みちにかえひて
「……冬癒。流石に正座」
「はい……」
たまたま通りがかったはまず通用しない。彼女は間違いなく俺を尾行してここまでやってきたと見える。こうしなければならなかった俺とは違って妹はただ楽しく過ごしたいがためについてきた無関係な人間だ。
「何でここに居る? 他の奴らには言ったのか?」
「い、いや……お兄ちゃんが一人で会いに行く人がどんな人なのか気になって。錫ちゃんも夜枝さんも居て、それでも会いに行くんだからよっぽど美人なのかなって……」
「で、私を見た感想は?」
「す、凄く美人……でした」
「―――硝次君。アンタの妹見る目あるよ。許しちゃおうか」
「何でお前が主導権握ってんだよ。まあ無事に俺達の所まで来られたなら何よりっていうか……何処から見てた?」
冬癒が他の三人に黙って俺を尾行したのは許されないが、俺の所まで来てくれたならトントンとしようか。一緒に帰ればまあ危険はない。それより気にしているのは純真な冬癒に何処までやり取りを見られていたか。
思い返すも恥ずかしい。気持ちが高ぶっていたとはいえあんな風に再会を喜ぶなんて。鏡なんてないから自分の表情を繕う暇もなく、確認する術もない。だが先程から顔が熱いのは確かだ。
それは妹に見られたかもしれない羞恥心なのか、それとも揺葉と再会出来てかつてのトキメキが戻ってきたのか知らないけど。
「ど、何処って。結構すぐ。来た瞬間お兄ちゃんに見つかったよ。途中で見失っちゃってさ。行ける場所色々探してたら、こっちかなって階段があって。上ったらお兄ちゃんが抱き合ってた」
「…………そうか。なら良かった。恥ずかしいは恥ずかしいけどそれくらいなら。なあ揺葉」
「…………今、なんて言った?」
「え?」
揺葉は目つきを険しくしたまま冬癒を横切ってドアノブに手を掛ける。
ガタン。
開かない。
「え」
「え」
「…………ああ、そう」
パレオを翻し、揺葉は妹の肩に手を置いた。
「ねえ、見失ったって本当?」
「は、はい」
「そこから疑うなよ。こんなに暗い夜だし、見失うくらいあるだろ」
「私が見えてたんだから背中ついてるだけの子が見失うなんて考えにくいわね。そんな複雑な道も歩いてないし。現にこの扉鍵がかかってるし」
そんな訳がないと今度は俺が挑戦するが、確かに鍵がかかっているようだ。だが鍵をかける側に居るのに鍵がかかっているというのは解せない理屈だ。だがそうとしか説明できない。扉は内開きで、外側に物が置いてあってもまず開くのだから。
「え、え、え? お兄ちゃんちょっと何してんの? どいて、私が開ける!」
現実を認められない妹が再挑戦。結果は以下略。
「あー。これ。場所間違えたわねー。万が一にも硝次君を監視してる奴を振り払う為に選んだんだけど、これじゃ元も子もなく危ないかな」
「……? 廃墟は確かに倒壊の危険性はあるけど、流石に大袈裟じゃないか?」
「あ、それ錫ちゃんも言ってたよっ。夜は出来るだけ窓の外を見ないで、狭い所にも行かないようにって。どうしても遠出したいなら自分か先生を頼ってみたいな」
「お前それ言われてたのに一人でこんな場所にとことこ現れやがったのか!?」
「のこのこね」
「だ、だってお兄ちゃん心配だったんだよ? 妹の気持ち、汲んで欲しいなーなんて!」
「さっき揺葉がどんなんか気になったって言ってたよな」
「人が頑張って吐いた嘘を見抜くお兄ちゃん嫌い」
「お前なあ……んなアホな事言ってる場合じゃないだろこの状況」
どうしてここに温度差があるのかを考えれば必然。いや、ほんの少し前だったら俺は冬癒と同じ反応をしていただろう。違いは『神話』の世界を体験したか否か。あれ以来、世界の見え方はまるっきり変わってしまった。元々呪いなんてものを探っていたから現実主義を気取って頭ごなしに否定する事もないが、実際に味わったかどうかは大きな違いだ。味わってみて俺は、その恐ろしさに気づかされた。
―――また、怪異だか何だかかよ。
正直、あれでお腹いっぱいだ。もう不思議な現象は沢山。対処しきれる気がしない。
『……ここ、妙な気配がするので、そうとも限らないですね』
錫花の言葉が脳裏を過る。妙な気配とは霊的な気配。そしてその正体が水鏡でない俺には分からない。分からない物は怖い。
