それから私は紅茶を飲んだ。

シヲンヌ

それから私は紅茶を飲んだ。

 目を開けると暗闇だった。




 徐に私は上体を起こす。ぎしり。ベッドのスプリングが鳴って溶けた。

 枕に背を預けて、窓の方向を見てみる。


 外は真っ黒だった。もっとも、青白い街灯の光が等間隔にフローリングへ零れてきてはいるけれど。都会の真ん中だからね。夜イコール一面の闇という公式があり得ないのは、上京してから最初に覚えたことだった。



 スマホのホームボタンを押した。


 画面には表示された数字は3時半くらい。言わずもがな夜の、ね。成る程、そりゃあ暗いはずだよ。はぁ、と溜息が出た。見えないのに気分がどんどん落ちているのがわかる。バブル崩壊後の株価グラフの方が、もっとマシな角度だったんじゃないかな。あーあ。今日は土曜日だから寝坊しようと思ってたのになぁ。


 そう。起きたことが大事ではない。目が冴えてしまったことが問題なのだ。


 きっと今の私の顔はしわくちゃだろう、主に眉の辺りが。ぼんやりと窓の外を眺める。何度見ても、やっぱり空は黒いままだった。




 ゴールデンウィークが近くなってきた昨今でも、未だに夜長である。


 確かに朝の5時を過ぎれば、明るくなってきたかもしれない。ただし、現在の時間だったら暗いままだ。まぁ、日本なんだし当たり前だよね。それに、そこが日本の良いところだし。


 四季と白夜なら、断然私は四季派。だって移ろう自然が綺麗だから。あ、でも白夜があるところならオーロラもあるよね。私は独りでうんうん頷く。生では見たことないけれど、本当に綺麗だと思う。光のカーテンなんて、言い得て妙。最初にそう言った人は天才だよ。


 うぅん、でも、でもさ。梅と桜と紅葉が無いと侘しい気もするんだ。と言うのも、オーロラや白夜が見られる地域って、季節が極端だからだ。東南アジアとかの熱帯地域の雨季と乾季みたいなもので、合間の季節が無いに等しい。日本で生まれ育ったから季節が二つだけとか、張り合いに欠けて寂しくなるよね。


 あぁ、悩んじゃうなぁ。そこまで思ったとき。



 こてりと何かが落ちた、のを私は感じた。

 途端、力が抜ける。背中の枕へ身体の重心が落ちた。窓からフローリングへと視線も落ちた。木の上では青白い光がレースカーテンの柄を象っていた。そうだよね。こんなことを思い巡らすから二度寝できないんだよね。知ってた。


 私の口から、それはそれは重たい溜息が出た。




 染み一つない天井は、モザイクの凹凸が識別できるようになってしまった。フローリングも木目の法則性を再理解できてしまった。


 あぁ、駄目。すっごく切ない。涙が出そう。私はすんと鼻をならしていた。二度寝は絶望的だ。だって天井、真っ白なのだ。なのに、なんでわかっちゃうんだろうなぁ。え、床は、その。さっきから見ていたしセーフ、セーフです。


 いいや、認めよう。私は完全に起きた、二度寝は諦めます。さようなら、ぐだぐだお布団タイム。

 もぞもぞと掛け布団をのかす。



 ひやり。


 つま先が部屋の空気に触れて、僅かに肌が泡だった。まだ冷えるのかぁ。私は腕をさすりながら時計を見た。なんだかんだでもうすぐ4時を越えそう。だけど、普通の人なら夢の世界にいる時間でもある。だめだ。メッセなんて送ってもドッジボール化は目に見えていた。そもそも迷惑だよね。やぁめた。


 途方に暮れた。



 やることがなかった。

 掃除機も洗濯機もかけられないし、食器は既に片付いている。もっと言えば寝坊する気だったから、既に昨日の夜に洗濯して干してあるのだ。ネイルもソシャゲも気分ではない。本は漫画と雑誌しかなくて、中身は全て覚えている。朝ご飯なんて尚更に早過ぎ。やりたいこともやるべきことも思いつかない。


