無害の盲点
どこかで見たような顔だが、誰だっただろう。彼自身との出会いを忘れる筈もない、あの凄惨な現場で後ろから声を掛けてくる様な言落ち知らずは彼くらいなものだ。そうではなくて顔に見覚えがある。詐欺の手口にありがちな『あれ』とか『それ』とかの曖昧な情報の段階ではない。もっと具体的なイメージとして、確かに顔を見た。何処かで。
「あれれ。もしかして覚えてないっすか? USBメモリ渡した人を覚えてないってマジで言ってます?」
「USB?」
「すまん。あの後ずっと外に居たから中身を覗く機会に恵まれてないんだ。中には何が入ってるんだ?」
「それはちょっと言えないですね。お楽しみにしておきたいっていう程でもないですけど、機密情報って喋っちゃまずいからこういうのに隠すんですよね。だから見てください。それともパソコン無い感じのレトロな家庭ですか? だったら僕が貸しますよ」
「いやまあスキルはないけど……帰ったら見る予定だった。本当だ」
先輩としての威厳を失わない為にも見栄を張ったが、まず先輩として振舞っていた事がないと思い直すと恥ずかしくなってきた。夜枝は俺をセンパイ呼びするが、それは揶揄い目的と単なる事実が半分半分で、実際俺が部活において上下関係を築いた訳じゃない。帰宅部が一番楽だから帰宅部だった。成績との兼ね合いもある。
「本当ですか? まあいいっすよ、僕は気にしてません。にしてもここ、本当に静かでいい場所ですよね。先生みたいな大人の女性にはピッタリじゃないすか?」
「……すまない。恐らく初対面だと思うんだけど」
「やだなあ。先生。学校に居るのに初対面って事はないですよ。あ、でもあんまし保健室行かないからかな。だったら分かりますね」
彼は知らないが、先生は顔を記憶出来ない代わりに声で判別をつけている。裏を返すと声を聞いた事がないなら面識があっても先生に思い当たる節はないという事だ。酷いなあと傷ついた風を装って、彼はやはり何も感じていない。何処か他人事だ。たった今学校に居ると言ったのに。
「……何で君は、そう平然としていられるんだ。同じ学校なんだろ?」
「いやどう考えても違う学校の制服っしょ。見えないですか? 僕って実はオバケ?」
「茶化すな! 何で君は影響を受けてないんだ……? 何か秘密でも知ってるのか?」
「秘密、秘密かあ。難しい質問っすよね。秘密のない人間なんてこの世に居ませんもん―――所で後ろの方からこっちを警戒してる子の方が怪しいと思うんですけど、知り合いですか?」
この中で怪しい奴と見た目だけで判断すれば錫花一択だ。彼女は俺と先生の後ろに隠れてじっと割れていない方の仮面で水季君を見ている。茶化しを咎めた手前、俺の方から人見知りか何かと茶化すのはやりたくない。ここで会ったのが偶然である限り二人を引き合わせてどうのこうのという思惑は一切ないので、もう放っておいても良い気がしてきた。
「―――君が苗字を名乗らないなら、別に紹介する義理はないんじゃないか? 彼女が警戒してるのもそれが理由なんだから」
「あちゃー。そう来ますか。いや、先生は枯れてる感じがするから別にいいんですけど、女子はちょっと危ないですよね。やっぱり安全な場所に居ても怖いもんは怖いっす。殺人鬼の趣味嗜好から自分が外れてるつっても、目の前に居るのはやっぱり殺人鬼ですからね」
「…………枯れてる、か。まあ、そうなんだろうね」
「仮面を被ってるのに女子と分かるもんか」
「逆に男子でセミロングの奴っていますか? 居ないって決めつけんのも、特に僕はちょっと出来ませんけど。後は同じ男として見ちゃうもんは見ちゃうっていうか……すんません。これ言っちゃうと後で姉ちゃんがダル絡みしてくるんで控えます」
「ええ。何か気になるな」
「こればっかりはまたUSBにでも納めとくくらいしか思いつかないですね。いやほんと、すみません。貧乳で」
…………隠すつもりが全くなかった事に気づいた俺の心情を答えよ。三〇点。
何故謝られたかはさておき、年頃の中学生が何処を見たのかを俺の方が察するべきだったかもしれない。 Iカップなんてどこでも見られる様な大きさでもないし、それを見れば確かに錫花が女子だと分かる。
