昏く響く泣いた声
まだ何も見ていない。何も知らない。ここは廃墟のホテルでその一階。無意味にエレベーターが落下しただけで俺は傷一つ負っていないし、揺葉と冬癒が居ないだけ。まだそれだけの筈なのに、どうしてここまで空気は張りつめている。
「………………」
足元が暗いから水たまりなんて気づかなかった。そもそも、どうして水たまりがある。雨漏り? 馬鹿な、今日は雨じゃない。水漏れ? 廃墟に? 今更?
脳みその中を巡るのは血か思考か。それさえ不明瞭な程、混乱している。自分の迂闊もそうだが個室の音が止んだ。それはつまり自然現象から起きる音というより何者かが出していた音。それもちゃんと耳が聞こえる。
俺が水たまりを踏んだ音を聞いて、それをやめるくらいの知能がある奴。
「…………………ぅ」
完全に息を止める事は不可能だ。それにはまず俺が死ぬ必要がある。それでも可能な限り呼吸を抑えている。手で口を覆うとその接触音が鳴るかもしれないので両手は宙ぶらりんだ。間に合っていない様な、間に合っている様な。個室から何かが出てくるようなら全力で逃げるつもりだったが音が止んだだけでその気配は微塵もない。
だから止まっている。またあの音が鳴るまで耐えられるかは分からない。だがセーフかもしれない。何に怯えている? 銃を持った人間か? 爪と牙の生えた熊みたいな怪物か? 違う、分からない。そこに何が居るかなんて何の事前情報もなければ推理もない。
何となく、危ない気がしているだけだ。肌がヒリヒリと痛い気がしている。気がしているだけ。それなのにここまで過剰なのは俺がおかしいのか?
「…………………っ」
根競べは嫌いだ。俺はそもそも我慢強い性格じゃない。だから早く動いてほしい。元の状態に戻るなら戻るで、俺を追いかけるなら追いかけるで。いつまでもこの状態は精神的にきつい。
何がきついって、同じ姿勢を維持しながら呼吸を殺して耳も済ませないといけないという事だ。
「…………………」
シャァァァァァァアアアアア。
トイレの流れる音が聞こえる。水の攫うような音は紛れもなく水洗トイレが流れる音だ。廃墟で使えるかどうかは置いといて、やはり中に誰かいる…………?
扉は開かない。この音に紛れて進むなら今だろうと思って、勢いよく扉を開けた。
「はっ?」
中には誰も居なかったし、トイレは蓋が閉まったままだった。音は変わらず続いている。渦を巻いて流れる水が水道管を通って流れる音。何か啜れるような物体は近くにない。いやトイレの水を啜っていたとするなら納得出来る。
「……なんだよ~もう」
何も居ないと分かると途端に気が抜けて、大袈裟な足音を立ててしまう。癖でも何でもないのに独り言なんて言って。恐怖を紛らわせているのが露骨だ。俺の心理的な機微はどうあれここには何もいない。それで十分だ。
トイレの蓋を開けると、確かに水は溜まっていたが濁っていて、流れてなどいなかった。
シャァァァァアアアアアアアアアアぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ。
「……?」
水はまだ流れて……いや、違う。便器の中に顔を近づけると、それは流れる水の音ではなく、誰か人間の叫び声ではないかという気がしてきた。更に耳を近づけると、それはどうも女性の声に思える。
ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ。
やっぱりそうだ。水の音にかき消されているが、これは間違いなく女性の声。全く信じ難いが、レバーを引いても流れないトイレに誰かが流されている。
ぁぁぁああああああああああああ。
………………?
