ほんの小さなおまじない
「今日は疲れたので、手を抜きました」
そう言って錫花が出した料理は三人分のカレーライスだった。確かにレシピは簡単かもしれないが、これを手抜きと非難する人間が何処にあろうか。調理風景をちらと見ていたが、自虐する割にはスパイスに拘っていた事をしっかりと覚えている。
ルーで汚れるのを嫌がって、先生が白衣を脱いだ。薄手の黒いセーター姿だけになると、途端に不吉っぽくなるというか、彼女の退廃的雰囲気がそういう印象を持たせている。
「いや、いい匂いだから気にしてないけどな。それより気になるのは辛さだけど」
「辛いのは苦手でしたか?」
「そういう訳じゃない。気になるだけだ。好きな辛さって人それぞれだろ。もしぴったり合ってたら嬉しいなって思って」
「…………ぃな」
「ん?」
気のせいだったか。錫花は一足先に自分の分を食べようとしていた。横に座っているのでその気になれば仮面の下を見られるが、それは多分着替えを覗く様なものだと自分に言い聞かせて鋼の意思で視線を曲げる(自由にしていいとも言われたが、特別外したい理由もない)。
次もこんなデートが出来ればいいのに、なんて我儘か。明日の絶望を知れば目の前のカレーのスパイシーな匂いさえ望郷の如く愛おしい。よくよく嗅いでみると何やら仄かに甘い香りもする。手を抜いたなんて保険をかけなくても、これは十分手が込んでいる。食事なんて食欲がそそればそれで十分だろう。
料理には詳しくないが、カレーにおいてスパイスを選ぼうと思ったら間違っても手抜きとは言えない。錫花は食材のグレードから手抜きだと言ったのかもしれないが、だとするならお嬢様の感覚はズレている。庶民にはこれで十分高級だとも。
「テンパリングなんて初めて見たけど、本当に慣れてるんだねえ料理」
「初めて見たはどうかと思いますが、有難うございます」
「……チョコ?」
女子の話についていけない。ともあれ一口を放り込むと、鼻から吹き抜ける刺激的で芳醇な香りに息が漏れた。
「……っ」
温度はそれだけ味が伝わりやすい。出来たてほかほかの、錫花シェフが腕によりをかけてくれたカレーは、在りし日の懐かしさを易々と吹き飛ばした。家では最近カレーを作らない。誰もリクエストしないからと単純な理由だが、これもまた、わざわざしたいと思うだけの理由もないのだ。
そして今日で満足してしまった。やはり自分の家で頼む事はない。
端的に言って、凄く辛い。俺は辛さに耐性がある人間ではないので尺度の正しさには自信がある。だがその辛さ故に、もう一口を強制されている。その一口が何故か、辛さをマイルドにしている。
身体が熱くなってきて、舌が麻痺してきて、やっぱりもう一口行きたくなる。夢中だった。のんびり会話でもしながらゆっくり食べ進める二人を差し置いてがっついている。恥ずかしさはない。こんな姿を見せても良いと思うくらいには、信用しているつもりだ。
「随分気に入ってるみたいだ。良かったね錫花ちゃん」
「………………宜しければ、お教えしますけど」
「あ、ほんと? いやはや、私も下らないプライドだって思ってるけど年下の子に教えを乞うのは情けないかななんて思ってたんだ。そういう申し出は実に有難い。また時間が出来たらその時に教えてくれよ。美味しそうに食べる姿って……私は良いと思う。なんかグッとくる」
「…………」
「ご馳走様」
燃料をありったけ加えられた蒸気機関車の様な暴走っぷりで、見事俺は一人前を完食した。凄い事でもないが先生は俺に惜しみない拍手を、錫花からは妙な視線を貰った。
「あーもうなんか、不安とかどうでも良くなってきたよ。明日になればなんとかなるよな。あー水水。水ー」
「お粗末様でした」
「凄く美味しかった。また、があるかは分からないけど。錫花の料理、好きだぞ」
デートの最中もそうだが、たまに彼女は言いたい事を視線に込めて伝えようとしてくる。何故黙るのかはてんで見当もつかないが、あんまり嫌な気持ちは感じない。
「…………そう言えば、これデートですよね」
「おう。家デートな。完全なる予定外だけど」
「……デートでは、男女がプレゼントを送りあうと聞きました。トラブルがトラブルでしたからあまり吟味は出来ませんでしたがこれを」
