私の元へ死神がやってきた

神村 涼

私の元へ死神がやって来た

 「君の魂を私にくれないだろうか?」


 高校の制服を着た加賀凛かが りんの前で跪く彼は言った。これが二人で育んできた末のプロポーズだったら、メルヘンな気分にでもなっただろう。しかし、彼は凛の恋人でも無ければ、知り合いでも無い。


 「気持ち悪いんだけど」


 蔑む眼差しに冷徹な言葉。見ず知らずのオッサンを拒絶するには充分だ。


 「ってか、あんた一体誰?」


 興味本位。ただの暇つぶし。話のネタにでも、とその時は軽い気持ちだった。


 「私は鎌田尊かまたたける。君の死神になりたい」


 肌寒い風が通り過ぎる。彼の黒いコートは靡き、前髪が流れる。黒い髪に黒い瞳。唯一特徴的だったのは、目元に引っ繰り返った三日月の影を落とし、頬は少しやつれている所。見た感じ三十代のオッサンと言ったところか。これで鎌でも持っていればそれっぽい。


 「はっ? 死神? 訳分かんないんだけど」


 私は間抜けという言葉が当て嵌まる顔をつくる。対して、鎌田は至って真っ直ぐな視線を向けていた。


 「私は君に魅入ってしまった。君の絹のような黒い長髪に整った顔立ち。君の全て――魂すらも欲しい。だから、私は君だけの死神になりたい」


 出会いは最低、告白の言葉は意味不明。彼の戯言を怖いモノ見たさの考え無しで連絡先を交換した私が馬鹿だった。彼がただの変人、変質者だったらどんなに良かった事か。


 一年後――。


 私は高校を卒業した。希望であった大学は不合格。変りに地方の経済大学へと通う事になった。別に行きたいから、行ったと言う訳では無い。就職に有利、行って損は無い。そう周りが言うものだから、流れで通っている。大学ではいくつかのサークルに入り、何気に順風な生活を送っていた。

 

 念願だった一人暮らしにも慣れて、新しい友達も出来た。深夜まで恋バナで盛り上がり、講義へ遅れるなんて事もしばしばあった。まぁ、そこは声を大にする事は出来ないけれど、出欠表を友達に代筆して貰ったりして凌いだ。恋バナと言えばテニスサークルの先輩から告白されたのは嬉しかった。彼は少女漫画に出て来るぐらいのイケメンで、テニスが上手くて話も面白い。友達も沢山いる憧れの先輩だ。


 『私、初めて彼氏が出来たんだ。テニスサークルの先輩』

 『ああ。憧れの先輩だっけ。良かったね。今、幸せかい?』

 『とっても、幸せ』

 『君が幸せならそれが一番だ』


 SNSでのやり取り。相手は自称死神の鎌田さんだ。私の個人情報は載せてないサブアカウント。交換したのは当時の気まぐれで、暇つぶし程度の考えだった。面倒になったら、ブロックすれば良いだけの簡単な話。そんな事を知ってか知らずか、鎌田さんは突っ込んだ話題を振って来ない。今日は手の込んだ料理を作ったとか、雨の日に転んだなど他愛もない事ばかり。好意を持っている相手の事は、知りたがるのが普通じゃないの? 


 だから、私に彼氏が出来たと言えば、どうなるか気になった。まあ、実際出来たのだから嘘では無い。「私は君に魅入ってしまった」とか言いながら反応は微妙、画面越しの表情は分からない。分からないのはそれだけじゃない。彼が何の仕事をして、出身地とか年齢すら私は知らないし、興味も無いので聞いてすらない。実際に会ったのは、あの時だけ。何となくの連絡は不思議と今日まで続いている。


 四年後――。


 大学を卒業して就職の為に、私は地元へと帰って来た。生まれ育った街並みはどこか落ち着く。就職先は建設会社の事務職。特にやりたい事も無かった私は、出来るだけ実家の近くで志望先を探した。一応、一人娘だから今後の事も考えると親の近くにいたいと思うのは私だけ? まぁ、建前はそんな所で……実際は大学で色々あったのが原因だ。


