朱の相識揺れる葉に次ぎ往来す

 こんな寂れたホテルを待ち合わせ場所に指定するのはどうかしている。扉を開けるのも一苦労だ。よく見ると蝶番が錆びて歪んでいた。開けるとは言うが実際は壁を押すかのような固さを無理やり押し込んだに等しい。久しく機能していなかった蝶番が耳障りな軋みを上げて部屋全体に来訪者を告げた。

 こんな場所にまともな光源など見込める筈もない、携帯のライトだけが頼りだ。ここがどんな事情があって潰れたかそれは知らないが、上の階だからか瓦礫に塗れているという事はなく、ただ長い間人が立ち入らなかった事による劣化だけが如実に表れている。埃をかぶったソファや足の取れた椅子、変色した絨毯などがその証拠だ。壁紙は切れて壁その物にも穴が空いている。部屋の隅には小さな冷蔵庫を発見したが電気が通っていないし中身もない。当たり前か。

「…………」

 いない?

 部屋が幾ら広くても、暗くても、所詮は大きな部屋に過ぎない。携帯のライトが思ったよりも弱いのだろうか。ベッドの方に光を向けると、誰かが座っていた痕跡があった。マットが凹んでいるし、ベッドに積もっていた埃が払われている。まさかこんな年齢にもなってかくれんぼをして遊んでいるのか。


 ―――いや。


 そう言えば、ここはホテルだ。小さな家なんかじゃない。窓の外にライトを向けると二人分の椅子と一つの机が外側の景色に向けられている。そこには一人の女性が座っていた。後ろ姿から見えるその髪はギブソンタックとして纏められ、まとまった印象を受ける。

「………………っ」

 ライトを消して窓を開ける。彼女が外に居るなら光源は必要なさそうだ。月の光で十分。ここはそれだけ、光の当たりが良い。椅子に座って、丁度前方にある月を見上げる。

「…………水着着てたからすぐわかった。こう見るとあれだな。海でもプールでもないのに水着着てるのは、おかしいな」

「そ。私もそう思ったからパレオ着たのよね。脚出してるのなんか恥ずかしくなっちゃった……こんな話しに来た訳じゃない、そうでしょ?」

 椅子の向きを変える揺葉。今度は仮面を着ていない。切れ長の目と、桜色の唇。昔に比べて光を失ったような瞳は本人の気持ちを表しているよう。月明かりに浮かぶ顔を見て、やっと思い出した。記憶にかかっていたモヤが晴れていく。



「そっちからすると久しぶりになるのかな。やっと、ちゃんと会えたわね」



 活発で、朗らかで、優しく。見てるこっちが元気を貰えるような笑顔。何で忘れていたんだろう。時間が経っても忘れないつもりでいたのに、少し遠くに行ってしまっただけで俺の脳は、記憶は、いともたやすくこれを忘れてしまっていた。

「揺葉………………その」

「分かってる。懐かしむのはまた後ね。その前に、これを渡しておくから好きに使って?」

 そう言って彼女が机の上にポンと置いたのは新品の包丁だ。こんな寂れた場所には似つかわしくもない、ついさっき店で買ったと言わんばかりに煌めいた刃物。

「……これは」

「どう使うかは任せるわ。私も馬鹿じゃない。アンタから見て私がどう見えるのかは……理解してるつもりだから」

 水着姿だから刺しやすいでしょ、なんて揺葉は笑って見せる。まるで微塵の恐怖もなく死を受け入れようとするその姿勢に、俺は己が臆病さを恥じ入るばかりだ。だが同時に理解出来ない。

 俺の気持ちを知っていて、それを恨む事も怒る事もなく受け入れるつもりもあるなんて。

「単刀直入に聞く。隼人を……俺の親友を殺したのは、お前…………なのか」

「………………そうよ」

 揺葉は立ち上がって、ベランダの縁に手を置いて空を見上げた。




「隼人君に頼まれたの」




「…………は?」

「信じない? ま、そりゃそうか。じゃああの時の事話したげる。あの時って、分かるわよね」

「……隼人が死んだ時だな」



『あ! 都子が近くに来てるらしいわ! みんな、探しましょうッ。硝次君を捕まえようとしてるのかも! 止めないと!』

『…………………………』

『……久しぶり、隼人君。こんな形で再会なんてしたくなかったけど』

『…………ゆる、は? 何で……お前』

『今は初乃ういのだから、気づかなかった? 高校なんてそんなものよ。別のクラスだったし、みんなは初乃って苗字の方を呼ぶし、貴方に関わろうともしなかったし。ねえ、どうしてこんな事になってるの? 私はこんな呪い、掛けてない』



「私は隼人君の事、どうしても男の子としては好きになれなかった。告白してくれればさっさと振って友達付き合いしたかったのに一向にしてくれなくて。正直……そこは鬱陶しいなって思ってたわ」

