いがなかなかきれいな部屋だね。ここなら充分くつろげそうだ」


「朝になったらお湯と軽食を運ばせてもらいます。では、これで」


 今日は大仕事をやり遂げたので、できれば早く自室に戻って休みたい。そんな思いをこらえながら、ユリシーズは最後まで目立たぬよう振舞って退室しようとした。


「あ、ちょっと待ってくれ」


 部屋を出る前に紳士に呼び止められ、ユリシーズは振り返った。


「なにか?」


「窓のふちにクモがいる。すまないが外に放り出してくれないか」


「クモ?」


「ああ、クモだ。虫だけはどうも苦手でね……」


 顔がこわばっている紳士を見て、ユリシーズは小さくため息を吐いた。雰囲気こそ大人びているが、この若い紳士は虫すら触れないお坊ちゃまなのだろう。


 ユリシーズは紳士の脇を通り、部屋の奥にある窓に近づいた。


 雨粒が窓をうるさく叩いている。外はかなり暗くなっていて、裏通りの様子はまったくわからない。


「どこですか? クモなんてどこにも、」


 そこでユリシーズは窓ガラスを見た。ガラスに映っているのは外の景色ではなく、反射した部屋の中だ。


 背後に別の人間がいる。さっきの紳士ではなく、燃えるような赤毛の女がいる。


 すぐさま振り返ろうとしたが、後頭部に固いものを突きつけられて動けなくなった。おそらく拳銃だろう。


「……なんの真似ですか? あなたは?」


 窓ガラスに顔を向けたまま、ユリシーズは背後にいる女に問いかけた。ガラス越しに見える女の顔立ちはさっきの紳士と同じ顔だが、その表情は別人のように鋭く、甘さが消えている。


「なんの真似、か。それはこっちのセリフだよ、ユリシーズ・ハーディ」


 男にしては少し高いと思っていた声が、低調な、落ち着いた女の声に変わった。


「危うく死ぬところだった。ロンドンに着いたらどこかで仕掛けてくると思っていたが、ああいう手を使うとは予想外だったよ」


「こんな近くで、ヴェールをしていない貴婦人の顔を見るのは初めてです……ごきげんよう、テューダー卿」


 ユリシーズがその名を口にする。赤毛のロザリア・テューダーは笑みをこぼした。

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