 『最悪。「君だけだ」何て言っておいて、私の他にも数人彼女がいたし』

 『初めての彼氏だったのに、それは辛かったね。酷い奴がいたものだ』

 『でしょ? もう、男なんて信じらんない!』

 『それで君はどうしたの?』

 『皆の見ている前でビンタしてやったわ』

 『それは何とも痛そうだ』


 正直、その瞬間は霞んだ心が晴れて気持ちが良かった。ざまあみろって、こんな時に使うんだと感じた。ただ、問題だったのは彼の人気を侮っていた事にあった。その翌日から、[彼の囲い]から陰湿な嫌がらせが始まった。私の事を「高飛車な女」「腹黒」「ビッチ」などある事、ない事を言い触らされた。何で私が悪者になるわけ? 全然意味が分からないんだけど。


 『ね? くだらないと思わない?』

 『確かにね。実際、社会に出てもそういうのはある。本当くだらないと思うよ』


 ある日、友達と帰路についていた時、パリピな男達が私達を囲んで言い寄って来た。「凛ちゃんってさ、3Kでヤらせてくれるんだって? そこの友達もイケちゃったり?」卑しい視線を向ける彼らには恐怖しか感じなかった。ただの冗談だったのか分からないけれど、私達は必死に逃げた。友達も怖かったのだろう。その日から段々と、私との距離は離れて行った。どうやら親友だと思っていたのは、私だけだったみたい……。


 『もう、大学をやめて実家に帰りたい』

 『君がそうしたいならすれば良い。でも、君がくだらないと言った人達に、屈する事が嫌では無いのかい?』

 『くやしいよ。何で私がって思う』

 『そう思えるなら君は、大丈夫。君の死神が言うんだ間違いは無い。まだ、立ち上がれる筈さ』

 『なにそれ、意味わかんないし。それに君じゃ無くて加賀凛だよ』

 『そうか。今度から加賀さんと呼ぶ事にするよ』


 不満の捌け口であった鎌田さんのお陰で、私は屈する事無く卒業するに至った。卒業までの間、辛くなかったかと言えば嘘になる。遊ぶ相手がいないお陰で、単位は早い段階で取る事が出来たから、最後の方は嫌な大学へ殆ど行かなくて良かった。在学中にはカフェでアルバイトをしていたから、空いた時間をシフトへと割り振った。もう、このカフェで働こうかな。何て事も考えたが、大学の近くだった事もあり憚られた。ともあれ、折角地元に帰って来た訳だし、お礼の意味を込めて鎌田さんに会ってみても良いかも。


 『就職先が決まって、地元に戻って来たよ』

 『十数件不採用だったのに、良く諦めずに頑張ったね。おめでとう』

 『お祝いしてくれないの?』

 『したい気持ちはあるけど、仕事で海外に出張中なんだ。戻れるのはいつになるか分からない』

 『へー、そんな事聞いて無いんだけど?』

 『聞かれてないからね。ちょっと、待って写真送るから』


 送られて来た写真は風景写真。有名なベルリンの壁。天気は晴れで青空が映っていた。今の日本は午後六時頃……ドイツとの時差は大体七時間だから、あちらは午前十一頃って所ね。まあ、情景的には相違なさそう。って、何やってるんだろ私。ネットで時差や天気まで調べちゃったりして、馬鹿みたい。


 『ただの観光じゃん。しかも本人写って無いし、何の証拠にもなんないし。実は奥さんとの新婚旅行中だったりして』

 『そんな相手いないよって言っても、加賀さんは痛い目に遭っているんだったね。信用出来ないのも当然さ。それに私は死神だよ? 写真には写らないよ』

 『ふーん。ま、どうでも良いけど』


 六年後――。


 仕事場は男性の比率が圧倒的に多かった。それゆえに女性社員の存在は貴重で、神輿に担がれている感覚すらあった。仕事も人並みに覚え、大きな失敗も無かった。


 ある日、三つ年上の男性に声を掛けられた。「時間がある時に、ご飯でもどう?」彼は私の所属する部署の次期部長候補で、有名大学を卒業している。年収もそれなりにあるであろうと推測するのは簡単だ。社内に若い女性が少ない為、そもそもの競争相手がいないのも好条件だった。私が断る理由なんて――見当たらない。


