ロシアマネ
最後のキーを押して、私の今日の分の仕事は終わった。PCを抱え、仕事場を後にする。衛星V78が、青い斑点を見せながらゆっくりとこの星の周りを回っているのを少しの間眺め、駐車場に向かった。ふと、ロシアマネの香りが鼻腔を掠めた。ロシアマネは南極に咲く白い花だ。実物はまだ見たことがないが、液晶画面を通して嗅いだことがある。この花をいつかこの目で見ることが、私の目標だった。なぜ、今香ったのだろう。私は周囲を見回した。少年が駆けていくのが見えたが、彼が香水をつけていたのだろうか。……まぁ、いい。まだ見ぬ南極に、私の求めるものがきっとある。今の仕事をして資金を貯めたら、渡航するつもりだった。
東暦4003年現在、あらゆる知的生命体はその権利を保護され、例外なく不死を実現していた。生命の生死と輪廻のシステムが解明され、魂のみを生体から抽出し、電脳世界に移譲する技術が発明された。つまり、肉体の軛から生命体は「解放」された。多くの生命体は同意の元、電脳世界に引っ越していき、数少ない知的生命体がシステム維持のため、惑星上に残った。私もまた、電脳世界のA区域に存在している。ここは楽園と呼ばれていた。私はここで空の模様を毎日デザインする仕事をしている。明日は雨にした。電子の雨は生き物たちの表皮を「塗らし」、地表へと流れていく。
全てプログラムされた世界は、しかし苦痛が残された。それなしには、よりよい未来への志向が生まれないからだ。苦痛はアバター保持のための大事な反応だ。このことについて賛否両論はあったが、苦痛をプログラムしなかった実験地区では、暴力がはびこった。苦痛から逃れるために創造された電脳世界だったが、苦痛こそが生命を生命たらしめると皮肉にも証明されたのだ。
夜が迫ってきた。私はバーに行こうと、外套の襟を立てて夕闇の街を歩いた。またロシアマネの香りがした。私は電脳世界からログアウトした。あまりにも強い香りに、肉体に直接反応があったのではないかと思ったからだ。私は肉体に対する名残惜しさから、世界をプログラムする側に回り、現実世界と電脳世界を行き来していた。肉体を手放すには、私は制限ある人生を愛してしまっていた。重力が体全体を覆う。扉から離れ、一日ぶりの体の感覚を確かめた。ほっと息を吐き、ふと胸元を見ると、なんとそこにはロシアマネが一輪差されてあった。全く記憶にない。胸ポケットからそれを抜き、まじまじと眺める。いつ、どこで誰がこれをしたのか。私は、常々考えていた疑惑を思わざるを得なかった。この現実世界も、誰かの創造した電脳世界なのではないか。何かの制約で私たちはそのことを忘れてしまい、取り残されているが、解明された輪廻でさえ、そのシステムにすぎないのではないかと。ロシアマネを差したのは、システム保守をしている生命体のいたずらなのではないかととっさに思った私を、誰が否定できるだろう。
私は明日、南極へ旅立つ決心をした。そこへ行けということだと受け取った。ロシアマネは私の手の中で、航海地図のように凛としていた。
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