水面に映る鏡の恋
メが、見えない。
暗い。
頭がぼんやりしているのはなぜだろう。お腹の辺りは暖かいのに引き換えに体がどんどん冷たくなっているようだ。記憶が混濁していて前後の状況が掴めない。何が起きたのか、自分は今どうなっているのか。メが見えないから分からない。ここは暗い。寒い。
身体を動かそうとしても、まるでお腹の中に石でも詰められたみたいに重くてびくともしない。腕も指もてんで駄目。末端の感覚は失われつつあった。
――――――冬癒。
思い出せるのは妹の事だけ。そうだ、俺は確か居なくなってしまった妹を探しててそれで…………それで…………
「おい、新宮硝次。生きてるか?」
声がする。そうだ、向坂柳馬という人に助けてもらったんだった。だがこの声は……違う。もう少し年を取っている。声もあの人と比べたら一段低い。誰だっけ。見知らぬ声、ではない。俺の名前を知っている。
「…………生きてるならいい。俺が誰だかも気にするなと言いたいが、ここだと信用してもらう必要があるな。俺は
みかがみ。
水鏡。
そうだ思い出した。知尋先生をナンパから遠ざけた……いやそれ以前に、あの人の事が好きで、恐らくヤミウラナイからあの人だけはと守った人。聞き覚えがあるのはビーチで出会ったからだ。
「どうせ今は喋れないだろうから簡潔に伝える。今からお前の身体の痛みを消す魔法を使う。身体が動くようになったら部屋を出ろ。廊下の電気は俺が全部消した。壁を伝ってでも何でもいい、まっすぐ進め。進んだら非常階段があるから、逆手でドアを開いてその階段を下りろ。どれくらい下りるかは考えるな。ひたすら下りるんだ。女は先に逃がした。先に待ってる。そいつと会うまで自分の身体を見てもいけないし振り返ってもいけない。いいな?」
「………………?」
「なんで、って顔をしてるな。分かるよ、夜目が利くからな。お前、向坂柳馬にここが怪異のホテルだって聞いたんだろ。そのホテルの備品壊そうとしたんだ、ここにいる全ての怪異がお前に怒ってる。向坂柳馬が全員を引きつけてる今が最後のチャンスなんだ。分かるな。分かれ。これを見逃したらもう二度とお前はここから出られない」
他人の心配はするな、と火楓は言う。お前は自分の心配だけしていればいいんだと。それはそうかもしれないが、だからって向坂さんを心配しないのも難しい。余計なお世話という言葉があるが正にそれだ。心配してる場合じゃない。俺は詳しくないんだから。
でもこんな俺の為に危ない橋を渡ってくれてる人を無視するのは、気持ちとしていただけない。それが『無害』どころか『無能』の考え方だったとしてもだ。
「一応言っておくが、お前を助けたくて助けたんじゃないぞ、知尋を泣かせるな。お前のそのしょうもない良心に感心したり付き合ってやる義理はない。いいか、絶対に言う事を聞けよ。アイツを泣かせたら俺が怪異より先にお前を殺してやる」
火楓の声が離れていく。いや、それはまた意識の喪失か。何故俺はこんな奴の言いなりにならないといけないのか釈然としていない。けれど知尋を泣かせるなという言葉には言いようのない凄みがあって―――逆らいたくない、と思った。
「よし、少し目を閉じろ―――人にはそれぞれやるべき事がある。お前がやるべきはこんな酷い場所の調査でも浄化でもなく、お前自身にかけられた呪いの解除だ。目的を履き違えるな、お前にここは救えない。皆の所へ帰れ。こんな場所の事は忘れろ。いいな」
メの上に掌が重くのしかかり瞼を閉じさせる。
身動きが取れない反面思考はよく動いたが、それも段々クリアになってきた。雑念がなくなる、というか。文字通り頭が真っ白になった気分。焦燥も疑念も恐怖も、今はどうでもいい。眠りたい。腹にじんわりと溜まるぬるま湯のような温かさを布団代わりに、もしかすると二度と目覚める事はないかもしれないが、だからって目を閉じないという選択肢はない。
疲れたから眠る。それは生物にとって理由を考える必要のない生理的な欲求の筈だから。
「起きて。少年。起きないと死ぬよ」
当然の感覚として時間を感じられるのは意識だ。意識が落ちた夢の世界で自分が何時間寝たかは知覚出来ない。目が見えないと思ったが、それは単に俺の寝る部屋が暗いだけの事だ。
「少年。意識は?」
俺に離しかけている。多分。女性の声は部屋の隅から聞こえる。顔を確認しようと携帯を取ろうと思ったが、朦朧とした意識の中で俺に言いつけられた言葉だけが脳裏を過る。
『自分の身体を見てもいけないし振り返ってもいけない』
この女性の顔を確認する為にライトを点けたら、俺は自分の身体を確認してしまう。眠る前の感覚はまだ忘れていない。あの時は気怠かった身体がなんともないのだから一般的には気になる。
「……大丈夫ですけど」
「そう、なら良かった。眠る前に言われた事は覚えてる? 私は君を起こせって言われたからここに居る。身体が動くなら早く行って。私は大丈夫。素敵な旦那様が迎えに来てくれるから」
「……じゃあ、貴方は」
「そんな事を話してる暇はない。他人の事より自分の事を心配して欲しいな。貴方には帰りを待ってる人が居るんだから」
女性の顔はどうしても見えないが、彼女が向坂さんの探していた『雫』である事は疑いようもなかった。話していて顔が見えないのは違和感があったので携帯を取り出そうとしたが、それは良くないと思いとどまる。
