青い春を売りましょう
反射的に、逃げてしまった。
俺だけは絶対に安全という話は何処へ行ったのだろう。自分でも分からない危険信号が身体に走って、まともな理性が働く頃にはもう何処かに隠れていた。ここは何処かと言われたら保健室だ。知尋先生は居ないが、学校で一番安全な場所というと消去法でここになる。
本校舎の方に戻ってしまったが、他に隠れる場所とかなかった。考える時間があったら逃げていた。
「はあ、はあ、はあ、はあ…………」
まともじゃない、まともじゃない、まともな訳がない。あれは一体どういう状態だ。あの先に三人が居る筈だが、自分から女子の根城に行ってしまった。身動きが取れない。
「硝次君こっち来たの?」
「硝次先輩ー!」
携帯は返してもらったが、通知を切ってあって正解だった。家から―――主に妹の方から心配と抗議のメッセージが届いている。『友達にお兄ちゃん居ない事を怒られたじゃん。ばーか!』みたいな。そう言えば少し前は妹をダシにして無理やり学校を離脱するプランなんか考えてたっけ……もうそんな場合じゃないから、忘れていた。
―――な、何とかもう一度行かないと。
しかし外から聞こえる足音は絶え間ない。保健室に用はなくてもその前の廊下は幾らでも使われるので、当たり前だ。保健室から出るだけならいつでも出来るが、それをするとまず位置がバレて、次から『硝次は保健室に隠れる』という先入観が生まれる。そうなると結局先生に迷惑が掛かる事になって以下略。俺のやる事為す事全部が起きて欲しくない事に繋がる。これは誰かの陰謀? それともこの世の因果は俺が思ったよりずっと狭くて、無関係に見えても連鎖しているのか。
いろいろ考えた結果廊下から出るのはあり得ないという結論になった。窓から出て仕切り直すしかない。校庭に出ればそれだけ見通しが良くなるものの、伏せてればバレないと思うし、カメラとやらも確認しておきたい。
保健室を覗き込む女子が居ないのは、辛うじて不幸中の幸い。それでも視界に入る事があるなら慎重に行こう。ベッドの頭―――入り口の対角線上にある窓から出れば見つかるリスクは最大限抑えられる。
窓からも見えるが、一応外に出てから、しかとこの眼にやきつける。無数のカメラは一体何処から購入もとい強奪したのか。校庭の中心に全てのレンズを向けて円
を形作っている。何を撮影しているのかと思えば、まだ何もない。準備中だ。
―――体育祭より怖えよ。
あれはあれで保護者が入ると夥しい数のカメラが並ぶが、被写体は様々だ。だがこのカメラ群はどう考えても、中心に据えられた存在だけを撮影しようとしている。狙われた三人は化学室に居るが、それは何らかの準備だろうか。しかし既に何かされていなければ出ない様な断末魔の叫びではあった。
窓に身体が入り込まないよう慎重に、殆ど匍匐前進で特別棟まで回り込む。多少制服が汚れても気にしない。これは今後に関わる大事な事だ。夏の暑さもコンクリートの集熱も出来るだけ気にしない……は無理があるので、時々放熱はする。これを無視したら身体が焼肉になりかねない。
―――何が面白くてこんな事してんだよ。
公開処刑をして他の裏切者に圧力を掛けたいという狙いだったら話は分かる。だがその見せしめは今の視聴覚室への中継で十分ではないのか。だとしたら校庭のカメラは? もしかして全く関係ない誰かの仕業? 掲示板を見て俺達が行動するのを見越してその横で何かしているとか?
