かいる〉「〈何『もいない』し【いなかっ】たの」
助けられた身であれこれ言うのも妙な話だが、連れて行かれそうになる度に揺葉の胸に触るのはちょっと、いただけない。正直に言って、全然そういう関係になるのは歓迎したいけど、時と場合と場所は弁えるべきというか、これで役得とは思わない。むしろ迷惑を色々な意味でかけているので、触った数だけこの後俺は彼女に頭が上がらなくなるだろう。
「こんな対処法ってないだろ」
「何が?」
「胸を触らせる事だよ! ホラー映画とかで見たことあるか? 正気に戻す為に胸揉ませる奴。普通身体を揺らすとか声を掛けるとか」
「基準が映画ってどうなのかしらね。そんな配慮してやる余裕はないわよ。アンタ、道端で女性が倒れてたらAED使うの躊躇うタイプ? あ、ごめん。これは例えが悪かったわね。でも感覚としては近いわ。アンタが手遅れになる前に助けたいだけだから、手段なんて選べないでしょ?」
「だからって―――」
「お兄ちゃんがデレデレしてる……浮気者だ!」
「誰とも付き合ってないって言ってるだろ! ていうか責めるのそっちかよ! 胸触った事には何も言わないってか?」
「だ、だって切羽詰まってる感じだったし」
妹はそこはかとなく揺葉の味方で、更に言うとまだ緊張感が無い。彼女はああいったが、ついでと言っても真面目に守ろうとしてくれるのが美点でもある。だが当人にその実感と緊張感がなくては手が回り切らない事もあるだろう。
「エレベーターとか使えないのか? もし使えたら楽に下りられるぞ」
「こんな廃墟にまで電気通してくれる親切な会社があればいいわね。とっくに止められてるに決まってんでしょ。この廃墟、外から見たらそこまで大きくないけど、簡単に出られるなら苦労しないわよ。今月だけで三人行方不明になってるみたいだから」
「「―――え!?」」
害のない幽霊が現れてくれたら、それだけで冬癒も真面目になってくれると思っていた。それこそ呑気な想定で、実際の被害を聞いて背筋が凍り付いた。恐らく、妹も。
「う、嘘だあそんな訳ないよ。怖がらせようとしたって怖がらないからッ」
「マジだから。携帯で調べてみれば?」
「あ、そっか。お兄ちゃんちょっと止まって。今携帯で調べてるから」
携帯のライトは心もとなく、前方を照らしたとて奥は見えない。亀の歩みも合わされば、階段以前にまず突き当たるかどうかも不安だ。鳳鳳先生とやらのせいで無駄に造詣の深くなった揺葉の発言を疑おうにも、確かにさっき俺は魅入られる所だった。
冬癒が携帯を弄っている間、揺葉を捕まえて耳打ちする。
「怖がらせるにしてももうちょい言い方無かったのか?」
「怖がらせるって言うか、事実だし。私だってちょっと詳しいだけで攫われる危険性はある。それを知っていて欲しいだけ」
「さら…………! そんな事、俺がさせない。隼人に続いてお前までいなくなったら俺は……」
「はいはい。ありがとね。大丈夫、私も死ぬつもりないから。でも再会しちゃうと欲深くなるのね。もっと水着のいろんな場所を見て欲しいし、こんな夜だけどアンタと遊びたかったり」
「俺は大歓迎だけど、それは今までこそこそしてた事に反するんじゃないか?」
「今から私の存在に気づいたって出来る事は少ないわ。後は単に私がそうしたいから……しゃーなし妹をちゃんと帰したら、骨抜きにしてあげるっ」
場を和ませる様に揺葉は持ち前の乳房を手で揺らして微笑みかけてくる。だから今は興奮している場合じゃない。それを神話の一件で良く分かっているから俺も真面目になろうとしているのに、ふざけられる内にふざけておこうと言わんばかりのスタンスは全く変わっていないというか、かえって頼もしい。余裕は大事だ。
「―――で、お前はいつまで調べてんだよ冬癒。流石に時間かかり過ぎじゃないか?」
適当に時間を潰してあげたのにこの様だ。情けない妹に近寄って携帯画面を覗くと、電波は『圏外』となっていた。
「え?」
「さっきから繋がらないの……お兄ちゃんやってよ!」
「……」
