幻想婚期の花嫁贈り
「…………う、うう」
溺れていない。身体は半分程沈んでいるが、それは四つん這いになっているからだ。暗くて自分が何処に居るかも分からないが、記憶はハッキリしている。井戸から出て来た顔に引きずり込まれて、ここに来たのだ。
頭が痛いのは、落下先で打ったか。
死んどけよ。
そこは人として死んでほしかった。生きていたのは良かったが、死ななかったせいで痛みは尋常ではない。だが意識がクラクラしているから視界が悪い訳ではないだろう。記憶を頼りに上を見ても、地上の光は届かない。
身体の半分が沈んでいる事からも井戸の中に居るとは思う。ただ、これを単なる地下水とは言いたくない。それなら何故浸かっている部分が生温いのだろう。腰から下は完全に浸水しているが、俺の携帯は防水仕様なので機能は無事だと信じたい。
「…………良かっ」
電源がついたので光源として信用はしていいようだ。そう思ったのも束の間、画面を覆う水滴の色は赤かった。
「うわっわ!」
四つん這いになって身体が沈んでいた関係で、服を使って画面を拭こうとするのは得策ではない。それでも背中側が無事なので、画面を背中に擦りつけて血を拭き取る。それの意味する所なんて一つしかないが、脳が理解を拒んでいる。ちゃんとライトをつけてこの眼で確認するまでは信じられない。
携帯のライトが照らす前方およそ一八〇度。隙間なく詰め込まれた血という血。僅かに水の混ざった血の大海がそこには広がっていた。
「…………ッ!」
ただ水が赤いだけ。そういう風に認識すれば耐えられると思ったが、駄目だ。思い込もうにも、このキツイ臭い。一瞬でも『血』と認識したせいで、殊更に感じている。
思い込んでどうにかなるのは視覚情報までだ。身体が感じる、例えばこの粘性、例えばこの臭い、例えばこの状況。ほぼ無音ながら俺が居る事でわずかに揺らめく水音と、少し声を出しただけで何処までも響いていくこの反響。
思い込みでどうにかするには事実を確定させる情報が多すぎる。
「う…………うぐ……」
充満する生命の香りに意識が麻痺していくようだ。つまりここは閉塞空間で、井戸から落ちたはいいがそれとは無関係に何故か密室に居るらしい。自分では平静を装っているつもりでも、水面の揺れが全てを教えてくれる。
「す、進まないと」
独り言の癖はないが、声に出さないと挫ける気がした。一歩を踏み出すだけで足が重い。躊躇いとか精神的な理由ではなく、衣服が吸った血が存外に多かっただけの事だ。
ライトに照らされた範囲だけを信じて足を懸命に進めていく。歩いているだけなのに、血の海をかき混ぜていたら何か浮き身が出てくるのではと怯えている。まずここが何処かなんて考えなくていい。今はとにかく脱出して、先生と合流しないと駄目だ。
「かぁぁぁあえええシいいいいいテエエエエ わたシ からだ アアアア」
空間に響く嘆きは、心の底を冷えさせる怨嗟の声。意味を考えない。振り返らない。感情移入を決してしない。これが失われた何かを求める、幸せを奪われた女性の声なんて想像するな。
「婿様ト シあわセの せい」
脳みそに鳴り響く声は甘美で、明確な意識と人間的な理性を薄れさせていく。これ以上ここに居てはいけないと何かが警鐘を鳴らしていた。だが出口は何処だ? 今は前に進んでいるが、これが正しい方向かどうかは誰も教えてはくれない。
オギャアアアアアアアア ギャアアアアアアアアアアア アギャアアアアアア!
「……なんだ?」
進んでいる内に、恐れていた自体が起きた。浮き身だ。もっと言えば夥しい量の死体。その身体を突き破って出て来た膿が産声を上げていた。そこに口はないが、確かに生きているかのように脈動している。
特に大きな産声を上げているのは女性の死体だ。うつ伏せになっていて顔は分からないが、冬癒の中学校の制服を着ている。脊中におぶられる様に生えた膿は縦長になっていて、赤子のように震えていた。
―――耳が。
赤ん坊の声は、甲高くて煩い。
確か救急車のサイレンも緊急性を伝える為にこんな不愉快な音にしているのだったか。産声は何重にもなって空間に響き、俺を侵食してくる。頭が割れそうだ。冗談ではなく、何かが俺の頭を突き破って、生まれようとしている気がして。
ブツッと皮膚が割けたような痛みが手の甲に走る。ライトを向けると、小さな膿が顔を出して、俺に笑いかけていた。
「うわああああああああああああああああああ!」
ざぶざぶと死体を掻き分けて前に進む。出口は見えない。正しい気がしない。俺は一生ここに居なければならないのか。膿の苗床として、或いは発生源として、ここに転がった死体の様に過ごさなければならないのか。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!
