平和的調教
「いや。あの。気にしなくていいですよ。不法侵入してるのはこっちなんで」
男子トイレの個室で女子とやり取りするこの不思議な緊張感。気持ちがわかる人間はこの世に存在しない。嬉しがっている場合でもない。時間帯が時間帯だ、いつ他の男子がここにやってくるとも限らないし、何より女子は現状俺にとって―――女子というだけで危険因子になる。
こんな言い方をすれば、俺を危険思想の持主だと警戒する人間が―――居てくれたら、いいのだが。生憎と本当に危ないし、誰も俺の状況を好転させてくれない。まだ惚れられる条件も分かっていない中(無関係の
「もしもーし? 聞こえてますかー?」
「…………お前、俺の事」
「はい」
「好きじゃないのか?」
トイレの中で、空気が凍り付いた気配を感じる。比喩的な物で、実際に特殊能力が働いたとかではないのだが。水洗機能を使うのも躊躇われる気まずさは確かにあった。
「…………………………えっと。すみません。多分先輩だと思うので、先輩だという前提で言わせていただきたいんですけど。頭沸いてるんですか?」
「…………! お前もそう思うか!」
別に尿意も便意も催していた訳ではない。直ぐに個室から飛び出すとまた隣の個室を空ける。鍵が掛かった音はしていなかったので当然開いていたが。自分でもどうかと思う。後輩と思われる少女の方は用を足していたかもしれないのに。
そうはならなかったのだが、その辺りの気が回らないくらい動転していた。
「だよな! そうなるよな! 俺がおかしい! おかしいんだよ!」
「ええ。ちょっとなんなのこの先輩。凄く控えめに言って頭がおかしい」
求めていた答えが、他でもない女子から貰えて感動している。タメ口も厭わず一目見ただけの先輩を軽蔑する後輩にはやはり俺も感動が止まらない。こんな所に、まだ手遅れでない。というか正常な人間が居たなんて。
「あの、キモいんで近寄らないで下さい」
「そうだよな…………ああよかった…………良かったよ……良かったよお……」
「え、やだ。泣かないで下さいよ。キモい通り越して訳分かんないから。あーもう滅茶苦茶。ちょっとトイレが混雑してたから借りに来ただけなのにマジで……」
バタンッ。
「おーい硝次君ー! いるー?」
ここは男子トイレだが、さっきから女子とばかり遭遇するのは何の間違いだろう。救いの女神に遭ったかの如く跪いていた心が脊髄反射で立ち直り、慌てて後輩女子の口元を抑える。間違っても妙な所は触らない様に、もう片方の腕はお腹に回した。
「むくっ―――」
「勝手に入ってくんな! 流石に見られてたらトイレに集中出来ないんだよ!」
「あー何だいたんだ―。じゃあ良かった。てっきり私から逃げたのかななんて。硝次君に限ってそんな事はないよね。私が好きになった人がする訳ないもんね。まあ? 私は理解あるカノジョですから? 退散してあげるー」
早瀬は聡明で、相対的に物分かりが良い方の女子であった。また扉の音が聞こえて立ち去る足音まで見届けて、ようやく後輩女子を解放する。冷静になったおかげかビンタも蹴りも受け入れる覚悟が出来ていたが、当の女子は今の出来事に頭の理解が追い付かず、それどころではないようだ。トイレのドアを少しだけ開けて注意深く外を観察している。
「…………何が、どういう?」
「―――お前、ここ最近学校で何が起きてるのか知らないのか? あ、一応俺は新宮硝次って言うんだけど」
「
お姫様カットと光を感じられない様な伏し目が、印象としてはどうしても強く残る。後はスカートをやけに短く履いている事とか、太腿の肉付きが良い所とか。トイレで下半身をガン見するのは倫理的にどうかと思うので言及しないが。
「私、つい今日の朝まで引き籠りだったので何も知りません」
「…………その割には、体型とか全然崩れてないような」
「運動は好きなので。引き籠る奴は運動が嫌いなんて偏見ですよ。学校に行かないという意味で引き籠りだっただけです」
理由は詮索するな、と後輩は目で睨む。自己紹介の流れで事情を説明されたら、たとえどんなにふざけていても、説明しなければなるまい。俺はまた頭の痛くなりそうな説明をしないといけなくなった事に、これまた頭を抱えながら話した。そろそろ爆発するかもしれない。
「俺は何でもない高校二年生、新宮硝次。モテモテ男の親友を突け狙う女子の背中を押してやったら翌日俺がモテるようになった。ストーカーはされるし家には侵入されるし寝泊まりされるし、今まで味方だった男子は集団で俺を虐める様になってそこから助け出されたかと思えば集団虐殺につきクラスが統合されてしまった。交際を拒否してたらその子の父親に殺されかけたし、モテてた筈の親友は女子に嫌われ放火され、挙句家族がバラバラになって天涯孤独の身になった」
「何を言ってるの?」
「そうだよな! そう思うよな…………でも本当なんだよ。少なくとも上の学年はそんな感じなんだ…………もしかして後輩はそうでもないのか? 一年生は至って健全?」
「―――いや、その。期待させておいて申し訳ないんですけど。その説明が訳分からないだけで、みんなの言ってる事が分かるようになってきました。そうですか、センパイが女子で持て囃されてる……」
八重は前傾姿勢になって俺の顔をじっと見ている。それから体に視線を下ろして、その次は足。繰り返すがここは男子トイレだ。俺が遠慮しているだけで変態はどう考えても彼女の方である。
「あんまりかっこよくないですね」
「まあ、うん。だからモテすぎて困ってる。全員過激派なのが特に嫌だ。さっきも見ただろ、俺が少し時間を置いただけでトイレまでかちこんでくるんだ。だからその……お前みたいな奴が珍しくて」
「だからあんな変な質問ぶつけてきたんですね。成程……するとセンパイは私を助けてくれたんですか」
「ん?」
「口」
「ああ…………いや、お前……あ。いや。霧里の為っていうか」
「お前でいいですよ面倒だから」
「お前の為というか、トイレで女子と二人きりって前例が出来たら追い払えなくなる。それが一番なのと…………普通に殺されるかもしれないから。ってのもある」
「成程。だったら有難うございます。でも面白そうなので一枚噛ませてくれませんか?」
「は?」
安心しきっていた本能が手遅れな警鐘を鳴らす。夜枝は歪に口元を歪めたが、人はそれを悪魔の笑顔という。
「そういう非日常、ちょっと味わいたかったんですよね。別に死んでもいいので、私も巻き込んでくださいよ」
「………………な、何言ってるんだ? そ、そ。そんなの許可する訳ないだろ!」
「いやあ、拒否権ないですよセンパイ。事情は分かりました。例えば今ここでセンパイの服を脱がせて性欲処理をしてあげてその写真をばら撒いたら、センパイのプライベートは完全に殺せますよね?」
???????
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後輩の発言が分からなくて、俺の言葉は咄嗟に彼女を真似してしまった。
「あの、キモいんで近寄らないで下さい」
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