考えていても仕方ないのは分かっているが、考える事をやめてはいけない。変と言い出したら女子の全ての行動が変だが、木を隠すなら森の中と言わんばかりに、違和感が重なっている気がする。
三十分程かけてまた元の場所まで戻ってきた。化学室からはもう悲鳴が聞こえないが、代わりに大勢の人間が出入りしている音が聞こえる。女子が余程迂闊でもない限り窓から顔を出そうものなら俺は見つかるだろう。会話が聞こえればいいが、幾ら防音機能が無いと言っても窓と壁があればある程度音は遮られる訳で。こんなドタドタ足音がなっている中だと幾らかの会話は聞き逃しそうだ。
ガラッ。
「………………!」
口を掌で覆って吐息を殺す。真上の窓が開いたのだ。誰が開けたかなんてどうでもいい。開けた奴が少しでも身を乗り出して下を見ようものなら一巻の終わりだ。違和感さえ覚えさせてはならない。俺は空気だ、虚空だ、ここには存在しない。
「ねえ、こっちはやりすぎたでしょ。もう死んでるじゃん」
「拷問のプロとか居る訳ないわ。まあ二人はギリギリ生きてるからいいんじゃない?」
「おらおら男子共! 外に運ぶぞ!」
外に出る時に窓を使われたら一巻の終わりだが、そんな緊急脱出的な真似は流石にしないか。また大勢の足音が廊下の方へと流れていく。窓を閉められないか心配だったが、それどころじゃないくらい大切な工程らしい。足音が完全に遠ざかって、扉の締まる音を聞いてから中の景色も見ずに勢いで乗り込んだ。
そして視界が赤に染まった瞬間、極度の緊張と恐怖が誤魔化していた強烈な臭いが立ち込んだ。
「う…………!」
学校は綺麗に使おうなんて校則があった気もするが、学び舎としての機能がまず停止しているのに、誰が好んでそんな校則を守るのか。化学室には夥しい量の血液が飛び散り、一部の臓腑が焦げた状態で石ころみたいに打ち捨てられている。何故ついさっきまでこの臭いを感じなかったのか、いっそ幸運だったと思えるくらいきつい痕跡に俺はその場でえずいた。
「おぅ……ええええ…………ご!」
死体を見たのが初めてという訳じゃない。訳じゃないが、俺はその中心に居る。それだけでも全然違う。むしろ見た事のある経験がまだこの程度で済ませているというべきだ。掌に血が付着するのを気にしている場合じゃない。全身を使って姿勢を制御しないと、血塗れになる。
「はぁ…………ううぅ…………はあ」
麻薬は人を幸福感で駄目にするらしいが、幸福感を取り除き、ただ中毒性だけが残ったらこんな不愉快な気分になりそうだ。窓が一つ開いてたくらいじゃ逃げ切らない、いつまでも蔓みたいに絡みついてくる。
頭がクラクラして、目がチカチカして、無限に吐き気が押し寄せてくる。何か、臭いを塞ぐものが欲しい。栓とか、マスクとか。それもガスマスクがいい。普通のマスクにこの臭いを塞ぐ効果までは期待出来ないだろう。
「うわー凄い臭いだなあ。最悪だなあ。換気しなきゃ」
扉を開けて堂々と入って来た何者かはずんずん血だまりの中を歩いていくと、机に隠れて蹲っている俺の肩を叩いて、ハンカチを顔の前に差し出してきた。奪い取るように受け取って、口と鼻を抑える。完全に消せたりはしないが、これでもマシな方になった。
「ああ。僕の方は見ないでね。あんまり巻き込まれたくないからさ。ただほら、あんまりにも可哀そうだからちょっと手を貸してあげようかなっていうだけ。酷い部屋だよねえ、血塗れだ。拷問のアイデアが素人だから、うっかり人が死ぬのも仕方ない」
「………………誰だ? 男子、だろ。声的に。何もされてないのか?」
「んーまあ。黙ってたら意外と何もされないよね。いつもひやひやして生きた心地がしないし、女子を束ねる男がどんなもんか見てたら、どう見ても怖がってるじゃないですか。んー……ああどっちだろ。敬語とタメが混ざるんで、まあ無視してください」
「…………何が行われるか知ってるのか?」
「杏子さんを除く二人は校庭で撮影会? 男子の選別みたいな。言う事聞かない男子は殺すみたいですね。男子にどんな言う事聞かせるかはまあ……大体分かりません?」
「分からない」
「アンタに捧ぐ女としての部分を壊すっつー事で、強姦……ほかの女子は撮影かな。するってえと男子だけが一方的に弱味握られるんでここで生き延びた男子は今後も奴隷決定っつー話? 僕には関係ないっすけど」
姿なき男子は冷徹というか、自分が生き残るのに必死で薄情になっている。俺も同じ立場だったら見捨てるかもしれない。隼人と違って、そこまでお人好しな自信はない。
「―――何で俺に声を掛けたんだ?」
「んー。いや、普通の人って事が分かって良かったです。姉ちゃんもこれで一安心っていうか……あー喋り過ぎた。僕はこれで失礼しますね。最後にこれだけ置いて帰ります。どうせ止められないと思うんで、アンタも早く帰った方がいいよ」
足音が遠ざかったのを聞いてから、振り返って机を見る。USBメモリが置いてあった。ここでは見られないし、俺の家で……と思ったが、中のデータを覗くスキルが無い。ぶっちゃけると初心者だ。詳しい人間には信じられないかもしれないが、何が何だかさっぱり分からない。
止められない、と彼は言ったが。止めないといけない。どうにか二人だけは救出しないといけない。どうも俺の身体に染みついたこの臭いは全て杏子だった人間の残滓みたいだが、同じ様な結末を二人にも背負わせるのは酷だろう。
―――どうやって止めるか。
単に割って入るだけじゃ逆効果なのは想像に難くない。
全員の気が引けて、且つ救出の隙間が生まれる様なアクシデント。
学生であるなら、まあ一つくらいしか思いつかなかった。
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