第2話 ~ 暗殺計画

「ついにこの日が来た……やってやるぜ、テューダーの悪魔どもが」


 この日のために、耐え続けて生きてきた。


 とっくに完治している左足にギプスを巻き続け、以前の仕事をやめて、この酒場の雑用として働かせてもらった。泥水をすすり、地べたに頭をこすりつけて、店主に雇ってくれと言ったのも、のろまな怪我人を演じるのも、すべてはこの一日のため。


 ダービーが終わって一時間経った。読みが正しければ、観戦を終えた貴族たちは今夜にはホテルに戻ってくるはずだ。


 今一度その仮説を頭の中で唱え、ユリシーズはハンモックから降りた。


 先ほど置いた杖を取り、丸めた上着をタンスの奥から取りだす。廊下に人の足音がないことを確認してから、部屋を出て階段をさらに上っていった。


 この四階建てのビルは一階に大きな酒場があり、二階から最上階まで宿泊施設になっている。近所にある高級ホテルより見劣りするものの、ユリシーズの部屋以外は間取りが広く、内装も洗練されているため、中流階級の人間が主な客としてやってくる。


 ユリシーズは最上階のある部屋の前に着いた。この部屋は昨日から扉のノブがうまく動かなくなったことで、ノブに『故障中』の札がかかっている。


 これもユリシーズによる簡単な細工だ。反対側のノブをピアノ線で固定しておき、外側から開かないようにした。外からノブを握っても回らないが、扉の隙間に刃物を差し込んでピアノ線さえ切れば、また元通りにノブが回るという仕組みだ。


 用意していたナイフでピアノ線を切り、なるべく音を立てずに部屋に入った。この階はすべて空室だが、すぐ下の三階には何人かの客がいる。


 足跡を残さないために絨毯を避け、部屋の奥にある窓の近くまで進んだ。窓の向こうは狭い裏路地で、建物もすぐ近くに建っている。


 今日は都合よく夕立が降っていた。もし晴れていたら窓を開けて煙草を吸っている人間がいたかもしれないが、今はどの窓も閉まっている。


 ここでユリシーズは大きく深呼吸した。これから彼がやることは犯罪で、捕まってしまえば間違いなく絞首台に送られる。必死で考えた計画だが、もちろん自分はただの一市民だ。本や舞台に登場する名探偵などの手にかかれば、自分は一瞬で捕まる小悪党なのかもしれないと自覚している。


 それでも決心は固く、後戻りする気はなかった。ユリシーズは杖をベッドの下に隠し、丸めた上着を着て窓から身を乗り出すと、向かい側にある建物の屋根へ飛んだ。なんとか屋根に手が届き、歯を食いしばって腕の力で体を引き上げる。


 落ちたら一巻の終わりだったが、無事に屋根の上に登り切った。安堵の息を吐いて立ち上がり、雨が降るロンドンの街並みを見下ろした。


 雨粒とスモッグに覆われたロンドンを、おぼろげなガス灯が列をなして照らしている。世界で最も繁栄している帝国の都心は、どうしようもないほど陰鬱な絵画に見える。どれほど煌びやかでも、ユリシーズにとってここは廃墟のようなものだ。弟が亡くなった日に降っていた雨は今も止まず、ユリシーズの身と心を凍えさせている。


 ユリシーズはすべり落ちないように気をつけて、東側の建物の屋根を三軒分渡った。ロンドンの建物の間隔は非常に狭い。同じ通りに隣接している建物であれば、子どもでも飛び移ることができる距離だ。


 こうしてユリシーズは目標の場所までたどり着いた。彼が立つのはとある高級ホテルの屋根の上、あのロザリア・テューダー卿が宿泊しているホテルだった。


「大丈夫、大丈夫だ。絶対にうまくいく……見ていてくれ、母さん、ルーク」


 胸に手を当てて、ユリシーズは亡き家族の顔を思い浮かべる。


 テューダー家のせいで、自分の家族は故郷を追われた。ロンドンでの生活はとても苦しく、古い集合住宅で身を寄せ合って暮らしていたが、母と弟が相次いで病で亡くなった。肺を患った弟は医者の治療をろくに受けられず、苦しみながら息を引き取った。


 その頃には、すでに破滅的な思考に染まっていた。これまでの職を辞し、浮浪者に紛れて生活する時期もあった。からんできた人間がいれば動けなくなるまで杖で殴り、気に入らない人間の服や財布を奪い取って食いつなぐようになった。


 今夜の暗殺計画も、その破綻した倫理観の延長に過ぎない。テューダー卿がロンドンに来るというニュースを知った時、ユリシーズの腹は決まっていたのだ。


「……来た」


 石橋を越えて一台の馬車がやってきた。二頭の馬が雨をかき分け、美しい黒塗りの馬車を力強く引いている。


 あの馬車のデザインを忘れるはずがない。黒い車体にバラの金装飾、間違いなくテューダー家の馬車だ。


 屋根の上でユリシーズは一度しかない機会を待つ。誰にも気づかれず、確実に殺さなければならない。彼の手はあらかじめ剥がしておいたレンガに触れている。


 馬車が少しずつ速度を落とし、ホテルの前で停車した。話題に上がっているテューダー卿の馬車だと気づいた通行人たちが、足を止めて馬車の近くに集まり始める。


 先に御者が下りて、外から馬車の扉を開けた。ざわついていた通行人たちの注目が扉の奥へ集中する。


 扉の下にあるステップを踏んで、スリムな黒ドレスを着た女性が降りてきた。


 女性は黒い帽子をかぶり、野外活動に適したガウン型のドレスを着ているため、昼間を屋外で過ごしていたことがわかる。彼女が標的のロザリア・テューダー卿だ。


 今日のダービーの結果はロンドン中に報じられている。道行く者たちが続々と集まり、下車した彼女に向かってダービー制覇を祝福する。伯爵様、テューダー卿、という黄色い歓声がユリシーズの耳にも届いてきた。


 集まった者たちはテューダー卿に近づこうとしたが、御者や使用人が彼らを止めたことで、馬車からホテルまでの歩道を彼女ただ一人が歩いていく。


 その瞬間、ユリシーズは屋根のレンガを一気に落とした。いくつものレンガが真下の歩道に降り注ぎ、彼女に襲いかかった。


 凄まじい衝撃と悲鳴がこだまする。レンガにつぶされたテューダー卿を見たいという気持ちもあったが、ユリシーズは急いで顔を引っ込めてその場から離れた。


 あとは職場に戻るのみだ。三軒分の屋根を素早く渡り、開きっぱなしの窓に狙いを定めて飛んだ。窓の枠をつかみ、力を振り絞って窓の中に入った。


 なんとか無事に部屋に戻ることができたが、ここで休むわけにはいかない。ポケットに入れていたタオルで頭を拭き、雨に濡れた上着と一緒に路地へ捨てた。路地にはゴミが散乱しているので、上着とタオルが落ちていても不自然ではない。


 これでユリシーズが外にいた証拠はほとんどなくなった。ズボンは少し雨に濡れているが、水仕事で濡れてしまったと言えば誰も気にしないだろう。


 廊下に誰もいないことを確認してから部屋を出て、静かに階段を下りて二階の自分の部屋に戻った。カーテンを閉めて、壁によりかかり、ずるずると尻もちをつきながら大きく息を吐いた。

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