 『今度、上司がご飯に行こうって誘ってくれたの』

 『男性が信じられないのは克服できたのかい?』

 『分からない。でも、仕事振りは真面目で人柄も謙虚。数年一緒に仕事したけど嫌な圧力は無いかな』

 『良い人そうじゃ無いか』

 『何でそうなるのよ?』

 『何がだい?』

 『もういい、知らない』


 夜景の見えるホテル。その中の三ツ星レストランで上司とディナー中だ。料理、場所共に上司が予約してくれた。煌びやかな照明に照らされて、お互いの手に持つワイングラスの妖しい色が眩く。私の不慣れなテーブルマナーに嫌な顔一つ見せない。美味しく食べれたら良いさと、大らかな所が好印象だった。


 それから何度目かの休日に、上司の車で遠出した。有名なテーマパークで、はしゃぐ彼を私は微笑ましく眺めていた。大学時代に出会った大人の様な子供では無い。少年の心を持った大人に出逢えた事で私の心を色づかせる。帰りの車内。車は夜景の見える場所へ止まっていた。蝋燭が揺らめく様な煌々とした街並みを見下ろす。「俺と付き合って欲しい。結婚を前提に」彼は熱い眼差しを向けて来た。私が彼を拒否する理由は――特に無い。二人の影は近づくと重なり合った。


 『ねぇ、何で連絡くれないわけ?』

 『君が、もういいと言ったじゃ無いか』

 『私、結婚を前提に付き合う事になったんだよ?』

 『それはおめでとう、と言うべきか。加賀さんが幸せならそれで良いさ』

 『そうじゃないじゃん』

 『何か気に入らない事でも?』


 私はスマホを自室のベットへ投げつける。気に入らない、気に入らない、気に入らない。「君の全て――魂すらも欲しい」その気恥ずかしい言葉を何で今、掛けてくれないの? 私に好意が無くなったから? やり取りを始めて十数年が経っても、変わらずに私のメッセージに返信してくれる。これがもし好意以外の何かであるなら相当な変人で変態だ。小学生が成人式を迎える程の時間を、虚無へと放り投げる暇人だけだ。そう顔も見えないスマホへと罵る。


 当然、その感情は私自身にも向けていた。自分の捻くれた心、素直になれない事へ苛立っていた。何となくで始めたやり取り。ただの暇つぶしで気まぐれ。あなたの事が大切、大事で始めた訳じゃ無い。そんな昔のしがらみが、今の私を戒める。『あなたの声が聴きたい』その文字が打てない。『あなたに逢いたい』その想いが伝えられない。前に勇気を出して逢いたいを濁した時、あなたは「海外に行っているから」そう言った日の事を私は良く覚えている。何となく検索した画像集。あなたの送ってくれた写真と、同じカットを見つけた。写り込んだ人数や服装、雲の位置まで一緒。あれはネットの海で拾った写真で、本当は海外なんか行っていないんでしょ? 鎌田さんが私に初めての拒絶を示した瞬間だ。忘れる訳が無い、踏み込める筈が無い。私に嘘をついてまで、会いたくない理由を教えてよ。それを私が聞いた後でも、あなたは私と変わらず連絡を取ってくれる? 私の心は……ひび割れて崩れ出そうとしていた。


 『あいたい』

 『まだ、海外にいるんだ。すまない』

 『いないのしってる。しゃしんパクったんでしょ?』

 『悪気があった訳じゃ無いが、不快にさせたのなら謝る。流石に今すぐと言うのは難しい』

 『いつならいい?』

 『本当に会いたいのかい? 私はあれから随分変ってしまったが?

