たそがれの貴方とわたし
「ふぅ。帰還か…………ふぅ……あああああ」
「先生。あんまり無理しない方がいいですよ。体力ないならないで別に」
「いや、これだけ荷物があって走らないはまずいだろ…………ああ、錫花、ちゃん。リビングで、何か冷たい、の」
「分かりました」
体力を顧みない逃走についてきたのは錫花だけで、先生はごらんの通り音を上げていた。玄関で寝転がるのも厭わず、己の疲労困憊を主張する彼女には生への希望がまだ感じられた。犬みたいに舌を出して死体になりつつある様子も、初めて会った時にはしてくれただろうか。
ほんの少しだけでも俺が気を許せる人間にカテゴライズされたなら嬉しい。
親しき仲にも礼儀ありと言うが、これはケースバイケース。そして多くのケースは気の置けない仲であった方が良い。俺も無茶をして走ったのと、この家に来て安堵したからかどっと疲れが脚に溜まって、思わず座り込んでしまった。ケロっとしているのは俺よりも更に若く、小さい中学生一人。運動神経にプライドを持つような経歴でもないが、凄く悔しい。
だが、余裕はなかった。精神的には誰よりも追い立てられていたのだ。どうも俺は未来から体力の前借りをして、たった今その辺りの矛盾を消す為の清算をされているらしい。そう考えないとこの不可解な疲労にはまるで説明がつけられない。
「……なんか、慌ただしいデートになりましたね」
「ほんと…………って誰のせいだと思ってるんだよ。お家デートなんてとんでもない……少し休まなきゃとてもとても」
「でも俺は楽しかったです」
嵐の前の静けさでも、嵐が来ると分かっていても。穏やかな時間は尊ぶべきだ。俺達は現在を生きる人間であり、未来の事など考えなくても死にはしない。朝も夜もなく、明日を楽しみにする感覚も知らなかったとして、それでもやはり死にはしない。知らなければ退屈などという概念もないだろう。
俺はこの呪いだか何だかをまともに生き残れるとは思っていない。そういう前提の話は好きだが、どう考えても上手く行くビジョンが見えてこない。刹那的な価値観は生への諦観から生まれたモノだ。
知り過ぎるから満ち足りない。知らなければ満ち足りる。
知らなければ、良かったのに。
そしてまだ知らないから、俺は今日を楽しめている。
先生はゆっくり欠伸をしながら上体を起こした。
「それは私もだ。時代もあるがね、自分の知らない世界に連れていかれて、ワクワクしたぞ。それと同じくらい戸惑いもしたが……買い物ってさ、別に買わなくても楽しいんだなって思い出したよ。結果よりも過程……なんで忘れてたんだろ。水を差すのもどうかと思って黙ってたんだ。楽しくなさそうって」
「……前の好きな人と買い物に行ったりとかは?」
「そこまで積極的だったら死んでたかもね。私は女の中じゃ一番奥手だった。情けなかったとも言う……君と出会うまでの二〇年間は空しい事ばかりだったけど、今は」
顔をじっと見ている事に気づかれた。先生は流した視線を更にズラして、恥ずかしそうに頭を掻く。息が上がっているからだろうが、その顔には心なしか朱が差していた。
気になって身体を横に向けようとした所で、お盆片手に錫花が間に割り込む様に入ってきた。その上には麦茶の注がれた湯呑が三つ。割り込むも何も元々俺と先生で挟む形だったので元の位置に戻ったとも言う。
「……何でこっちに持ってくるんだ?」
だから突っ込むべきは、リビングに用意するのではなく直に持ってきた事になる。錫花は首を傾げて見つめていた。
「お疲れでしたから、こちらに。どうぞ」
「あ、どうも」
半ば反射的に受け取ってしまう。本意でも不本意でも突然物を突き付けられると何となく受け取ってしまうのはきっと俺だけじゃない。やっぱりここに持ってくるのはおかしいという無言の抗議も、錫花はやっぱり理解していなさそうだった。
「……はあ。良く冷えてる麦茶だな。やっぱり疲れた時にこれは身に染みる」
「暑かったですからね。モールの中はクーラーが効いていたと思いますが、涼んでる場合でもありませんでした」
「本当に、今日はあれだけが駄目だったね。反省もしようがない、トラブルだ」
「また次がありますよ。いつか三人で今度こそ、デート出来たらいいですね」
「……お家デートの筈では?」
「それとこれとは話が別だ。予定が切り替わったんだからな」
そして感傷に浸るこの状況も、まだデート中だ。錫花なんて気楽にぺたん座りしているが、それがどれだけ無防備で、かつ俺の眼を引くかを考えもしていない。やっぱり気になる物は気になる。この状況で恋愛に現を抜かすのはどうかしているのだが、それはそれとしてこういう瞬間は自分が男であるのを自覚する。
錫花は仮面を被っているので、見えるのは首から下、身体だけとなる。そこにあるのは邪な感情だけだが、だからこそ見える美しさもある。豊満な膨らみに反するようなくびれと、陶器のように白く、滑らかで傷一つない足。太腿からつま先に至る全てが、彫刻家が最後に遺した傑作のようではないか。
あんまりじろじろ見るのは良くないと分かっていて、見惚れている。彼女がこちらを振り向かなければ、この時間は未来永劫続いていた。
「お家デートって何をすればいいんでしょうか」
「それは俺も分からん。分からないけど、個人的にはデートって緊張感だと思うんだ。勝負って言うか……デート経験ない奴の拗れた価値観かもだけどな」
「いえ、分かります。男女の仲を深めるにおいて、多少の緊張は必要かと思われます」
「って当主様が言ってたのか?」
分かりやすく目を丸くして、彼女は俺に拍手をくれた。純粋故に、或いは慕っているからか、絶対参考にしてはいけない人物の話を真に受けているような。
「私もそう思う。緊張感は大切だ」
先生も納得しているので、やはり真に受けてはいけない価値観だった。ここには恋愛弱者しか寄り合っていない。悲しい事に。
「でもお家デートって緩和だと思うんですよ。珍しく。ふとした側面にドキドキするみたいな。普段あんなにお洒落な子が、実は家では結構カジュアルな服装だったみたいな……ちょっと、自分でも何言ってるか分からなくなってますけど」
「って、央瀬隼人君が言ってたのかい?」
よっこいしょと立ち上がった先生が、見透かした様に聞き返す。それは間違いなく図星だった。
「……モテ男君とは思えない発言だ。本当、びっくり」
「俺がモテてたら、こんな取り乱したりもしないし、もっとデートだって楽しいですよ」
後を追う様にリビングへ。ふと気になって振り返ると、彼女が座ったまま俺を見つめている事に気づいた。
「錫花?」
「…………」
一人でに立ち上がったかと思うと、俺の横を過ぎてリビングへ。
「…………?」
気のせいだろうか。視線が凄く、柔らかかった。
結果的には一番最後に入る。二人がのんびりと過ごすこの家は、今となっては第二の我が家よろしく気持ちが軽い。実家の匂いとはまた違うが、リビングの明かりが視界に浮かんだ瞬間、心のどこかがホッとして、自分でもどうかと思うくらいだらしなくなる。
「お家デート、良く分かりませんが夕食にしましょう」
台所でエプロンを着けた錫花が着席を促すようにそう言った。先生の対面に座って、またお茶を淹れてもらう。先生は頬杖を突いて、ごちるように呟く。
「これ、デート?」
「デートですよ立派な。錫花の御飯、楽しみですよね」
先生は俺を一瞥し。それから何事もなかったように俯く。
それで、
水鏡錫花は料理の支度も忘れて、釘付けになっていた。
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