そんなバカな。俺は揺葉と話しながらここまでやってきたのだ。ここいら一帯の電波が悪くてそんな真似は出来ない。そう思って自分の携帯を確認したがやっぱり圏外だった。
「揺葉、そっちはどうだ?」
「確認するまでもないわ。圏外圏外。そもそも部屋の構造からしておかしいって事に気づきなさいよ。非常階段の続く先がなんだって個室なのよ」
「……あ! 確かに!」
揺葉は呆然と口を開けて、呆れたように天井を見上げた。
「マジで気づいてなかったとかあり得ないんですけど。アンタでも気づくと思ってたけど、やっぱこういうのって慣れてないと気付かないもんなのかしら」
「いやいや! 俺はだって、お前と会う事で頭が一杯になってて……こんな状況じゃなかったらもっと二人きりで色んな事話したくて……そんなので頭が一杯だったから気付かねえよ!」
「…………そう。私も同じ気持ちだよ硝次君。ちゃんと脱出出来たら、お互いの気持ちをちゃんと確かめ合おうね。こんな場所じゃ、ロマンチックじゃないし」
「ねえ二人でいちゃついてないで真面目に考えてよ! 警察呼べないじゃん!」
「警察……呼んだ所でじゃないか?」
警察が機能するならまず俺はここまで困っていない訳でして。好きでもないクラスメイトのストーカーからまず取り締まられるべきだった、それが機能していない時点で警察は信用ならない。
それを抜きにしても『カシマさま』の神話は最早別世界の話で警察が介入する余地など一ミリもなかった。繋がったとしても元々呼ぶ気はない。冬癒には正気を疑う発言らしい。
「こういう時は警察だよ! 警察呼べば全部解決なんだって!」
「はいはい。呼べないから不毛な言い争いはやめてね。もう行くわよ。長居したら目をつけられるわ」
揺葉に諭され、一先ず廊下の続きを歩く。仮にもホテルの面影はまだ残っており、いたるところに個室へ続く扉があった。一々中を確認する度胸はない、何が起こるか分からないし。
さっき痛い目に遭ったばかりなので窓は出来るだけ見ないように階段を探していると、エレベーターの真横に上下へ続く階段を発見した。
「あった。さっさと下りましょうか」
「なあ。実は上に昇った方がいいみたいなパターンってないのか?」
「さあ? 詳しくないって言ったでしょ。私は先生みたいに危ない場所を隅から隅まで探したりしないの。こんな場所は一秒でも早く抜け出すに限る」
「お兄ちゃん、またお化けになんかされたの? 上に行けばいいって屋上に出るだけじゃん。それよりエレベーターあるから、これ使えば一発だよ!」
「あ、こら冬癒。勝手に行くなって」
「隣じゃん」
離れるのは良くないという話だったのに、早速独断でエレベーターの前に立って俺を手招きする妹。まだライトが辛うじて届く距離だ、行くにしても行かないにしてもまずは近づかないと―――
「うおっ」
廃墟にしては不気味なくらい綺麗な廊下で、足元の何かが引っかかった……否、正しくは掴まれた気がする。反射的に手を挟んで顔面衝突を回避する物の、携帯のはうつぶせに、一時的に冬癒の姿が暗闇に消える。
「ちょっと、大丈夫?」
「いっ……大丈夫だ」
携帯を持っていない方の手を揺葉に引っ張られて体勢を立て直す。
「あ、ラッキー! 電気通ってるじゃん!」
暗闇の中に響く、冬癒の安堵するような声。慌ててライトを前方に向けると、角度がほんの少し悪い。暗闇の中から誰かが冬癒の手を引っ張り、電気の明滅する箱の中へと連れて行かんとしていた。
「冬癒!」
「えっ」
彼女は声のした方向に振り返って、目を見開く。そこに俺が居る事が信じられない様だ。それから顔は前を向いて―――
「貴方誰!? やだ、はなし―――」
「冬癒!」
「ちょっと、硝次君! 駄目!」
助けを求めて手を伸ばす妹。それを掴もうと飛び込み、確かにその手は繋がった。
ゴシャアッ。
「ぎ゙ぁ゙ぃ゙ゃ゙ぃぃぁぅぉぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
閉まりゆく自動ドアが、妹の腕を潰断した。
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