 『どうしてもあいたい』

 ……ピロン。

 『○月×日の十八時。君と初めてあった場所でどうだい?』

 『わかった。ぜったいだから』

 『もちろん楽しみにしている。きっと、大人っぽく綺麗になったんだろうね』


 文字を打つ度にスマホへ頬を伝う雫が落ちる。もう、連絡が取れなくなるかも。そう、想像しただけで半身が裂かれる痛みを募らせる。SNSの通知音が鳴る度に胸が針に刺される感覚があった。でも、鎌田さんは渋りながらも、私の願いを聞いてくれた。ダメ元で伝えた想い。会う事を拒絶した彼が、許容してくれた事に嬉しさと驚きが入り混じる。○月×日の△時。スマホのカレンダーに記入して自然と頬が綻んだ。


 翌日、仕事終わりに上司を呼び出した。「この間の返事をしていなかった」と切り出した。上司は豆鉄砲を喰らった鳥の様だった。それもその筈で、私達はある程度の大人。あの流れで口づけを許可したら、言葉で伝えなくても暗黙の了解というもの。私は白々しくも言葉けじめを建前に「考えさせて欲しい」そう伝えたのだ。訝しむ上司だったが、そこは大人の対応と言うべきか。潔く頷くのにそう時間は掛からなかった。


 ○月×日の十八時――。


 約束の日。私は会社の半日休暇を使用して、記憶に鮮明な思い出の場所へ足を運んだ。腕時計を確認すると待ち合わせ時間より、二時間も早く着いてしまった。季節はあの頃と同じ春前。部活帰りの高校生達が帰路に着く。当時の私も丁度、あの年頃だったなと感慨に耽る。鎌田さんの意味の分からない言葉は、今思い出しても変質者以外の何者でもないと微笑を浮かべた。夕方近くになると日も落ちて、口から白い吐息が漏れる。記憶を掘り出していると、時間はあっという間に針を進めていた。時刻は十九時を指そうとしている。


 『着いたけど? 場所分かる?』

 『一応、地図送っておくから』

 『遅れそう? 何かあったの?』

 ……。

 ……。

 ……。

 『連絡くらいしてよ』


 結局、二十二時に針が回っても連絡は愚か、それらしい人が通る事は無かった。私の手足の先は悴んで感覚を鈍らせ、鼻水をだらしなく流す。バッチリと決めた筈の化粧は見る影を失って、目元からはアイメイクの濁流が流れる。その見てくれを気にする事無く、啜り泣き重い足取りで家路に着いた。通行人が見ていたなら、さながらホラーで良くある[泣く女]というフレーズが、ピタリと合った事だろう。


 玄関へ入った瞬間、声を憚らずに泣いた。化粧を落とし浴槽の中でも泣いた。髪を乾かす最中も、自棄になって酒を煽った瞬間も、枕に顔を埋めた時も泣いた。全米よりも泣いた筈だ。それから数日経っても、鎌田さんから連絡が返って来る事は無かった。


 私は全てに失望し、気力も尽き何も手に付かなかった。有休を無駄に消化して家に引き籠ったのだ。顔を突き合わせてはいないけれど、誰よりも信頼していた人に騙された。その事が私に牙を向けてくる。他の人は大丈夫か? 言い寄って来た上司は? どうせ、口先だけ腹の中なんて見えやしない。どろどろの感情が私を包み、堕ちて行くのを手伝ってくれる。


 そんな私を僅かに引き留めたのは、その上司から連絡だった。「大丈夫か? もしかして、俺が原因だったか?」有能そうにみえて、的外れな内容に少し表情が和らいぐ。「大丈夫です。休んだら戻りますから」と手短に返した。


 鎌田さんは私を弄んでいたという結論へ、無理やり結び付けるのに結構な時間が掛かった。本当は事故や事件に、巻き込まれたんじゃ無いか? とニュースを漁ったり。電波が悪くて届いていなかったのでは無いか? と再送してみたり。私の知るあなたは無下にする様な人では無いと信じたくて堪らなかった。そんな泥沼の迷宮へと誘われてしまうのを防ぐ為には必要だった。本当の所は奥さんがいて、子供もいて、若い娘に会おうとしていた事がバレたんだ。そう思い込もうとした時だった。


 ――ピロン!