 あぁ、暇。暇だ。どうしよう。



 ぐるぐると頭だけが回る。気持ちが悪くなって天井を仰いだ。


 いつもそう。

 聞けば私は積極的な人らしい。選択肢だけならぽんぽん出せるから、家族にですらそう言われている。だけど、本当の私は、誰かいないとやる気が沸かない性分の人間だ。独りのときに行動しようとすると駄目だった。直前まで確かにやりたいと考えたことでも、興味が一切持てなくなってしまう。


 全てが無価値に思えて、やる意味がわからなくて。


 結局、全く別の行動をしたり現状維持に勤しんだりすることが多かった。家族や友だち、あとは仕事の同僚かな。親密度関係なく、自分以外の誰かが同じ場所にいればそんな気持ちにならないんだけど。


 無価値ではないって、やるべきことだって知っているのにね。なんでこんな気分になるんだろう。自分のことなのに、全然理解できない。


 一度、大きく深呼吸して、ぱちりと目を開く。何でもいい、何かをしよう。寝ている予定だったけど、折角起きたんだもの。このままでいるのはもったいない。そう思うと、いてもたってもいられなくなった。そうだ、一先ひとまず顔でも洗おうっと。




 ベッドを降りて、タオルを持ってから洗面台に立つ。蛇口から出てくるぬるま湯で顔を濡らすと、それだけですっきりとした気持ちになった。ほぅと息が漏れる。


 その声色に私は耳を疑った。非常に低く、それでいて重たそうな声だった。今の、私の声だったんだ。もっと高い声だったような記憶があったのに。尤もここには私しかいない。だから声の主は間違いようがない。でも、受け止めきれなくて。私の視線があっちこっちに飛んだ。


 そんな中で、見えた。どうやらショックを受けたときに、私は顔を上げていたらしい。洗面台の鏡に三十路近い女の顔が、真っ正面から映っていた。


 酷くやつれていた。



 実際に隈や皺があるわけではない。

 洋画に出てくるゾンビみたいな肌色をしているわけでもない。


 当たり前だ。普段から私は化粧水やパックをして、食事や睡眠にだって気を配っているのだ。色もハリも艶も年相応にある。なのに目の前に映る女性は、すこぶる疲れているように思えた。


 なんて顔をしているんだろう。言葉が浮かばない。もし友だちや家族がこんな顔をしていたら。そう思うと尚更、胸が軋んだ。私だったら、まずは思い切り褒めて褒めて励ます。励ますことができなくても、親身に相談にのったり愚痴を吐き出す相手になったりする。絶対そうする。


 それくらい私の顔は惨憺さんたんたるものだった。




 ネットを使って私は洗顔料を泡立てる。全く身に覚えがない。


 仕事は順調だ。失敗もするけれど同じくらい成功して褒められることもある。

 友人関係も良好だ。社会人になったから頻繁には会ってないものの、メッセージでよくやり取りしている。


 家族に関しては、およそ1ヶ月前に里帰りしたばかりだ。姉が既に結婚していて可愛い甥と姪がいるので、結婚をせっつかれることもない。

 彼氏はいないけど、募集もしていなければ欲しくもない。

 非常に順風満帆な人生だと思う。



 泡を洗い流して、水気を取る。パックを付けてから首を捻った。簡単に回顧してみたけれど、やっぱり原因はわからないままだ。あとは私自身のことかなぁ。例えば駅から15分くらい歩くこの1Kのマンション、静かで過ごしやすい。貯蓄はそこそこある。料理はまぁ、昨日鍋を少し焦がしちゃったけど。そんなの昨日だけの話でもないし。どれだ、原因らしいものって何処にあるんだ。


 ふぅ。私は大きく息を吐いた。それから頭を働かせる。ひたすら考えて、考えて考えて考えた。さすれば、1つ、胸の奥に落ちてきたものがあった。それは至ってシンプルで、寝起きなら当然の発想。


 喉、乾いた。




 パックを片付けた私は台所へ向かう。ケトルに水を入れて、スイッチを入れる。それから引き出しを出して、腕を組んだ。何を飲もうかな。白湯も悪くないけど、今はもっと別のものが飲みたいんだよね。幸いココアも緑茶もある。牛乳もあるからカフェオレだって作れちゃう。うぅん、迷う。


 定まらない視線の中、ふと私の目に鮮やかな赤色が飛び込んできた。これなんだっけ。薄いパッケージを取り出すと、紅茶のティーバッグだった。どれどれ。私は赤くメタリックなパッケージをひっくり返す。金字のロゴの下にダージリンと書いてあった。その更に下には淹れ方のレシピもあった。


 プラスチックのパッケージはつるつる滑らかで、ひんやりとしていた。

 気持ちいい。無機物特有の冷たさが、未だ布団の温もりの残る指先にゆっくりと浸透していく。しかも。撫でれば、きらり、きらりと頭上の光に反射してパッケージは瞬いた。


 例えば大粒パールのピアスや、ピンクダイヤのゴールドレリーフネックレス。

 アクセサリーなんて、私はあんまり興味ないし着けないタイプだけど。気がつくと頬が緩んでいた。友達や姉がそういうものへ上がる気持ち、漸くわかった。そんな気分がする。これにしよう。



 ぴぃ。甲高い音がした。

「お湯が沸きました、お湯が沸きました」


 ちかちかとランプを点滅させて、機械の女性は繰り返した。あぁっと、やばいやばい。私はケトルの取っ手を握る。持ち上げれば平坦な声はぷつりと途絶えた。


 すぐ注がないと冷えちゃうからね。沸かし直すとか電気代もったいないし。なんて想いながら、私は注ぐ先のマグカップを手に取る。そしてゆっくり目を閉じた。すと、音を立てずにその場へ戻す。


 中には何もなかった。




 気を取り直して、私はパッケージを破る。

 白くて四角いラベルを摘まめば、するりと三角の小袋が躍り出た。途端、香りが炸裂する。みずみずしく引きずらない甘さが顔に跳ねて飛んでいく。キッチンに収まりきらない濁流はベッドを越え、窓へ床へ天井へと対流していた。まるで部屋一帯がダージリンのシャボン玉に溶け込んだよう。良いなぁ、すごく良い。


 心なしか軽くなった腕で、私は改めてお湯を注いだ。ほわりと立つ湯気が睫に触れる。ぱちぱち、ぱちぱち。湯気に乗って香りも鼻先まで迫って、弾ける。筆舌に尽しがたいほどに良い匂い。だけど、一寸ちょっとおかしい。


 私は首を傾げた。たしかダージリンって、もっとフルーツみのある香りがしていたような。もしかして銘柄、見間違えたんじゃ。



 パッケージを手にして裏返した。こういうものにはレシピの下に解説が書いてあるのだ。職場の給湯室に置いてあるティーバッグもそうだからね。つらつら探すと、思った通り。茶葉に関するコラムが印字されていた。


「この茶葉は9月末に収穫されたオータナムダージリンです。香りよりも苦味と甘味が強く、ミルクティーに適しています。紅茶から漂う晩秋の頼りをどうぞお楽しみください」


 よくわからなかった。

 私はパッケージから顔を上げる。うん。とりあえず私が飲んだことのあるダージリンとは違う、ということはわかった。それ以外はさっぱりだ。


 そもそもこのダージリンを始めとした戸棚の紅茶やコーヒーは貰いもので、何が何だかわからない。私って美味しく飲めれば種類なんてどうでも良いタイプだからね。愛好家には爪弾きにされそうな人間だけど、思うだけならタダって偉い人が言っていた。だから良いのだ。



 あッ。

 時間計ってない。


 即座に私はリビングに戻った。慌ててスマホを起動する。丁度4時半を告げるホーム画面へ呼びかければ、小気味よい合成音声がした。


「はい、タイマーを2分後にセットしました」


 軽やかな機械音の後に、画面へストップウォッチが現れた。かちかちと数字が移ろっていくのを確認して、ほぅと息を吐く。どれくらい時間が空いていたか、なんて定かではない。マグカップの底に色が滲んでいた。だから2分くらいで良いかなってレベル。当て勘だ。

 大丈夫大丈夫、濃ゆくて飲めなかったらミルクティーにするから。




 はは、と力の無い笑い声が口から出た。キッチンの電気を消すと、マグカップをリビングのテーブルに置いた。そのままリビングの壁に寄りかかる。


 こつん。

 頭を傾けると壁に当たった。すると時計が丁度視界の真ん中に飛び込んできた。4時半、4時半かぁ。私はぼんやりと文字盤を見る。電磁波の力で秒針は正確な時間を刻んでいる。じっと澄ませればかち、かちと時が編まれる音が耳に届いた。