「鬱陶しいって……お前は隼人を何だと思ってるんだよ!」

「大切な友人? 知人? アンタ、私と二人きりの時の隼人君がどんなか知らないでしょ。結構押してくるのよ。なまじっか自分がモテたから行けるって思ったのかしら。それが、三人でつるむようになる前くらいの話で……あんまり鬱陶しいから、呪いを掛けたの。私に粉を掛ける暇もないくらいモテモテになってくれたら諦めてくれるかなって。勿論、他に彼女が出来てくれるならそれは応援したわよ」

 俺の知らない隼人。俺の知らない揺葉。知る由の無い二人の悩み。親友なのに何も知らない。誰も教えてくれなかった。知る頃には、一人はとっくに死んでいた。

「アイツの異常なモテはそれが原因。でも、諦めてくれなかった。友達に飢えてるアンタに取り入ってまた私に近づいてきた。友達付き合いは歓迎だけど、やっぱり恋人はノーセンキュー。私はアンタにトキメキっぱなし。今だって……このまま死にそうなくらい、ドキドキしてる」

「……でもこっちに戻ってきた事くらい、教えてくれてもいいだろうに。アイツと二人きりが嫌なら俺にだけでも」

「アンタ、教えたでしょ絶対」



『いつ、戻ってきたんだよ……』

『中学の頃に両親が離婚しちゃったのよね。でも硝次君の事は諦められないから戻って来ちゃった。貴方達に近寄らなかったのは……分かるでしょ。貴方の事、男としては好きじゃないから』

『…………何だよ何だよ。そういう事かよ。変だと思ってた……ハア……お前も、呪いを掛けたんだな。どんな呪いだよ』

『お前も…………?』



「全く偶然よ。未だに健在だった私の呪いで隼人君を好きな女子に混じって、私はアンタに呪いをかけた。望んだ願いは『私の事を考えるようになる』事。誰かを呪うのに手っ取り早いのはそいつに関係ある物体を使えばいい。アンタの髪の毛とかね。呪いって言うけれど、何事も使い方よ。こうして縁を結んでしまえばひょんなきっかけからアンタとだけ再会出来る。そう思って実行した」

 その呪いは、今も効力を発揮しているのだろうか。思い返すと、どんどん揺葉に甘えている自分が居た。揺葉だけはと、それだけを支えにした時もあった。それは全部自分の意思だと思っていたけれど、まさか呪いの力だった……のか?

「でも私の呪いだけじゃそうはならない。隼人君も呪いを掛けてたみたいね。どうやってやり方を知ったかは分からないけど……アイツは、『新宮硝次がモテる』呪いを掛けた」

「…………いや、それは変だ。だってアイツは、アイツが俺に向かって呪いを掛けたのはいいとしても、それじゃ立場逆転なんてしない」

「その話は知らないけど、自分が呪われてる事に気づいてたんじゃないの? 私だって他の女子が隼人君に掛けようとした呪いをぶんどって利用したんだし。それなら話は分かるでしょ……でもね、そこでお互い気づいたのよね」



『…………妙、だな。俺達が呪い……ッ。掛けても、こうはならねえだろ。本当に、俺に対する『ヤミウラナイ』は…………成立してないんだよ、な』

『オカルトも科学も手順が肝要。一工程を抜くだけで壊れるんだから、成立してる筈がないわ。でも硝次君がモテるようになる方は取り敢えず機能してるみたいだから……こうなると、誰かもう一人、同じ機会に呪いをかけたと見るべきね』

『…………どんな』

『それは分からない。隼人君だってそれを調べてたんじゃないの? 私の事は知らなくても、何か変だって』



「そう、隼人君は最初から分かってた。いや、自分のせいだと思っていたからこそアンタに協力したし、死んでも打ち明けられなかった。女子の行動はおかしいけど、元を辿ればアンタをモテモテにしようとした自分が悪いってね。自分がどんな目に遭ってもそれは自業自得で、責任もって解決しようとしてたの」

「…………」

 何も言えない。一方的に呪いを掛けられた側としては正直に言って欲しかったという気持ちはあるが、逆の立場ならどうだ。俺は言ったか? アイツがどんな理不尽な目に遭っても、それは全て俺が悪いと言えたのか? 言えないだろう。

 逃避だ。被害の大きすぎる事件の首謀者に予期せずなった人間は、その事実に耐えられない。事実であっても否定をする。認められない。そうじゃないと押しつぶされてしまうから。

