命の両天秤
「……俺に来いって、本気で言ってるのか?」
「本気で言ってます。向坂さんくらい詳しい人が居たら心強いんです。駄目ですか?」
冬癒の手首を当てもなく探す事……何時間か。妙な場所に居ると時間の感覚が曖昧になる。向坂さんと出会ってから身の危険を感じている事はないが、何の進展もない時間が続くのは苦痛で、こちら側に意識を向けると頭がおかしくなりそうだ。向坂さんに協力を要請したのは勿論頼りになりすぎるくらい豊富な知識もそうだが、頭がおかしくならないように、気分転換の意味合いもある。
「………ああ、それね。いや、分かるよ。俺もちょっとサービスし過ぎたって自分でも思う。結論から言うと、それは出来ないんだ」
「どうしてですか?」
「『オタケビ姫』について何で知ってるか。出遭った事があるからだ。詳しくは語らないんだが俺はその一件で大層好かれた……ああ。好かれてしまったから、もう一度遭う気にはならない。さっきも言ったようにアレは男好きで、一度欲しくなった男をとことん追い回すような危ない奴だ。君達に協力する事自体は吝かじゃない。でもそっちの呪いが結果どうなったとしてもそれとは無関係に俺は殺される事になる。流石に、命までは張れないな」
「…………そ、そうですか」
自分の命欲しさと言えば聞こえは悪いが、死にたくないから協力出来ないというのは至極真っ当な理由であり俺はそれに対する反論を用意出来ていない。向坂さんは狙われているらしいが俺ではそれを解決する事なんて出来ないし。そんな余裕もない。錫花や揺葉なら……或いはと言いたいが、断る理由にしているという事はもう手遅れなのではないか。
「俺に出来るのはここから君達を無事に外へ出してやる事だけだ。君も俺が近くに居るからと安心しないで気を引き締めろ。長居は基本的に何処も無用だ」
「……そう言えば当てはないのにどうやって手首を見つけるんですか? さっきから廊下歩いてたまに部屋見たりして、探してるって感じがしないんですよね」
「―――生者との縁に満ちた身体の一部があるなら、近くに大量の怪異が居ると思っていたんだが、どうした事だろうな。なんかおかしいぞ」
向坂さんの足が止まったかと思うと、急にきょろきょろと辺りを見回して挙動不審に歩き始めた。動きを目で追って立ち止まっていると、足元の床が暗くなっている事に気づいた。
「え?」
ライトを持っている。照らしている。床の絨毯がどんどん黒ずんで光を吸収していく。床から壁、壁から天井へ。黒く染まる謎の影は瞬く間に空間を塗り潰して、周辺の景色を消した。
「まずいな! もう現実は丑三つ時か!」
「え、え! え!」
「トイレに逃げ込むぞ、来い!」
呆気に取られた身体を男子トイレに引っ張り込まれる。電灯の消えたトイレは言うまでもなく不気味であり、鏡でさえ光を跳ね返さないのなら殆ど視界はないも同然だ。
確かに鏡を見ているのに自分の顔は映っていない。いや、鏡に映るトイレの中はちゃんと電気が点いている事を怪しく思うべきか。
「君、鏡の中に逃げろ。こっちはもう危険だ。俺も守れる自信がない」
「さ、向坂さんは!? ていうか鏡ぃ!?」
「俺は一人でも大丈夫だ。自分の事だけ考えろ。鏡の中に入ったなら一つ、これだけを徹底してくれ。自分が信じた方と逆」
「は、それってどうい―――」
「良いから入れ、俺も隠れる時間がなくなるだろ、良いな! 入れよ!」
そう言って向坂さんは一番奥の個室トイレに閉じ籠ってしまった。さっきまでと違って誰も何も近づいてくる気配はない。だけど向坂さんが危ないと言ったならきっと危ないのだろう。知識がなければ分からないという奴だ。
―――鏡に入るって。
俺の脳内シミュレーションでは顔をぶつける。高所恐怖症の原理も同じだ。足が竦むのは脳内シミュレーションにつき先に飛び降りているから。これは生存本能に抗う危機。
「はあぁ。はあ。うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
大声でシミュレーションの結果を遮って身投げするように鏡へと全力タックル。感じる筈だった鈍痛は、当たり前だった出血は、導き出された必然は。全て覆る。
「…………あ、あ………………れ?」
電気のついたトイレに、放り出されていた。
目を瞑りながら飛び込んだから過程が良く分からない。振り返って鏡を見ると、俺が振り返ったその瞬間に罅が入って間もなく崩壊。水の溜まっている洗面台の中へと吸い込まれていく。
ガラスの沈んだ水面は赤黒く滲んで素手で触る事を避けるようだった。心なしかそれは、人間の血にも見える。
「さ、向坂さん! 向坂さん!」
頼もしい人とはぐれてしまった。どうにか合流する方法はないだろうか。俺は一人ぼっちでこいつに挑めるとは思えない。何か、案内する物でもあると有難くて。
「……ん」
手を見ると、いつの間にか指輪が嵌まっていた。これは確か部屋の中で見つけた指輪で、お化けの女性が探していた物と思われる。『神話』の経験から何かに使えるだろうと思って持っていたが、指に付けた覚えはない。
何故それに気づいたかと言われれば単純だ。指輪が意識しなければ気づかないような力で俺の身体を引っ張っている。正直、お化けの持ち物なら信用するべきじゃない。よく考えなくても身体を勝手に引っ張る指輪は怖すぎるので外そうとしたがすっぽり埋まっていてぴくりともしない。これを取ろうとすると指を切断した方が手っ取り早いくらいだ。
自分が信じた方と逆。
向坂さんが最後に残してくれたアドバイスが脳裏を過る。あれを信じるならこれに従えば良い結果に繋がる……のか? 自分の感性を信じるならこんな危ない事はないのだが、向坂さんと離れたら余計当てがない。
自分の直感に反する方に従うなんて気持ち悪いが、大人しく身体を引っ張られてやることにする。これで何か収穫があれば今後も信じてみよう。人として間違った判断という気しかしないが、向坂さんのアドバイスを蔑ろにしようとも思わない。
トイレの外に出てみると携帯のライトをつけている事がいっそ馬鹿らしくなる程の光源が並んでいた。一瞬、元のホテルに戻ったかと思ったほどだ。だが圧倒的に装飾が違う。そして……廃墟とは違った意味で、ここは不味い。
「…………ッ」
壁にぶちまけられた真紅は血液以外の何に見えるだろう。指輪に引っ張られて長い廊下を歩いている。通路の先はハッキリと見えており、血飛沫は余計に酷くなっている事が分かっていた。壁に凭れる人間は身体の一部分を失くしてばかり。共通しているのは死んでいる事だけ。
死体に彩られた道を歩かされている。よく見ると死体の首には部屋の鍵が突き刺さっており、死体の位置とは関係ないように見える。
「お、下りるのか?」
階段を下りて、また廊下を歩かされている。緊張が抜けない。それもそのはず、この異様な空気はただ暗いだけよりも恐ろしい。過剰なくらい電気がついて明るいのに、窓の外を見れば何一つとして存在しない暗黒だ。その癖死体は大量にあって、人の気配がない。
辿り着いたのは、死体ではなく扉に鍵が突き刺さったままの部屋だ。見覚えがある様な無いような、鏡に入る前はずっと暗かったので判然としない。同じホテルだから既視感があるだけだろうか。
ノブを開けてドアを開けると、掌に女性の指を乗せたまま窓の外を眺める揺葉が立っていた。
「…………揺葉!」
「え、硝次君! 嘘、本当に来た!」
水着姿だとか、この際どうでもいい。何時間かぶりの親友は代わり映えもなく元気で。
「良かった……お前が無事で…………」
「当然。私の事舐めてんの? こっちのが心配したんだから、無事でよかった……でも何で太腿触ってんの?」
「い、一応鏡の中だから本物確認をな」
「は? 鏡の中? アンタ何言ってんの?」
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