誰も知らない わたし の話
「それでは、忘れられない恋の話を
なんて、何処かで聞いた事があるようなないような言葉を添えて、半ば強引にデートが始まった。俺は乗り気じゃなかったが、錫花の位置も先生の位置も、二人の位置さえハッキリしない状況。偏に言ってやれる事が何もない。どうしようもないのに何かをしているように見せかけても仕方ない。
「何処に行くんだよ。デートって言っても誰も居ないぞ」
「誰も居ないからこそ行きたいじゃないですか! 明日世界が終わるとしたらみたいなもしもってロマンがありますよねっ」
「……まあ、普段立入禁止だったり混んでて行けない場所に入りたいなら分からないでもないな。そういう所に行きたいのか?」
「そうですねー。その前にセンパイは記憶がないみたいなので私についても色々話しながら行きましょうか。相手に興味を持ってた方がデートって楽しいですからね」
デート中は後輩モードで貫くようだ。帽子を被って日差しを遮りながら彼女は一見当てもなく歩いているように見える。駅前まで来てしまったが何をするつもりだろう。
「昔、昔のお話です。私は冴えない子でした。両親にはいつも怒られてばかり、母親の方が良い大学入ってた事があって、ちょっとお高くとまってる感じの人だったんですよね。そこから生まれた私は当然優秀だっていう思い込みがあって……期待に応えられなかったんですよ、要は」
見覚えのある表情で、夜枝は俯く。それはあのスケッチブックで見た事があるような気もするし、それとは違う何処かで見た顔でもある。
「小学校も受験が必要な場所で、私は点数を求められました。ほんの少し間違うだけで沢山怒られました。暴力はなかったですよ、少なくとも人前に見える所にはね」
「…………虐待の痕跡ってのは数年で消えるもんじゃないだろ。海で見たお前の身体は結構綺麗だったと思うけど」
「見惚れてくれました!?」
「……」
子供みたいに喜ぶ夜枝に違和感を持った。こんな瞬間に口から出任せを言う意味がない。俺を騙せても騙せてなくても、だからどうしたという話だ。好都合も不都合もない。意味がない。
「家に帰るのが怖くて、いつも遅くまで外で遊んでました。いや……友達も居なかったから、ただ歩いてただけですね。ただ家に帰らない理由が欲しかっただけです。塾の勉強も必死で頑張りました。家での自主勉強も沢山頑張りました。でも出来ないものは出来なくて、両親のどちらも教えるのはへたくそだったんです。間違えたら怒鳴るんですよ? 怒鳴るだけで答えを教えてくれない、自分で考えろの一点張り。それって幾ら私の成績が悪くたってお世辞にも良い指導じゃないですよね。悪いって言っても九五点より下は滅多に取らないくらいだったんですけど」
「俺より頭いいぞそれ」
「頭の悪い子供を持つと親は大変。それが母親の口癖でした。そんな人の元に帰ろうなんて子供でも思いませんよ。だからよく、この辺りをうろついてたんです」
「……? 親切にも食べ物をくれる人が居たとか?」
「誰か、私を攫ってくれないかなって」
強風が吹くと、夜枝は身を低くしながら帽子とスカートを抑え込んだ。女性の服がもたらす特有の防御行動、もしくは単なる恥じらい。だがそれは何だか、悪い予感のような気がした。
前もこんな事があったかと言われたら無いのに、今の風はまるで警告のようだ。
「―――風が強い日は、貴方と出会った日を思い出しますね」
「…………風」
そう言われて、思い出した。秘密基地のトンネルに入るときに揺葉が先に入るのを嫌がったのはスカートを覗かれるからだが、その時俺は『なんでこんな日にスカートなんか履いてきたんだ』と言い返した。
「あの日も私はこの辺りを歩いてました。外で歩いてたら怒られますけど、帰っても怒られるからどっちでもいいんです。ただあの時は事情が違って、眼鏡を落としちゃったんですよね」
「お前、眼鏡かけてたのか?」
ここまで言われても尚思い出せない。そんな子供と会った記憶がまるでないどころか、今の夜枝に眼鏡を掛けさせたとしてもイメージが一致しない。歩いている内に辿り着いたのは駄菓子屋だ。昔は揺葉や隼人とよくお菓子を買いに来ていたっけ。店主は当然のようにいない。会計は無人レジまで。
「なんか買いましょうか。昔を思い出す為に」
「お前はどんなお菓子が好きだった?」