「揺葉、脱出しよう。嫌な予感がする」
「奇遇ね。私も嫌な予感してたのよ。こっちが開かないんじゃ建物側から抜けるしかないか。アンタは妹と手繋いでな。私が先導するから」
「大丈夫なのか?」
「あのね、鳳鳳先生はこれより酷い状況から脱出したのよ。つまりそのファンガールである私が白旗を挙げるなんてあってはならない訳。最初から想定してた訳じゃないけど、これくらいのリスクは回避しない…………」
廊下へ続く扉を開ける。廃墟としては当然の如く暗闇で、だが不思議な事に少しの損壊もない。壁が開けば多少なりとも月明かりが入るものを、辛うじて光が差すのは汚れた窓ガラスのみ。
壁は汚れているが、部屋のボロさとは打って変わって造りそのものは無事であった。
「…………と」
「なんか……綺麗すぎない?」
部屋の方に入ろうとする冬癒を引き止める。神話の世界の経験ではないが、たとえ距離が近くても空間を変えるのは良くない気がしたのだ。揺葉も連れて再度部屋に戻ると、やっぱり景色は元のまま。
一番安全な帰り方はここから飛び降りる事だけど、それは要するに自殺だ。脱出する風景がおかしくても俺達にはまともな手段を頼るしかない。
「……一応チャレンジしたけどやっぱり非常階段には行けないみたいだし、行くしかないか。ここの噂、結構嫌なんだけど」
「どんな噂なんだ?」
「…………………」
歩きながら話すと言って、揺葉は諦めたようにライトを手に歩き出した。
「ここの噂って言うけど、そんな物はないわ」
「あ? 『カシマさま』みたいなのないのか?」
「まことに変な話だけど、特定の噂が存在しないって言えば正しいかしら。二日前聞いた噂は翌日また別の噂にすり替わってる。嫌な噂ってのはつまるところ、その変な状況の事ね」
「えっと、お兄ちゃん。私この人が何言ってるか全然分かんないや」
「安心しろ。俺も良く分かってない。まあでも流行なんて案外そんなもんだろ……って言いたいんだけどな。花子さんはいつまで経っても花子さんのままだし、お化けの話となるとそうもいかないか」
「そう。怪異が居るにしても居ないにしても噂が一定しないなんておかしいの。だからここには長居したくない。何が起こるか全くわからないから。でもそんな危険な場所だからこそ安全にアンタと話出来るとも思った。今は後悔してるけど、無事に脱出出来たら儲けものよ」
「あ、そうだお兄ちゃん。早く脱出しないと夜枝さんが心配しちゃうよ。花火やるって言って楽しみにしてた!」
「冬癒。焦らせるのは分かるけど今はそんな場合じゃなくて―――」
声はライトの明滅と共に途切れる。
窓に移り込んだ女性の顔に、背筋が凍り付いていた。
「――――――!」
数秒、もしくは永遠の釘付け。真っ黒い眼孔から血を流した女性と目が合っている。意識は遠のく様で近づいて行く。聞こえる限りの音は離れていき、ただ思考が、統一され。死。死死、死、死、し。
「硝次君!」
声は届かず、ただ漠然とした感覚が響くのみ。果たしてこの催眠状態を解いたのは、彼女の胸の感触だった。
「――――――えっ」
知らず恐怖で体が硬直し、乳房を水着越しに鷲掴みしている。反射的に手を遠ざけるべく視線はそちらに寄って、ついでに間違いが起きぬように距離を取った。
「な、何を!?」
「怖気に勝りしは邪心。わざわざ水着を着てあげたのも、半分はこれの為かな。アンタが私の事が好きなのは本心でちょっと安心した。でも……はあ、これからは心配ね。こんな簡単に魅入られるなんて」
「え、え、ええ? お、お兄ちゃん何があったの?」
「いや、俺は…………窓に目をやったら女性が…………」
「妹ちゃん、この人はお化けを見て、危うく連れて行かれそうになったのよ。いい? 私がいつでも気づける訳じゃないから、コイツが怪しいと思ったらすぐに知らせて、いい?」
「は、はーい!」
「いい妹じゃない、硝次君。素直なのは好きよ」
「…………これ、冬癒を守ってるんだよな? 俺が護られてるような」
「私はアンタを守れるんだったら他とかどうでもいいから。勘違いしないでよ、もしその子を守ってるように見えるんだったら、それはついでだからね」
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