「……君のお姉さん、来ないね。友達に生粋の方向音痴が居たから分かるけど、迎えに行った方が早かったんじゃない?」
「あーいや。これ多分姉ちゃん出てこれないっぽいですね。おーい姉ちゃん! 出てこないとーどうなるかなーって! いつもいつも弟に迷惑掛けといて自分だけ逃げるのがどんなに卑怯かって事を今すぐ日本中に!」
「わ、わあああああやめやめストップすと、ストっプ!」
声は随分遠くの方から聞こえた。てっきり植え込みの中にでも隠れているのかと思っていただけに常識的な場所でかえって驚いてしまう。単に花を壁にしゃがんでいただけだ。ここは見通しが良いからそれくらいしないと隠れられない。今度は見覚えのある……というかうちの制服を着た女子が運動神経を感じられないバタバタ走りで水季君の口を塞ぎにやってきた。寝癖をそのままにしてやってきたのか髪のいたるところをハネさせた女子は彼の口を掌で塞ぐと、俺に背中を向けて「わあああああああ!」などと発狂しだした。
「………………ああ! そうか! お前の弟だったのか!」
「え、あ……ふぇ……人違い、です……?」
挙動不審になった女子の苗字は
急に合点がいったのは、二人が双子なのかというくらい顔が似ているからだ。数年前の三嶺が髪を切れば水季君みたいだし、数年後の水季君は髪を伸ばせば彼女の様に。
「―――って事はああ……待ってくれ。分かった。分かったぞ。君はお姉さんに入れ替わって登校してるんだな!?」
「おー鋭いっすねー。お察しの通り姉ちゃんの制服を着て、いい感じのウィッグ用意して誤魔化してまっせ。いやあ僕も学校あるから本当はこんな事したくないんですけど、姉ちゃんがどうしてもって言うから―――」
「わ、わ、弟、やめろ! か、帰ろう、直ぐに帰らないとおおお……!」
それで、姉の方は先程からずっと挙動不審。顔を真っ赤にしてお手本のようにあたふたしながら勝手に目の前で転んだ。警察官は怪しい人物に対してコンタクトを試みるそうだが、これは警官でなくとも声を掛けるだろう。全身が挙動不審の少女は、何かよからぬものでも食べたかと心配になってきた。
「何で…………影響を受けてないんだ?」
そんな事はどうでもいい。
気になるのは、呪いの影響を女子なのに受けていないという事だ。生まれたての鹿よりも立つのが下手な三嶺に手を伸ばすと、震えた手が何度も掴むのを失敗して、そのたびに「ひい!」とか「きゃあああ!」とか、礼儀を気にしない俺でもちょっと疑問に思うくらい妙な反応を示してくる。
「ああもう、動くなって!」
「は、はいい!」
手を掴んで引っ張り上げる、ピンと張りつめた足を無理やり立たせたせいで後の距離が殆ど密着状態になった。三嶺は唇を噛んで顔を赤くしながら、瞬きも忘れて俺を見つめていた。
「…………なあ。何で影響を受けてないんだよ。三嶺」
「…………………………」
「あーちょっとちょっと。姉ちゃんそういうのまだ慣れてないんで離れていただいて。それと姉ちゃんの名前は
弟の気遣いは良く分からないが、パーソナルスペースの問題だろうか。一歩離れた所で同じ質問をする。
「…………? そうか。で、水都姫。お前は何で影響を受けてないんだ?」
「あ、あ、あ、あ! えっと。えっとえっとあああああごめんなさいごめんなさいごめんなさい―――」
「いや、怒ってないんだけど」
「ちが! えっと、あ、あ、あ、あのね硝次君! あ、硝次君ってのはなれなれしかったよねじゃあ新宮君かな。ど、どっちかわかんなくて―――」
「いやもう何でもいいよ。好きに呼んでくれ」
「しょ、硝次君! え、あああっと。そう。えっと。ち、力になれる事あったら、ああ、あ、アイツに言って!」
「え、そこ僕なんだ。姉ちゃんがやれよ」
「……不本意そうだぞ」
欲しかった答えは遂に得られなかった。水都姫は泣きじゃくりながら花園を出て行ったし、水季君の方はそれを追って出て行ってしまった。『ちゃんとUSBは確認してくださいね』と言い残して。
「…………何だったんだ?」
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