 むしろ隼人は立派な方だ。俺には黙っていても、解決させようとしたのだから。

「―――ちょっと待った。呪いについてあんま詳しくないんだが、それの元になってる物体を壊したら元通りになるんじゃないのか?」

「そうね。壊した奴にどんな影響が出るかは分からないけどその通りよ。だけど……持ってかれたらどうするの?」



『持っていかれた? 誰に?』

『俺に……聞くなよ。誰か分からない。だからどうすりゃいいか分からねえんだ…………うっ! 俺のせいで……こんな事、なったのに。俺は、良かれと思って…………………』

『…………』

『―――違う、な。アイツに、お前を忘れて欲しかった。お前が好きだったから、欲しかったんだ。なあ、揺葉。アイツの何処がそんなに……俺と、何が違ったんだよ』

『最初に馬が合ったのがアイツだった。一緒に喋ってると楽しいのよ。センスがあるとかないとかじゃなくて精一杯楽しませようとしてくれる所とか。女の子扱いして、ちゃんと守ってくれようとする所とか。普段は何だか情けない感じだけど、そういう頼りなさそうな時は放っておけなくて、支えたくなる。一々反応がいい所とか面白いし、純粋だから裏なんて考えなくていい。気楽なのにときめかせてくれるなんて最高じゃない』



「さっさと告白してきてくれたら教えてあげたのに、本当に残念な奴……元を辿れば悪いのは私なんだけどさ。アイツをモテモテにしちゃったせいでこんな事になった。私が鬱陶しく思ってそんな事しなかったら、モテたとしても程々で、こんな事にはならなかったでしょうに」

「そんなに言うなら、解除してやれば良かったんだ! そうすりゃアイツは……」

「その解除するべき呪いを基盤にアイツはアンタに呪いをかけた。何もかも遅かったのよ。後悔してもしたりない。お互い、自分の為に呪いを行使したら巻き込みたくもない人を巻きこんじゃった」

 『無害』がそれ故、女子からも男子からも好かれず嫌われず、微妙な立場を築けたように。

 隼人は隼人でモテすぎるがあまり、いざ自分を好きになってくれない女子を振り向かせる術が分からなくなった。

 元はと言えば揺葉が悪くなるのは道理だが、俺にそれを責める気はなかった。元は元はと遡り続ければ、そもそも彼女と俺が出会った事が間違いだった事になる。それだけはあり得ない。間違っても俺が否定するものではない。

 


『…………なあ揺葉。頼みがある。俺をさ…………殺してくれよ』

『―――貴方、自分が何言ってるか分かってんの? 硝次君がどんな顔するか想像も出来ない訳!? 別に私は殺したくて二人きりになったんじゃない! ただ硝次君と対になって明らかに貴方が災難に遭ってるから原因を知ってそうだと思って……!』

『頼むよ。いつアイツが来るか分かんねえ…………足手まといに、なりたくねえんだ。瀕死の俺は、その内攫われて……女子がアイツを呼び出す為の餌にするだろ。だから…………』

『それが本音? 本当に?』

『……………………………もう、アイツの目を見れねえ。俺を味方だと思ってる目に耐えられないんだ。悪いのは……俺なのにさ。こんな事なら隠すんじゃなかった……でも、隠すよな、俺は。アイツに、嫌われたら……って思うと』

『……………………………それだったら、嫌。アンタを殺したら硝次君に嫌われる。こんな風に結構喋れてるんだから、病院に連れて行けば助かるのよ。そんな奴殺すなんてイカれてるわ』

『そんなもん……かよ。お前の好きな気持ちは』

『は?』



「硝次を不幸にし続けるのと硝次に嫌われるの、お前は嫌われたくないからって好きな人を不幸にするんだなって言われてね」

「…………殺した、のか」

 揺葉はこくりと頷いて、顔を背けた。

「毒薬を持ってたの。アンタに肉体関係迫る女殺す為にね。最後、アイツは笑ってたっけ。『卑怯でごめんな。アイツを助けてやってくれ』なんて言って。ほんっとに! 最後まで自分勝手すぎる! 私は嫌われてもいいからアンタを助けようとしたのに、一人だけ……嫌われるのが怖いからって、死ぬなんて! 私に言った言葉そのまま自分に向けてやりなさいよ! …………後は分かるでしょ。遠くに居るという体でアンタのサポートをした」

「………………それ、何でだよ。俺を助けるなら、姿を現してもいいじゃんか」

「それは無理ね」

 揺は包丁の刃をわざと自分側に向けて、きっぱりと頭を振った。

「私と隼人君だけじゃ人がこんな大量に死ぬようなことにはならない。もう一人誰かが噛んだとして……そいつはまだ私の存在には気づいてないと思ったわ。アンタに呪いを掛けたって事は、見ているのは隼人君とそれに群がる女子とアンタの三グループ。だからあの町で接触なんてしたくなかった。今は遠出してくれた上に夜だから、ある程度安心してるつもり。ま、そいつが誰かは分かってないんだけどね…………何にせよ、私が隼人君を殺したのは事実よ」

 剥き出しのお腹。どんな素人でも貫ける。





「犯人を殺したいんでしょ? 報いを受ける覚悟は出来てるわ。騙してごめんね硝次君。ここには誰も来ないし見られもしないから―――幾らでも、殺してくれていいわよ」

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