亡月王を言いたまへ

 惨めに、哀れに泣き叫んでいた時間は実に短い。何故ならそんな事をしても事態は好転しないと早めに悟ったから。

 そしてそれは俺が理知的で冷静だったから気付いたのではなく、身体に設けられたタイムリミットが思いのほか早かったからに過ぎなかった。腕と背中、それに耳の裏から産まれた膿は産声を上げてその存在を認知させようとしてくる。育児で精神を病む母親は多いと聞いたが、成程気持ちが良く分かった。こんなにうるさくて不愉快で、しかも目的が分からなかったら誰だって狂う。


 ただその狂い方が、俺は少し違っただけ。


「…………」

 押して駄目なら引いてみろ。狂って泣いて、助けを求めて何も起きないなら、自分で頭を使って何とかするしかない。元のままの俺が一番良いと言ってくれる奴が居る限り、新宮硝次に狂う事は許されない。


 命が懸かっている。

  錫花との約束もある。

   先生の事が心配だ。


 現実は、何のかんのと助けが来るものだ。訪れる災厄は少なくともその範囲では常識的で、必ず理がある。一方ここは神話の内側。その筋の人間には常識的であっても、俺は全くその常識を知らない。

「……」

 膿を潰すのは逆効果だろう。それは血の海に沈む多くの死体を見て導き出した一つの結論だ。出た膿の全てが産声を上げている訳ではないと気が付いた。その共通点は、潰されていたかどうかだ。

 何故駄目かは……知識が無いなりの考察だが、単純な話だ。膿は赤ちゃんの代替であり、冬癒の友達が『うみに捧げる』と言っていたのは要するにご飯をあげようとした訳だ。

 至極真っ当な価値観があるなら、赤ちゃんを虐待していいとは思うまい。

 駄目なのはそういう事だと睨んでいる。だからどんなに煩くても手を出すのは駄目だ。今現在、両親との関係は良くもなく悪くもない微妙な距離だが、俺が赤ん坊の頃に手を出していたなんて事は無いだろう。

 そうだ。泣いたって何も分からない。考えろ。俺は赤子ではなくて、一人の人間だ。ここは何処で、どうすれば出られるのか。常識を捨てろ。ここに来た経緯なんてどうでもいい。

 血の海をずっと歩いてきたせいか、今はずっと足が軽く感じる。進めば希望はある筈だ。常識を捨てるとは突飛な行動をしようという意味ではない。方向が合ってるかどうかなんてどうでも良い。結局何処に進んでも、この空間には必ず答えがある筈だ。


 オギャアアアアアア! あぎゃあああああああああああ!


 『カシマさま』の事なんてちっとも分からないが、神話を聞いた限り彼女は己の幸せを何より喜べる女性だった。だから結婚も、決まった時は本当に嬉しかったのではなかろうか。持て囃されて悪い気がしない……裏を返せば、己の容姿や経済的な立場、性格にコンプレックスがあったという事だ。自分だけが否定してしまう中で周りが肯定してくれる。果たしてその歪みは、最悪な形で実現してしまった。

 誰かが彼女を、生贄にしなければ。

 その時代、その場所にて実際にあったかどうかは今となっては大した問題じゃない。俺達は神話の中に居る。そこから脱出したいなら、読み解くのは当然の道理だ。

「…………選ぶのは、俺なのか。それとも先生なのか」

 周囲の肯定が極まった中で、その結末として彼女は死んでしまった。そう、彼女は自分が正しい事を思い知ってしまったのだ。他の自分を称えるどんな声も全ては偽りだと確信してしまった。覆る事のないまま死んで、俺達が巻き込まれた。

「どちらにせよ、目的が見えてきた気がする。素人意見だけど」

 足元に金属の感触。跪いて海の中に手を突っ込むと、錆びた手枷が転がっていた。神話の中に存在する物体には必ず意味がある筈だ。ここに来るまでに見た凄惨な光景の数々は、ここで行われた凄惨な歴史を端的に示していると見ていい。

 ならばこれは、使うだろう。

 手枷を自分の右腕につけて、先に進む。


 オギャアアアアア! ギャアアアアアアアアアア! イヤアアアアアアアアアア!


「…………」


 痛い…………痛い…………くるシイ………………


 血の海を引きずる手枷に大量の髪の毛が引っかかっていた。カシマの物だろうか。左目が膿んできて、視力を喪った。産声があんまりにも煩いから聴力も弱りつつある。右耳はもう壊れた。産声しか聞こえない。

「………………」

 景色が変わる。

 海に浮かんでいたのは死体ではなく、大量の手首だ。這い上がる事さえ許さない為に手を切断したのだと思う。段々手枷が重くなってくる。血を吸っているのか、それともまた何かが引っかかったのか。


 いずれにせよ、もう振り返らない方がいい。


 理由はないがそんな気がする。

「…………痛い」

「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいいいいいいいいいいいいいイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ!」

 プカ、と場違いに死体が浮かんできて、俺の方にゆっくりと流れてきた。お腹が膨らんでいるので妊婦であろう。お腹は力任せに引き裂かれており、中には粘土で作られた赤子が転がっている。

 拾い上げようとすると、それを重しにして更に何か残っている事に気が付いた。簪だ。これが無関係ならもうどうしようもない。拾ってポケットの中にしまう。


 ―――――――造られた赤子を、じっと見つめる。


「かわいいな」

 愛おしさとは、見出すものだ。目も鼻も口も潰れ、奇形に果てた不細工な子供が何よりも愛おしい。段々泣き声はこの子が言っているような気がしてきた。

「めにいれてもいたくない。かわいいかわいい。わがこのようにあいらしい。みずこのようにいたましい。はいはいなきむしなきむし。だいすきだよ。ほんとうはだれにもわたしたくなくて。とおくにもいってほしくなかった。ずっとそのほうほうをかんがえてたけど、おもいついた♪」

 口を開けて。頭からかぶりつく。





「たべてしまえば、はなれないね?」

















「え、センパイ?」

「はあっ……うっ!」

 水面から一気に飛び上がった様な感覚。身体は急速に酸素を欲し、呼吸が自動的に激しくなる。

「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」

「センパイ、しっかりしてください。まだ生きてます。大丈夫です」

「はあ、はあ、はあ、はあ………………すず、え? 夜枝?」

 正常化した視界に見覚えのある仮面。だが声は夜枝であり、その服装も白無垢ではなく、制服だった。神話を知らない彼女が何故ここに居るかはさておき、俺は…………何故本殿の裏側に居る?

 振り返ってみれば単純で、水の入った木箱が開かれていた。中にはついさっき見たような血だまりが溜まっており、寝転がれば丁度身体の半分が沈む。内側の至る所に膿の欠片が散らばっており、溺れていたという事は、さっきまで俺はこいつを摂取していた可能性が高い。

 だが不思議と吐き気はなく、気分も優れている。


 身体から飛び出してきた膿は、そのままだが。


「うわあああああ!」

「膿、ですか。今のセンパイは控えめに言って相当醜いですけど、それが必要な準備なんですね。だったら私は何も言いませんよ。今はなんか病気とか感染りそうだから襲わないで欲しいですけど♪」

「……何で、ここに」

「錫ちゃんに神話を教えられて引きずり込まれちゃいました。向こうでドライバーを見つけたのは運が良かったですね。訳も分からないで歩いてたらこんなの見つけちゃって。まさかセンパイが閉じ込められてるなんて思いませんでしたけど」

 木箱の中には、俺が中で拾った簪と手枷が入っていた。改めてそれを拾い上げてポケットに収める。

「―――何処まで聞いた?」



「センパイに協力しろって言われただけですけどね。で、錫ちゃんから何を言われたんですか?」

 



 俺はすっかり血で濡れた紙切れを夜枝に渡して、その真意を読み上げた。文字は滲んでいて読むのは難しいと思ったのだ。

「『カシマさまは未婚で処女の女性を住処とする。湖岸先生は現在カシマさまの眼になっています。先生を連れて探索を続けてください』だ」

「…………えっと」

「お前がどういう経緯で来たかは知らないけど。錫花はまるで取り憑かれたみたいにおかしくなって別行動になった。でもアイツはカシマさまのターゲットから外れる為に敢えてそういう真似をしたんだ」

 とはいえ、それをする意味が分からなかったので困惑していたのは本当だ。何の為にそれが必要だったか。わざわざ眼と表現している事、そして何ら変わりない先生の態度から、ある程度見えてくる。

「先生はまだ眼になってるだけで取り憑かれてる訳じゃない。錫花があのまま一緒に居たら、取り憑かれるのは錫花だったんだろうな。だから花嫁として不適格な言動を繰り返して、さも俺から見限られたかのような演出を取った。花婿に見立てたのかな」

「…………それ、推理ですよね? センパイの。それにしては具体的な気がしますけど」

「神話の世界に居ると段々分かってくるんだよカシマさまの心が。あの人は結婚を後悔してる。そして多分やり直したいと思ってる。別の、美しい身体で。錫花は多分―――先生に取り憑かせて、どうにかするつもりなんだろうな。そのどうにかってのは分からないけど」

「殺すんですか?」

 途中参加なりの、率直な質問。俺は、分からないけどと前置きをして、続けた。





「先生は死にたがってる節が今でもある。俺の知らない所で二人がそういう約束をしてたとしたら―――十分あり得るな」

 

  

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