「家ではお菓子を食べられなかったので小さくてすぐ食べられるのは好きでしたよ。このドーナツとかね。センパイは?」
「揺葉や隼人と分けられるお菓子が好きだったな。こういう一枚のデカイ煎餅みたいなのじゃなくてそのドーナツもそうだけどラスクとか、このサイコロみたいな飴とか」
「じゃあせっかくなので分けて食べましょうか♪ ふふ、センパイとこんな何でもない日常、過ごしてみたかったなあ」
盗みに入ったと思われても心外なのでレジにはしっかりとお金を落としていく。この駄菓子屋の良い所はお店の前にベンチとゴミ箱があってそこで直ぐに食べられる事だ。どうせ誰も居なくなった町の中で、このゴミ箱は俺達が占有しているに等しい。
年を取るとちょっとだけ駄菓子屋にお菓子を買いに行くのが何となく恥ずかしくなったが、誰も居ないなら人目を気にする事はない。夜枝と肩を並べて、小分けにされたお菓子を食べあった。
「あの時はアイス買ってくれましたよね。センパイが覚えてなくても私は覚えてますよ」
「聞けば聞くほど何で俺が覚えてないのかよく分からないな。そりゃ人助けは当たり前の事だって教わってきたから困ってる人が居たら幾らでも助けたとは思うけど、流石にここまで言われたら思い出せると思うんだ」
「落とした眼鏡を見つけてくれて、じゃあって帰ろうとした貴方を私が引き留めたんですよ。それで、連れが帰ってくるまでって条件付きで少しだけ一緒でしたね!」
その流れ自体は覚えている。自販機を探すところまでは一緒にやったが、その自販機に目当ての飲み物がなかったので俺がごねたら揺葉が呆れ気味にまた探しに行ってしまったのだったか。申し訳なさは感じていたが、当時の揺葉の矜持として『ジャンケンで負けたからには半端な情けは無用』というモノがあった。だからそんな彼女が戻ってくるまで俺は暇を潰して……やっぱり覚えてなんかいない。
「そのトンネルっていうのは何処にあったか覚えてますか?」
「この辺だったのは覚えてるけど詳しい場所までは……昔の事だからな」
しかも街並みだって少なからず変わっている。一度見た景色を絶対に忘れないような特殊能力もないし、小学生だった頃の記憶を完全に掘り起こすのは難しい事だ。思い出は思い出として覚えているが、飽くまでそれはキャンパスの上というか。脳内に地図としては書き起こせない。
「私、センパイと別れた後も家に帰りたくなかったんです。それで、実は貴方を探してたんです。あの時、名前聞かなかったものですから」
「……そうか。もしかしたらそれで記憶がないのか。名乗られたら流石に記憶の片隅にはありそうだもんな」
袋から取り出した飴を夜枝の口へ。彼氏彼女というより妹に餌付けしているみたいだ。年下だから似たようなモノかもしれない。誰の迷惑も気にする事なく食べるおやつは控えめに言っても最高で、単なる食事にしては異様な解放感を持っていた。
夜枝が立ったのを見て俺も後に続く。在りし日の過去を辿るようにその歩みはおぼつかない。まるで地面に足跡が見えているみたいに彼女は下を向いて歩いていた。元気がないなんて事はない。むしろ楽しそうにステップまで踏んで、童心に返っているようでもあった。
「貴方の事が知りたかった。貴方ともっと一緒に居たかった。でも所詮は他人です。センパイとは行ってる学校も違ったし、年も離れてた。家も遠かったしどうやって接点を持てば良かったんでしょう」
「……それは」
「何もかもどうでもよくて、何も楽しくなくて、何の為に生きてるか分からなかった私に、初めて生きる喜びがありました。今でも覚えてますよ、貴方の優しい笑顔、貴方の優しい触れ方。貴方だけが私に何も求めなかった。それが凄く嬉しくて―――! 私、センパイの為に生きたいと思ったんです!」
初恋。
憧憬。
或いはそれが、人生の全て。
正しい感情ではないだろう。周りの人間が夜枝の感受性を歪めてしまったからこそ起きた奇跡。決して肯定する訳にはいかないが、否定したくもないようないじらしい感情。
夜枝の足が何でもない住宅の前で停まる。生垣で家屋を覆うその家の足元には―――見覚えのあるトンネル。覗いてみれば先に庭などなく、何処までも暗い空間が続いている。
「そんな私のお願いに―――神様は応えてくれたんですよ」
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