ぎこちなさそうに錫花が取り出したのは小さな箱だ。箱というと……何かアクセサリーだろうか。いつの間にそんな物を買う隙があったのかと考える事一秒。単独行動した時間で幾らでも買える。
「開けてもいいか?」
「どうぞ」
「私も見たいな」
先生もカレーを食べ終えて、後は錫花だけだ。机の中央で開ける事にする。当の本人だけは気にしない素振りで黙々と手料理を食べていた。
箱の中に入っていたのは、蒼い桔梗の花……のネックレス。
ほんの少し前なら女子に着け狙われて強奪されそうなくらい、綺麗で。俺にはもったいないくらい繊細だった。
「…………有難う。貰った事ないや、こんなの」
「へえ…………へえ」
「先生?」
「いや、何でもないよ。先生もその辺り口に出す程野暮じゃないから。ねえ錫花ちゃん?」
などと今にも人を揶揄いそうな態度で先生が錫花に尋ねたが、彼女は首を傾げるばかり。先生も拍子抜けしたように「あれ」と眉を顰めた。
「っじゃあ無意識? え……無意識なんて事ある? 私だけ? 私が恋愛脳だったとかそういう話?」
「何の話してるんですか?」
今度は二人して置き去りだ。先生はみるみる顔を赤くして終いには俯いてしまった。カレーが殊の外辛かった……と思わせるにはは遅すぎる。状況は掴めないが先生は凄く恥ずかしくなったのだ。
「次は、新宮さんが贈ってください」
「ん……ああ、プレゼントな。分かった、ちゃんとお返しするよ。頑張って選ぶ」
選ぶセンスがないとか、文句を言わないで欲しいとか。そんな卑下する様な事は言いたくなかった。何だかそれは、彼女の気持ちまで踏み躙っているみたいで。
「心からの返礼をお待ちしています。今日のデートは、楽しかったですね」
イレギュラーから急遽予定と形を変えたデートは、そんな彼女の一言で終了した。俺は普通に宿泊するつもりだったが、そういう訳にもいかない。明日は妹の友達とデートだ。その男が自分の家から出てこないなんて不自然極まりないし、そもそも妹に聞きたい事がある。
名残惜しいが、いつかは帰らないと。
それに、今回は上手く行ったが、デートって……見知らぬ女性を相手に成功出来るものなのかどうか。やっぱり帰るのが怖くなってきた。
玄関で十五分以上も錫花を抱きしめたのは、ほんの僅かに生じた不安がやがて抑えきれないくらい大きくなったからだ。他意はない。食後の片づけを終えた後、彼女は一人でやってきて、無抵抗で体を明け渡してくれた。
「デート…………変な事起きないといいけどな」
「デートの成功が目的ではない筈です。気を楽にしてください。背後にきな臭い雰囲気があって、新宮さんを調べる為にデートする。変に緊張しないで。情報を持ち帰れば成功ですから」
「…………そうだよな。そうだな。有難う。楽になった」
身体を離して身を翻す。先生はお風呂に入っているので見送りに来ないのは残念だが、あんまり待たせると妹が怒りそうだ。
玄関のノブに手を掛けた瞬間、背後に声が掛かった。振り返って、仮面を見遣る。
「新宮さん」
「ん?」
「今日、本当に楽しかったです。ネックレス早速付けてくれてありがとうございます。その…………これ以上言う事、ないんですけど。また誘ってください」
「また、か。そうだな、またデート出来たらどんなにか良いと思うよ。季節が季節だし、次があれば水着…………」
言いかけて、彼女の身体に釘付けになった。
相手は妹と同じくらいの中学生。俺も年頃の高校生ならそんな貧相な身体に興味などないと言い切りたいが、錫花の身体を貧相と言い出したらこの世の殆どは貧相になる。また、中学生と言っても妹と比べれば気品も立ち振る舞いも全然違う。その辺りが、多分意識してしまう原因。
これ以上はよそうと今度こそ扉を出ようとする。言ってしまえば口は災いの元で、錫花は俺の発言を聞き逃していなかった。
「新宮さん。私の水着、見たいですか?」
言葉は濁せても、気づいた時には首を縦に振っていた。慌てて扉を閉めたが……見られただろうか。
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