 虚ろだ。アイスキャンディーを作るみたいに、私という型へ虚脱がどろりと注がれている。実は、私だけ世界からレタリングされているのかもしれない。まるでがらんどうの箪笥を見つめているような。そんな気分だ。ついさっきまで、あんなに嬉しかったのに。楽しかったのに。


 でもどうしてだろう、苦しくない。



 呼吸が楽だった。

 ペースが非常に安定しているから、詰まってもがきたくなる気が起きない。いつもなら吐き出すのが上手くできなくて、一気に吐いたり深呼吸したりしているのに。


 ちなみに私に持病は無い。無意識の内に呼吸の配分が狂って、胸が苦しくなってしまうのだ。よく誤解を受けるけど、私本人は何もない。身も心もピンピンしているからね。子どもの時からずっとそう。なんで起こるんだろうなぁ。


 兎に角。

 私はそのまま床に座った。


 一寸だけ感動。こんなに苦しくないのはいつぶりだろう。もしかして1ヶ月前に実家に帰ったときかな。それとも実家に帰省する前に、同僚のみんなでやっていた仕事が終わったとき。いや、年末年始に友達と遊んだときかも。


 悶々と思い出と現在を取り替えっこする。がっくりと私は項垂れた。あぁ。駄目だ、全然腑に落ちないよ。




 きゅっと膝を抱えて、床に目を落とす。少し冷たくなっていた肌が、身体をクールダウンしてくれる。気持ちいい。ほわほわ心が舞って、私は脚を撫でた。


 ぴぴぴ、ぴぴぴ。

 唐突に電子音が鳴る。立ち上がって周囲を見ると、スマホの画面が明るくなっていた。紅茶が出来たんだ。スワイプで音を止ませて、私はカップの中を見た。


 カラメルが一帯に広がっていた。


 ふわふわ湯気立つマグカップからは一緒に香りが漂ってくる。口づけようとして、はたと私は止まった。そうだ、猫舌だ私。あともう一寸だけ、待ってからにしようっと。


 ティーバッグを取り出すと手持ち無沙汰になった。うろうろ、うろうろと視線が彷徨う。またしても壁に目が止まっていた。ふと。壁の色が変わっていることがわかった。変わっているって言っても、深緑から緑になったくらいだ。彩度、だったかな。それが僅かに白へ近くなっただけ。それだけだ。


 流れるように私は窓へ視線を向ける。空が紺色になっていた。




 サッシをスライドすると外気が一斉に流れてきた。ぶるりと、身体が震える。


 つ、つべたいッ。

 マグカップを持ってない左手で私は腕を摩った。部屋の冷気で慣れた気でいたけれど、まだまだ甘かったらしい。だからといって、足を止める気もないんだけどね。


 からからと網戸は音を立てた。置きっぱなしにしていたサンダルに足を入れて、私はベランダを踏む。吊られた洗濯物を腕押しして、ベランダの柵に手を掛けた。



 外は未だ眠りについていた。端から端を眺めても外を歩く人はいない。時たまコンビニのトラックや朝刊配達のバイクが走っているのが見える程度。


 空も部屋で見たときと変わらない。変わらない、いや、どうかな。私は目を凝らす。すると、空の隅っこの方が微かに白んでいて、蒼かった。


 たとえ東京でも、今日は休日だ。今だってまだ人が溢れるには幾分か早い時分。でも、そっか。そんな時間も、すぐに終わりが来るのか。




 私は空の果てを見つめた。


 太陽が昇ってくる。静かに、当たり前に昇る。どんなに悩もうが、どんな年になろうが、同じ空に昇る。マンション群の隙間から覗く蒼を視界に入れつつ、ゆっくりと息を吸った。しんと、清々しい空気が身体の奥へ浸みゆく。


 目を閉じる。今まで私の頭をぐるぐる回していた物事が、段々と身体の中で溶けていく。解いて小さくなって、消化されていく。可笑しなことに、ついにはとりとめのない物事だったとも思えてきた。 ただ、いつもみたいに無価値だとは思わなかった。


 ほぅ。

 私の口から息が漏れた。漸く荷物を降ろせたような、そんな声色と共に。




 手すりを掴んでいた左手が、マグカップに触れる。

 ひりつくような熱さはもう、無かった。

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それから私は紅茶を飲んだ。 シヲンヌ @siwonnu

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