逝達磨式ラブホテル

 俺だけに限らないと信じたいが、自発的なやる気を持った時に限って、何かが水を差しにくる。


 勉強をしようと思った時に限って親が口を出しに来たり。

 ゲームで次でやめるつもりで、勝ったらやめようと言い出したら中々勝てなかったり。

 ちょっとした悪さを自白しようとしたら、その直前に先生が機嫌悪そうに自白を促したり。

 計画通りの夏休みを過ごそうとすれば、妹が甘えに来て破綻したり。


 悪意とか、意図とか、そんな確実な物はなくて。ただタイミングが悪いだけの話だ。それを敢えて誰かの仕業だとするなら、俺は昔から、致命的に邪魔をされている。

「はぁぁぁぁぁぁ。ふぅぅぅぅぅ…………」


 覚悟は出来ていた。

 もう一足。

 もう一歩。

 トイレを塞ぐ男子達が一歩でも中に入ってくるなら、このバットを振るおうと思った。或いは股間を蹴られ、胴体を殴られて地面に伏す男子が水季君に手を出そうとするならやっぱりそれでも良かった。

 とにかくもう一押しが欲しい。自分では超えられない一線を越える為のきっかけが。今まで良しとされてきた己自身を殺す為に。彼らには無謀に生きて欲しかった。

 だが彼らは踏み込まないし動かない。怒りのボルテージは有限だ。何も起きないならこれ以上怒りを維持するのは不可能。だから殺すつもりなら自分から襲い掛かればいい。出来るなら。

 股間を蹴り上げられた男子は悶絶こそしているが、その痛みも徐々に慣れてきた筈だ。反撃するなら今しかあるまい。何故そんな敵意を向ける。何故そんな睨みつける。


 何故攻撃してくれない?


 膠着状態は三十分以上に及んだ。どちらも決して動かない。俺には殺意も敵意も、無謀も狂気も十分。ただ無慈悲だけが足りなくて。だから動けない。怒りのエネルギーの源は、今となっては背中から聞こえる苦悶の声一つ。それを無視しているみたいなこの状態も不愉快だ。


「私の」


 そんな緊張感に縛られた空間を突き破った、一発の銃弾。


「旦那に触るなってえ!」

 

 二発。

 三発。

 四発。


「言ってんだろうがよおおおおおおおおおおおお!」


 五発。

 六発。

 銃弾が切れたら消火器で男子に殴りかかっていく女性が一人。それは確実に湖岸知尋先生だが、いつぞやの時と同じように顔つきが変わっている。焦点の合わない瞳でぼんやりと、血管を隆起させながら無慈悲に男子を殴っている。

 女子に対するトラウマか、あれだけの数が居て誰も抵抗出来ていない。突如平和主義に目覚めた訳でもなく、ただ蹂躙されている。


「やめ……」

「うがっ……ぐえ」

「ご、ぎょ、ごょぇあ!」

 

 それこそ俺が、覚悟していたように。何度も何度も。何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。

 俺のやりたかったように、徹底的に。

「ちょ、先生! もう、もういいです! いいですから!」

 あれだけ理性を支配していた狂気は抜け落ち、気が付けばいつもの自分。先生に声を掛けてその凶行を止めようと動き出す。消火器がボコボコに凹んでもお構いなしに殴り続ける先生に声を掛け続けて、何とか止めようと努力する。

「俺はもう大丈夫ですから! やめて! やめて先生!」

「……………………」

 それは自分の手でしたかった事。俺が覚悟を決めて、俺自身の手でやろうとした事。やめて欲しいのはその善性からではなく、はたまた常識とやらの揺り返しでもない。

「う……やめて……やめてくれえ…………!」

 何かが俺を止めようとする。誰かが俺にまともである事を強いている。それが正しい事であると知りながら、割り切る事も出来なかった。


 暴力を振るうのはいけない事で。

 殺人は許されざる罪で。


 だから、してはいけない?

「やめ……うあああ……あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

 暴力を非難する自分が居た。先生が来てしまったせいで、理性が人格を乗っ取っている。俺の、俺は。自分が最も嫌う行動を取っていた。

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ! ぎゃあああああああああああああああああああ!」

「…………新宮硝次君?」

 何故あんな真似をしたのか。もっといい方法があった筈ではないのか。致命的な幸運が、俺をまともで居させてくれた? 違うだろう、周りはまともである事を拒んだ。だから隼人も、日常を奪ったのだろう。

 ならば変わるべきは俺だ。何故変わらない? もう一歩踏み出せば楽になれたのに。誰か一人殺すだけで、こんなふざけた事は悩まずに済んだのに。

「お、落ち着いて! えっと、助けに来たっていうか……じゃなくて、何が起きたんだい!?」

「うるさあああああああああああああい! うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいあああああああああ!」