ちょっと、待った。段々声が大きくなっていくような。流されているのに声が大きくなるなんておかしい。だってそれはつまり。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
危険を察知して顔を引いたが、それはほんの少し遅かった。トイレの中から伸びた白く骨ばった腕が俺の顔を鷲掴みにしたのだ。
「うぎぎぎぎぎい! ああががががががががあああああ!」
掌で顔を覆われているので何が俺を引きずり込もうとしているのかは分からない。便器を両手で掴んで必死に離れようとしているがこの力の強さと言ったら、男の俺でも押されている。額や頬に食い込んだ爪は深く肉を抉り、この痛みは恐らく出血した。
「「ああああああああああああああああああああ!」」
亡者の声と共鳴するように、負けじと俺も叫び声をあげた。気力で負けたら引きずり込まれる様な気がした。それにこうやって騒いでいたら何処ぞにいる揺葉が気づいてくれるかもしれないと。
「うぐぉごぼ!」
一人ではどんどんと引きずり込まれていく。トイレの水に顔を突っ込んで、それで初めてこの濁りの正体が分かった。泥でも土でも埃でもない。これは血だ。暗くて判別出来なかった。口内に入った水からは、かび臭い血の味がする。
「ごぼぼぼぼぼぼおおお! んごぼお!」
呼吸が出来ないと体の力が抜けていく。駄目だ引きずり込まれる! 引きずり込まれたら俺も流されるのか? いや待て、そうなったら誰かに引き上げてもらわないといけないだろ。そんな人間はこれから先現れるのか。
「ごっぼ…………ぐぼ!」
嫌だ。死にたくない。まだ何も解決してないのに、こんな所で死ぬなんて絶対に嫌だ。揺葉と仲直りして、負うべき方向性もそれとなく明らかになったのにこんな終わり方か!
「んーんーんーんんんんぬううううううううううう!」
力勝負ではかなわない。窒息寸前の頭で導き出した解は、上で揺葉が用意してくれた包丁だ。彼女は何も言わなかったけど、置いていくのもどうかと思って持ってきていた。
ズボンに差す危ない形で携帯していたのにすっかり忘れていた。揺葉がいない恐怖からか、それとも持ってきたと言うのは俺の気のせいで、この瞬間に限って持っていたのか。
引きずり込まんとする腕に刃物を突き立てると、力が一気に緩んで顔を引き離す事が出来た。
ぃゃぁぁぁああああああああああああああああああ!
耳をつんざく音は水を伝いトイレ全体に響き渡るようだ。顔を引っ張った勢いで後頭部を壁にぶつけて、痛がるよりも耳を抑えてしまう。頭がガンガンする。打ち付けたからではなく、金切り声が何より脳を揺さぶって、抵抗を奪うのだ。
たす………………………………ぇてああああああああああああああああああああ!
叫び声に混じって何か聞こえた気もするが、一々聞き分けられる自信はない。声が静まり沈黙が帰ってくるまで俺は子供のように蹲って事が終わるのを待っていた。
生気を失い、水でふやけてほねばった手がゆっくりトイレの中へと沈んでいく。指先は助けを求めるようにカクカクと動いて、それきり潔く吸い込まれてしまった。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ…………」
顔が汚くなったとか、痛いとか、それ以前に。まだ生きているという感覚を理解するのに必死で身動きが取れない。包丁はうっかり手放したので吸い込まれたようだ。次襲われたら二度目はない。
「…………ふ、冬癒!」
おかしな目に遭うのはこれが初めてではない俺でも怖かった。妹がどんな目に遭ったとしても助かるとは考えにくい。次見つかった時妹は変わり果てていたなんて想像したくもない。
恐怖よりも先に、心配が勝る。気づけば身体は飛び出して再びエントランスまで戻ってきた。一階は探しようがないから駄目だ。一度落下しておいて何だが二階へ行こう。階段はいつでも使えるのが素晴らしい。ここからだと階段の位置が分からない。まだ無事なマップを見てから奥に隠れた階段へと向かう。
今度は不意打ちを受けまいとライトを先行させて階段を見上げると、踊り場に階段を上る最中のような足がチラりと見えた。
とても、小さな足。
見覚えのあるビーチサンダル。
「冬癒!!」
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