花の小説集

はる

スミレ

 毎日が灰色だった。何を食べても美味しくない。何を見ても愛を感じない。テレビは連日暗いニュースを流し、窓の外は曇っていた。庭にはドクダミが溢れんばかりに咲いており、母親は何度も朝飯を要求した。私はしがないフリーターで、正直収入は少なく、孤独を忘れさせてくれる刺激に使う金もなかった。せいぜい週に一度、近くの美術館に通うことが、私の数少ない楽しみの一つだった。

 街角に立ち、チラシを配る。日雇いの仕事は楽でいい。私は愛想笑いを浮かべて、道行く人にチラシを渡した。私の前で立ち止まる者がいる。私はその人間の顔を見た。美しい女性だった。

「こんにちは」

 彼女は言った。

「こんにちは。何かご用ですか?」

「貴方と話がしてみたかったの」

 手に紙を握らされる。

「よければ、仕事終わりにここに来て」

 私が困惑している間に、彼女は姿を消した。私は掌の中を見た。隣の通りのレストランの名前が書いてあった。私は逡巡した。騙されるかもしれない。でも、彼女の目は真剣だった。行ってみよう。私は紙切れをポケットにしまった。


 レストランは落ち着いた雰囲気のいいところだった。

「突然声をかけてごめんなさい。驚いたでしょう」

「いいや。綺麗な人だなと思いましたけど」

 女性は頬を赤らめてはにかんだ。

「ありがとう。貴方も素敵よ」

 私は正直なところ、そこまで身なりには気を使っていなかったから、なぜ女性がそう言うのか分からなかった。しかしまぁここは嬉しく受け取っておこう。

「それにしても、どうして僕を誘ってくれたんです?」

 すると彼女ははにかんだ。

「昔愛した人にそっくりだったから」

 そう言い、髪をかきあげる。美しいブロンドの上で、光の輪が踊った。

「素敵な人だったわ」

「僕はそんな人ではないですよ。……日雇いの身だし、特技もない」

「優しければ、人間それでいいのだと思っているわ。私の名前はアンシー。アンシー・マクレガーです。どうぞよろしく」

 伸ばされた手を、少し躊躇ってから握った。

「僕はジョン・ケストナー。こんな綺麗な人と知り合えて……光栄です」

「ありがとう」

 おどけたように肩をあげる。明るい人だ。

「ところで……右手。側面に炭のようなものがついているけれど、絵を描くのが好きなの?」

 言われて気がつく。朝少し慌てていて、手を洗うのを忘れていたのだ。

「そうなんです。恥ずかしいな。取るのを忘れていた」

 女性はにっこりと笑った。

「あなたの絵、見てみたいわ」

 どきりとした。鞄にスケッチブックが入っている。それを出し、彼女に差し出すと、きらきらした目でそれを繰り、時々手を止めて眺めていた。

「素敵な絵。それにとても上手で、特徴が分かりやすいわ。このコスモスなんて、とても可愛らしく描けている。買いたいわ。いくらなの?」

 私は驚いた。

「そんな。想定してなかった」

 彼女は声をたてて笑った。

「御冗談でしょう。これはプロの絵よ……深い愛を感じる」

 初対面の彼女は、愛おしそうに絵を撫でている。どうしてか、懐かしい記憶が蘇った。こんなふうに、私の絵を愛してくれた学生時代の友人の、慈しむような横顔を。彼は元気だろうか。

「あの、そんなに気に入っていただけたのなら、差し上げます」

「だめよ。……はい」

 何か紙の束のようなものを取り出し、そこにさらさらと書きつけて、一枚渡される。よく見るとそれは小切手だった。しかも、相当な額だ。

「こんなに!」

「受け取ってほしいの。この絵にはこれだけの価値がある」

 彼女の目は真剣だった。断ることを許されない空気を感じ、私はおずおずと懐にしまった。

「……ありがとう。これで少し余裕ができた」

「あなたはプロの画家になるべきだわ。趣味で終わらせるにはあまりに勿体ない。デザイナーの勘がそういってる」

 彼女はワインを飲んだ。ほっそりとした肩が少し上にあがる。私は妙に火照ってしまい、しきりに頬に触れた。アンシー・マクレガーはまた何かをナフキンに書きつけ、私に渡した。

「ここに持ち込んでみて。きっと次に繋がるわ」

 そこには、有名な出版社の名前と住所が書いてあった。自分なんかが、とおこがましい感じもしたけれど、もしも彼女の言うとおりなのだとしたら、日々の生活が楽になる。このチャンスを逃してはならない気がした。それに、私は私の絵が嫌いじゃない。

「もっと自身を持ってね。あなたはもちろん、あなたの絵も素敵」

 輝く彼女の瞳は、どんな花よりも美しいと感じた。


 あの日から、私の人生は大きく変わった。持ち込みをした後、私は童話の挿絵画家として、出版社に召し抱えられることとなった。彼女とは、月に一度会っては、仕事のことや、人生のこと、また他愛もないことを話すようになった。彼女は肩を震わせて笑う。そうすると、幸せな感覚が私に伝わった。太陽のような人だ。 

 私には昔、そういう友人がいた。友達の少ない私に、いつも話しかけ、笑いかけてくれた男の子。スミレのスケッチを褒めてくれたことから交流が始まった。私は彼にそのスケッチをプレゼントした。彼はとても喜んでくれた。彼が引っ越す日に、スミレの花束をくれた彼のことを、今になって私は愚かにも、思い出したのだ。

「アンシー。全て君のおかげだ」

 初めて落ちあったレストランで、私は彼女にスミレの花言葉を渡した。

 彼女は言葉をなくして、それを受け取った。花束に挿してある紙を手に取り、震える手で開く。それは、かつて彼――彼女がくれた花束のスケッチだ。

「君は私の人生の花だ。なにものにも代えがたい。どうか、私と一緒に生きてくれませんか」

 スミレ越しの口づけは、永遠に続く愛を開いた。

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