スピンオフ
ファジー・ネーブル
<CAST>
ナレーション(『俺』と同一人物):
俺(中年男性):
桜木 優(20〜21歳):
マスター(40代):
<台本>
*バー『Something』
ナレーション:
月に1度だけ、定時か、ちょっと過ぎた頃に上がってもいいと、俺が自分で決めている日があった。
金曜日に限らず、だ。
もちろん、ゴールデンウィークのように連休の多い月や残業シーズン、月末などの仕事が
そんなにバリバリ仕事をこなすわけでもなく、大きなお金を動かすような仕事をしているわけではないが、これでも働いている。ささやかな楽しみがあってもいいだろう。
新宿。会社の近くにある小さなバーというか、ジャズ・バー? ジャズ・スポット? というのか、とにかく、最近はそこによく行く。
別に、ジャズは詳しくない。演奏を聴きに行きたいわけでもない。そのバーでも演奏のない静かな日を狙って行っている。
チョイ悪に見えるが、目はやさしい。
カクテルの定義である「酒+something」とは、「酒に何かを加えて創作した飲み物」という意味だそうだ。その「何か」から取って、店の名前を『Something』にしたのだと、マスターは話してくれた。
気さくに、仕事の
カクテルは時々
彼になら、俺の秘密を打ち明けてもいいと、早い時点で思えた。
というより、早い時点で打ち明けたかった。
俺は、甘い飲み物が好きなのだ。
それも、フルーティーなヤツが!
だから、このバー『Something』に来ると、必ずカウンター席に座り、マスターだけにこっそり注文する。
マスターもわかっていて、「いつものですか?」って聞いてきてくれたりして。
会社の飲み会で女の子たちと一緒になると、とても困る。俺の注文する酒が可愛らしいとかでからかわれるのがイヤで、いつもビールでごまかしている。
酒もあんまり強くないから、そう何杯も飲めない。1杯でも貴重なのに、ダミーの酒を頼まなくてはならないのだ。
「二次会は、若い人だけで行っておいで」と
そんな時にも『Something』に寄ることもある。演奏が入っている日であっても。
ここでは、プロのジャズ・ミュージシャンも演奏すれば、アマチュアや学生たちが演奏することもあった。
たまに、運悪く学生がやってる日に
今日はプレミアムウェンズデー。定時ちょっと過ぎに退社してきたから、勝手にそう名付けた。
演奏も入ってないのは、店のSNSでチェック済みだ。
静かにカウンターで飲めることを期待して、店のドアを開ける。
優:
「いらっしゃいませ」
ナレーション:
カウンターのバイトの子が
俺がカウンターに座ると、おしぼりを出す。
メニューを見るふりをしてみたところで、飲みたいものは決まっていた。
だが、マスターがいない。
優:
「マスターは今、電話がかかってきてしまって
ナレーション:
なんだと!?
俺の秘密を知る者は、マスターだけだったのに!
カウンターの中にいるのは、このバイトの子1人だけだ。
背が高くて、やさしい顔立ち、人好きのする
なんかモテそう。俺とは大違いで。
こんなヤツに、俺のお気に入りである、フルーティーで甘い物なんかを頼んだら、鼻で笑われるに決まってる!
おっさんに失礼な若者は、会社でも何人も見て来た。
手持ち
優:
「あの、マスターの電話が長引きそうなので、
ナレーション:
意外なことをバイトくんが言ってきた。
俺:
「え? 俺の『いつもの』が、わかるの?」
優:
「はい。こちらでよろしかったでしょうか?」
ナレーション:
彼が指差したメニューの文字は、間違いなく『いつもの』だ。
優:
「マスターが作ってるのを見ていたので」
ナレーション:
にっこりと、まだ学生らしきバイトくんが
この若いバイトの子で、大丈夫だろうか? という気もするが、とりあえずは笑われなかったことにホッとした。
俺:
「じゃあ、きみに頼もうかな」
優:
「はい。ありがとうございます!」
ナレーション:
バイトくんは、ロックグラスに氷を入れて、リキュールをメジャーカップで計ってから入れた。そこに、オレンジジュースを注いだ。
そして、白く長い指で、ねじれた
優:
「ファジーネーブルになります」
ナレーション:
そうそう、これこれ!
飲み会では頼むわけにはいかない酒だ!
いや、頼んでもいいんだが、自分で勝手に恥ずかしがっているせいで、知り合いがいるところでは飲んだことがない。
桃のリキュールにオレンジジュースで、濃い甘さに
オレンジジュースも桃も、子供の頃から好きだった。今でも、駅ナカにあるフレッシュジュースの店ではオレンジジュースを頼んでしまうのだ。
優:
「あの、またしても差し出がましいようですが、2杯目は、こちらを少しだけアレンジしたものを、お作りしてみましょうか? お代は結構ですので」
ナレーション:
そう話しかけてきたバイトくんを、思わず
普段なら、ファジー・ネーブル・オンリーだが、代金はいらないってことなら頼んでみようか。
ファジー・ネーブルの材料をグラスに入れ始める。
それにしても、彼は楽しそうだ。カクテルを作るのが、そんなに楽しいのか?
スプーンで
優:
「ファジー・ネーブルに、少し炭酸とレモン果汁を加えてみました」
ナレーション:
スライスしたネーブルがグラスの
グラスを近付けると、爽やかなオレンジの香りが強まり、桃の香りに癒され、それから口に流し込む。
俺:
「なるほど。これも美味いな」
優:
「ありがとうございます。もっと炭酸を入れても良かったのですが、そうすると甘い印象が薄れてしまうので、お好みに合わないかと思いまして」
ナレーション:
どうやら、俺がいつも頼んでいるのを見ていて、彼なりに
目の前にいる青いシャツに黒エプロンの彼に、
俺:
「まだ学生さんだよね?」
優:
「あ、はい」
俺:
「きみは、どんなカクテルが好きなの?」
優:
「まだ二十歳になったばかりなので、そんなに多くは飲めてませんが、ジントニックは好きです。それから、……以前、マスターが作ってくれたドライ・マンハッタンは、
ナレーション:
ドライ・マンハッタン——ドライと聞くだけで、俺のような甘党には
マスター:
「ごめん、ごめん、電話が長引いちゃって」
ナレーション:
マスターが戻って来た。
マスター:
「いらっしゃいませ。お待たせしてすみません」
俺:
「いやいや、彼に美味しいもの作ってもらってたから大丈夫」
ナレーション:
マスターは、彼からざっと説明を聞くと、わかったと言い、今はお客さんも少ないし、ここはいいからピアノを弾いてこいとか何とか、バイトくんに言っていた。
カウンターとは反対側の
そこにあるグランドピアノの
何の曲かはわからないが、ゆったりした、なんとも
そして、カクテルを作っていた時のように、楽しそうな表情をしているのが、横顔からでもわかった。
俺:
「ピアノも上手いんだね、彼」
マスター:
「ああ、音大生なんですよ」
俺:
「音大生が、こんなところでバイトしてんの?」
ナレーション:
驚いた俺の顔を見て、マスターが笑った。
マスター:
「まだ迷いはあるみたいですけれどね、多分、良いバーテンダーになるんじゃないですかね」
俺:
「ああ、それは、俺も、なんとなくわかる気がするよ」
ナレーション:
マスターが微笑みながら言った。
マスター:
「桜木優。お見知り置きを」
※参考までに(読まなくてもOK)
【ファジー・ネーブル】5〜8度
※氷を入れたグラスに直接作る。
ピーチ・リキュール 1/3
オレンジジュース 2/3
1/2ずつというレシピもあるが、かなり甘口。
割合はお好みで。
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