 『あなたは加賀さん?』


 白々しいメッセージに言葉も出ない。いや、言葉なら堰を切ったように出るけれど、最初の一言を絞るのに時間が掛かる。


 『今更何の用?』

 『あなたに御話しがあります』

 『言い訳でもする気?』

 『言い訳と言いますか、説明と言いますか』


 鎌田さんのメッセージに私は違和感を覚える。どこか他人行儀の文章は知らない誰かを想像させる。


 『あなた誰? 鎌田尊かまたたけるさん?』

 『いいえ。私は鎌田楓かまたかえでというものです。長くなりますので会って御話し出来ればと思います』


 ○月××日の十時――。


 鎌田楓かまたかえでさんと約束したカフェに私は赴いた。カフェは私の家から四駅離れた所で、近くには総合病院と商店街がある。メッセージでは長くなるらしく、細かい事情は聴いていない。鎌田の姓が同じという事は良くて親戚、悪ければ妻又は娘と言う事になるのだろうか。向かう足取りは足枷を、着けたみたいに重くなる。考えようによっては不倫的な事に、なるのだろうかと頭を過る。だが、実際に会った訳でも無い。ただ、ひたすらにSNSを続けただけ。それだけで裁判に巻き込まれるなど無いだろう、と結論を急かすも拭い切れない不安が押し寄せる。実際に話を聞くまでは、そうであると決まった訳でも無い。


 楓さんは『もう店の中にいます』というメッセージを元に周囲を見渡すと、奥の席で手招きしているご婦人の姿があった。間違いだったら恥ずかしいと思いながらも恐々と声を掛ける。


 「あの……鎌田さんでしょうか?」


 そうですと頷く楓さんは、上品な笑みを浮かべていた。髪の毛はしっかりと黒染めしているが、肌年齢を誤魔化すには少し厳しい。五十代くらいだろう貫禄がある。話をする前に注文をする事になった。私はコーヒーを楓さんはミルクティーを注文し自己紹介が始まる。


 「まずは遠い所ありがとう。改めて、私は鎌田楓で尊の姉です」


 姉という言葉を聞いて胸を撫でおろす。これが妻とか娘は年齢的に無いけど、その方面であれば面倒事なのは必死だと思っていた。まぁ、姉というだけでも並々ならない事情がありそうなんだけど。私も楓さんに倣って自己紹介をした。


 「凛さんというのね。良い響きの名前ね。尊が好きそうな子だ事」


 目を細める楓さんは懐かしむような顔を向けて来る。私の背後に鎌田さんがいるのかと振り返るが当然誰も居ない。というか、話があるなら鎌田さん本人が話すべきであって、お姉さんが口を挟む事では無いと胸の内から湧き出る苛立ちが顔を覗かせる。


 「ありがとうございます。早速ですが、私はどうして呼ばれたのでしょうか? 鎌田さん……尊さんはどこに?」


 困惑する楓さん。言い淀む素振りを見せるが目に力を込める。


 「尊は……ここには来れないわ。遂先日、○月〇日の深夜に急に倒れてね。今は病院のベッドの上よ」


 えっ――。辺りの時間は止まり、私の頭の中が白で染まる。○月〇日。私と鎌田さんが会う日の前日だった。


 「元々、心不全で入退院を繰り返していてね。何とか一命を取り留めたけど、今回は、お医者様も首を横に振るばかりで……。私が尊の私物を病室に運んでいた時に、尊のカバンから携帯電話の鳴る音が聞こえてねぇ」


 尊さんはもう長くない? 連絡をくれなかったのはそのせい。それから楓さんは私と尊さんのやり取りを見つけたそうだ。家族でも自分の交友関係を覗き見るのは如何なものかと思うが、稀に見ず知らずの人が「故人に金を貸したから返して欲しい」等という輩が現れる事もある。楓さんは自衛の為に歯軋りをする思いで、その行為に臨んだのだろう。


 「もう、十三年ほど前の事になるかしら」


 それから、楓さんの昔話が始まった。私と出会う少し前、尊さんは商社マンとして営業業務に勤しんでいたそうだ。業績も良く社内で表彰された事もあるんだとか。それゆえに多忙で、段々と痩せ細っていった。尊さんの家族は働き過ぎだと、心配していたが時すでに遅く心不全で倒れてしまった。次第に生気も根気も、失っていく姿は見ていられなかったそうだ。そんなある日、尊さんは病気になる前の元気な表情を家族へ見せた。そう、私が尊さんと出会った日の事だ。それからの彼は精力的に活動し、勤めていた商社の営業職を辞め、事務方へと異動した。治療にも前向きに取り組んだ。


 そう上手く行かないのが現実だった。家族も本人も体調管理には気を付けていた筈だったのに、また尊さんは倒れた。入退院を繰り返す度、尊さんは段階を追って弱っていった。ただ、彼は直向きに自身の病と向き合い、決して諦める事はしなかったそうだ。


 「尊が倒れる日。新しいスーツを新調して帰って来たわ。私が何かあるの? そう尋ねると「明日、大切な約束があるんだ」と屈託の無い笑顔で言ったの。それを貴方には知っていて欲しかった」


 楓さんの話を黙って聞いていた私の目からは涙が溢れ出す。決壊どころの騒ぎでは無い。防壁自体が存在しない。子供が泣きじゃくるように。それを見かねた楓さんは私の隣へ席を移り、優しく背中を擦ってくれる。


 「尊さんに会わせて下さい」


 落ち着きを取り戻した私は楓さんの顔を見る。


 「元々、そのつもりだけれど……尊の姿は以前とは大分変ってしまっているわ。それでも加賀さんは立っていられる?」

 「大丈夫です」


 私は楓さんに連れられて尊さんのいる総合病院へと向かった。尊さんには言いたい事が山の様に積み上がっている。どうして、病気の事を伝えてくれ無かったのか。何で最初に会ってくれ無かったのか。止め処ない想いが溢れ、自分が今歩いている事さえ意識の外だった。


 「着いたわ。私が居るとあれだから」


 そう言い残して楓さんは去って行った。私は楓さんの背に礼をする。病室の前に立ち深呼吸をする。この中に尊さんが居る。どんな姿だろうが私は膝を折ったりはしないと決意を固めノブに手を掛けた。


 開かれる病室。薄いカーテンの奥には上体を起こした人影が写る。私はゆっくりと歩を進め、カーテンを開けた。


 そこには以前より頬がこけていたが、見知った顔があった。衣服から覗かせる手は骨張り、そこから伸びる腕は皮が張り付いたように細かった。


 「私が分かりますか?」


 彼は目から涙を流し、細く痩せた手で私の手を掴む。


 「ああ、ああ。もちろんだ。あの時の君と何ら変わりは無い。あの日行けなくて……すまない。君の心を傷つけてしまった。そんなつもりは無かった。本当にすまない事をした」


 ひたすらに謝り続ける彼を強く抱きしめた。病室に入る前に考えていた事なんて、全部どうでも良い。ただ、彼がここにいる。それだけで私の心は満たされた。


 それから私は有休を最大まで消化して尊さんの世話をした。「そんな事をしなくても良い」と彼は拒否したが、そんな言葉聞いてあげない。今度は私があなたを振り回す番だと言わんばかりに。尊さんと私は今まで聞いてこなかった事、知らなかった事を沢山話した。誕生日や出身地、どんな物が好きか嫌いかなんて他愛もない事を話した。「その姿は本当に死神みたいね」って冗談を言える位には会話は弾んだ。


 しばらくして、楽しい時間は終わりを告げる。尊さんは安らかな顔のまま、この世を去ったのだ。楓さんの好意で彼の最後に同席させてくれた事には感謝しかない。通夜と葬儀にも参加させてもらった。


 私は日を改めて、彼の墓前の前に立つ。結局、彼が私の事をどう思っていたのか確認はしていない。私と彼の関係は曖昧で一言で表せる言葉はあるのだろうか。恋や愛なのか何て分からない。友達や恋人。どれも薄味でしっくりとこない。ただ、唯一確かな事は彼が私にとって人生の一部になっていたという事だ。


 聞き覚えのある車の音、遠くから手を挙げて私を呼ぶ見慣れた男性の声。どうやら、迎えが来たようだ。私は最後まで、あなたに言えなかった言葉を口にする。


 「私の魂は貴方にあげる」


 あなたは私だけの死神。その鎌で魂を刈り取る日が来るのを、私は心待ちにしています。

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私の元へ死神がやってきた 神村 涼 @kamira09

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