眠る前の記憶は確かで、あの時は身体がまるで言う事を聞かなかった。ところが今になって身体はとても軽い。温い暖かさも感じない。『魔法』と彼は言ったがどういう処置をしたのかと気になっている。だから携帯のライトを使えば最後、雫さんの顔を見るより前に俺は自分の身体を確認するだろう。
だから使ってはいけない。
身体をベッドから起こして、立ち上がった。『自分が信じた方と逆』という言葉が何処まで適用されているかは分からないが、知尋を泣かせるなという言葉にはある種の凄みが感じられて逆らいたくない。
掌を壁に当たるまで突き出して、当たったら伝うように歩いて扉の前へ。廊下へと飛び出す直前、振り返って声をかける。
「本当に来ないんですか?」
「大丈夫。気遣いは無用だよ。探してくれたのは有難う。でも、私は死なない。旦那様が守ってくれるから」
「…………」
俺が何としても助けるというつもりはない。ここはお化けのホテルと聞いていたのにあんな迂闊な行動に走り出した男がどの口とどの面を引っ提げてそれを言う。向坂さんが頼れる男なのは本当だ。自分なんかよりずっと頼もしい。最後のチャンスを作っているのは他でもないあの人らしいからそこに異論を挟む恩知らずはまさか居るまい。
「向坂さんに伝えておいてください。色々有難うございましたって」
「うん。伝えておくよ。元気でね」
扉を閉めて、俺も覚悟を決めた。言われた通り廊下の電気は消されていてまっすぐ歩くのも不安だが壁を頼れば大丈夫だ。突きあたるまで壁を確認すればいい。足元にはしっかりと床がある、踏みしめた感触がある。
だからまだマシ。
「逆手……逆手」
どうして逆手で開くべきかは分からない。でもそうじゃないと駄目らしいから言う通りにする。扉に当たったので逆手に扉を開くと、非常階段っぽい場所に足を踏み入れた。非常口には大抵光源が用意されているのだが真っ暗で、階段があるかどうかも視界だけじゃ分からない。手探りで物体を探ると手すりを見つけたからそれを手繰るように下へと足を降ろしていく。床が低くなっていくのを感じた。
トン、トン、トン、トン、トン。
金属を踏みしめる音が単調に響く。どれくらい下りる必要があるのだろう。ライトで確認したい。ほんの少し下を照らすだけでも……いやだが、それをするとどうしても足元が映りそうだ。
トン、トン、トン、トン。
「ねえ、ちょっと待ちなさいよ!」
頭上から追いかけてくる揺葉の声。だが俺は振り返らない。知尋を泣かせるなという言葉が決意を固くさせている。一理あると思った訳だ。『神話』の中で子供みたいに泣きじゃくる先生を見た。好意が報われなかった反面、向けられた好意を蔑ろにしていたと気付いた先生は、その時確かに過去へ戻っていた。
事情は違えど俺が居なくなれば誰かが先生の涙を見る事になる。あの人を好きだった男からすれば面白くない。俺は純粋に申し訳ない。
「聞こえてるんでしょ! ねえ、硝次君!」
反応したら振り返りたくなる。居ないものと努めて意識をして階段を下り続けた。冷静なつもりだ、おかしいと気付いている。俺はともかく揺葉が本物なら光源を使わないで階段をここまでスムーズに下りるなんて不可能だ。上から追いかけてくる足音は早いのに、一向に追いつかないのも不自然。
だから反応しない。
「置いてかないでよ! ねえ! ねえ!」
下りていく。
階段を。
信じる方と逆。恋に背いて脱出を。
トン、トン、トン、トン、トン。
どれくらい下りただろう。上から揺葉の声が聞こえなくなって十五分。下りている内に、光り輝く鏡が俺を待っていたように煌めいていた。だが鏡の名の通り俺の身体を映したりはしない。そこに映っていたのは左側の手首を隠した冬癒だった。
「―――冬癒!」
「お兄ちゃん! ようやく来た! 早く来て!」
鏡の中からすんなりと手が飛び出してきて俺の手を待っている。あの人はなんて言った? 女は先に逃がしたと言った。じゃあこの手を取ればいいのか。鏡の中に一度入っているので外に出れば無事で済むというのも説明がつく。
だが釈然としない。冬癒を『女』なんていうだろうか。妹とは教えていないが遠目から俺達を観察していたならある程度関係性は察せられる筈だ。この場合『女』とは揺葉の事を指すのでは?
自分の信じる方と逆?
逆ってなんだ?
俺はどっちを信じればいい。
「お兄ちゃん!」
鏡が黒ずんで妹の姿が見えにくくなっていく。ずっと悩んでいられる訳でもないらしい。思い切って手を取ろうとして―――逡巡。『恋』なのか『家族愛』なのか俺はどちらを信じるのが正解だ。どちらを裏切ればいいのだろうか。
「………………」
新宮硝次に決断力は求めるな。元々どちらでもなかった男だ、そういう奴だから『無害』と呼ばれていたのだ。布切れで包んでいた手首を取り出すと、鏡の外から突き出した冬癒の手に握らせてみる。
手が引っ込んだ瞬間、鏡はどす黒く染まったかと思うと粉々に砕け散った。
「――――――!」
あまりの出来事にその場で尻餅をついてしまう。声も出なかった。一瞬の出来事、そして何か間違えば俺自身の手を重ねていたという確信に汗が止まらない。手すりを掴んでどうにか立ち上がろうとする。足が震えてままならない。
一段下りた途端に躓いて、身体が宙を舞った。
「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
「新宮さん。新宮さん! 起きてください!」
「死んじゃ………………………………だめ…………!」
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