「ぐぅ………ぐす。うぅぅぅ……」



 ノイズだらけの耳に届いたのは、痛みに喘ぐ後輩の声。泣きそうになるのを堪えて、でも痛みが強すぎて堪えきれていない、そんなどうしようもなく、助けを求めている唸り。

 二極化した自責が、抑え込まれていく。

 振り返ると、水季君は泣いていた。あらぬ方向に折れた腕から目を背け、唇を噛みしめている。

「…………先生。彼を、保健室に」

「そ、それはいいけど……君は」

「俺は…………大丈夫。ちょっと落ち着いたから。頭冷やしてきます。駄目、ちょっと。もう一回は、踏みとどまれない気がする」
















 始業のチャイムは何事もなく鳴り響いた。カリキュラムを担当する教師も、授業を受ける生徒も居ない。綺麗なだけで、ここは廃校も同然だ。もしかしたら先生だけは遅れてやってくるかもしれないが、だからどうした。


 ここにあるのは死体だけだというのに。


 先生と別れた後、職員室を覗いたらそこには変わり果てた姿の女子が並んでいた。四肢を無残に切り分けられ、頭と胴体だけになった数々の女子。当たり前だが、中には男子を殊更に迫害していた者もいる。

 死体は、白く汚れていたり、必要以上に損壊していたりもした。これ以上の理由は必要ない。


『もしもし?』

『………………………』

『ん? 無言電話とはあたらしーね。どうしたの? この朱識様に話してごらんなさい』

『………………………』

『……話してくれなきゃ、分かんないぞー? 親友でもさ、察するのは無理だって。五時間くらいは待ってあげるから、話せ話せー』

『……頭が、おかしくなりそうだ』

 

 気づけば揺葉に電話していた。心の頼りは、今となっては彼女くらいしか居ない。先生は駄目だ。俺は、我が身可愛さのあまりあの人にまた殺しをさせてしまった。それが許せないし、思い出させたくもない。


『日常的に飛び交う暴力が、いともたやすく死ぬ人間が、多すぎる。俺は、どうすれば良かったんだ。殺しに行けば良かったのか。俺は、俺は、俺は!』

『あー。成程。ねえ硝次君さ、一つ聞いてもいい? 誰か殺そうと思ったの?」

『…………』

『殺さなかった?』

『…………』

『―――きっとね、神様でも居るんだよ。アンタに殺しをさせたがらない神が。殺しをするタイミングは今じゃないって。隼人君を殺した奴を見つけた時なんだって。違う?』

『でも。でも俺は! 助けが来なかったら!』


『私は、昔のままのアンタが好きだよ』


 情けなさから泣きじゃくる、その手前。揺葉は真面目な調子で、そんな告白をしてくれた。

『カラオケで電話貰った時に思った。ああ、変わってないんだなーって。きっとアンタはさ、あれだよね。自分の優しさを情けないって思ってる。まともなのがいけないって思ってる。本当にそう? そっちの事は知らないけど、アンタがまともだから協力してくれてる人が居るんじゃないの?』

『……! きょう、りょく』

『難しいのは何となく分かる。でも今のアンタまで否定する必要はないと思うなー私。だっていい奴じゃん。聖人君子とかじゃなくてさ……何だろ。分かんないけど、今度会った時に変わってたら私は嬉しくない。自分勝手だけどさ、アンタと二人で過ごした時間は心がときめきっぱなしだったわけ。んだから……変わる必要なんてない。今のアンタが、世界一かっこいいよ』


 涙が、我慢できない。


『揺……はぁ! おれ……うううげほ、ごほ。おれはああぁぁぁあぁぁぁぁぁぁ!』

『はいはい。泣き虫泣き虫。ほーんと懐かしいな……懐かしいと言えば、テレビ見た? なーんか最近の番組つまらないって感じてるのよね。オススメの番組とかない?』

『……ひく。ぐすっ。すん。見てない』

『あーやっぱり? つまんないかー。最近はもっぱらゲームくらいしかしてないのよね。そんな状況じゃ満足にゲームも出来てないだろうから、オススメ教えてあげる。今度感想聞かせてよね』


 揺葉には、助けられっぱなしだ。

 今の俺を肯定してくれた。他ならぬ親友が口にしてくれた。それが何より、己の判断よりも大切で。


『…………隼人には及ばないよ』

『んえ? まあ一般的にはそうだと思うけど。私は親友のよしみでアンタに点をあげる。大体考えてもみてよ。私がそんじょそこらの女の子だったら恋敵の多い隼人君より隠れ優良物件のアンタ狙った方が良いに決まってる。成功しやすいかもしれないし?』

『隠れ…………そんな事あるか?』

『アンタって無駄に優しいから自分に自信が持てない子とかは結構救われそう。そんな子が居ても気付かないか。ちょくちょく隼人君には報告貰ってたけど、告白自分から成功した事ないんだってね』

『……そうだよ。だから世界一かっこいいはまやかしだ』

『まあ成功させたいなら私にでもするこった。ちゃんとイエスって言ったげるから』

『―――結婚を前提に?』

『イエス』

『子供?』

『イエス』

『生まれ変わっても?』

『イエス』

『……この尻軽。絶対あれだろ。誰にでも言う奴じゃねえか』


 揺葉はケタケタと自虐っぽく笑ったかと思うと、表情の知れないトーンでハッキリと告げた。





『ばーか。私は昔からアンタ一筋だっつーの』

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