それだけは出来ない。そんな、人間としての尊厳を投げ捨てる様な人生だけは過ごしたくない。
「先生! 錫花! 夜枝! 助けてくれえええええええええええ!」
情けなくたっていい。
こんな死に方だけは嫌なのだ。これで誰かが幻滅したとしても、それでいいから助けて欲しい。好感度とトレードオフの命なら命を優先する。当たり前の事だ。
「嫌だ! 死にたくないいいいいいいいいいいいいいいいい!」
「……新宮硝次君?」
彼が戻らなくなって、数十分。様子を見に行ったけど、裏側には誰も居なかった。
「…………」
錫花ちゃんと一緒に読み解いた資料が正しいなら、特に『カシマさま』は惚れた相手に執着を見せる。そもそも私に井戸なんか見えた事は一度として無かった。
家の中には生活感があったけど、片っ端からひっくり返したみたいに散らかっている。血の道とは違うけど、足元から乾いた血がにじみ出る部屋があった。
「…………」
そこは最後に調査する事に決めて、手早く他の部屋を回っていく。やっている事は昔と変わらない。私の好きだった子は頻繁に姿を消すから、女子総出で探す時はこんな感じだったっけ。
「…………」
台所の横の部屋にあったのは、死体の埋め込まれた膿の苗床。足元に転がっている包丁にはその欠片が付着していて、どうも果物よろしくこのぶよぶよした黄色い肉を収穫しているらしい事が分かった。
苗床、とは言うけど。膿は栄養を与えれば増えるものでもない。それっぽく見えるからそう言っただけ。
「……楓君」
彼なら冗談の一つでも言って場を和ませてくれたかな、と妄想。でも残念。もうそんな事は起きない。だって私は、彼の気持ちに気づかなかったから。大丈夫、怖がってなんかいない。私には何となく、気持ちが分かる。
これは、美しいモノなんだ。
化粧の為の材料に近い。悪趣味でしかないけど、カシマ様にとってこれは美しさに直結する素材。だから育てている。培養……って言った方が良いかもしれないけど、設備的にはやっぱり正しくない。
包丁から膿を払い落として、もう片方の手で握り締める。武器は多い方がいい。鉈よりも取り回しがいいし、最悪、彼に護身用の武器として渡せる。見るべき部屋はあと一つ。
血の滲む部屋を開けると、数を見誤るバラバラ死体が堆積していた。大きなカゴの中に女性だけが選別して詰め込まれている。共通して両腕はなくて、気分で首から上が両断されていた。
足元に幾らか零れている死体にも例外はない。誰もが悍ましい表情を固まらせながら、時に生きてこの部屋に踏み込んだ私を憎むような目で。この部屋に留まっている。
「…………ずっと一人だとさ、独り言が癖になったりするんだよね」
足元に転がって私を敵視する死体。拾い上げて、元の籠に戻した。
「資材置き場って事か。じゃあ本殿の中は式場かな。気持ちは良く分かるよ。機会を失ったモノ同士、通じ合うのかな。私もたまに夢で見る。好きな人と結婚した夢。もう敵わないのに、今でも心は恋してる。乙女心なんてまだあったんだ。もう自分は三十路を超えたおばさんなのにさ」
死体を片付けていく。その瞳を自分には向けないように。裏向きに。だらしない花嫁はそっぽを向かれるんだぞと、言い聞かせながら。
「したい。慕い。シたい。肢体。姿態。死体。女よれば姦しく、カシマしくも契りたい。傷を治す魔術はなく、自らを蘇生させる秘儀はなく、村を滅ぼせる呪いもなく、命を懸けて助けてくれる配偶者も、愛を通じて交わる恋も、道行く誰もが振り返る美貌もない。そんな現実でも―――それでも貴方は、やり直したいんだね。姦様」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます